第9話 英雄の遺書 ――守るために嘘をついたのではない。守れないから嘘を選んだ
夜の帝都は、静かすぎた。
嵐の前のような沈黙。
広場爆破事件から三日。
市民は分裂している。
「英雄を冒涜するな」
「真実を隠すな」
火種は小さいが、確実に燃えている。
私は、若い警吏とともに地下書庫へ降りた。
「黒衣の連中が動いている」
彼が言う。
「だが妙だ。あまりに統制が取れすぎている」
「英雄は、死んでなお組織を作る」
地下最深部。
封印庫。
本来なら、私ですら立ち入れない。
だが爆破騒動で混乱している今が唯一の隙。
重い扉を開ける。
そこにあったのは、一つの箱。
“アーサー私文書 開封禁止”
「……遺書か」
鍵は、既に壊されていた。
誰かが先に来ている。
箱の中には、一通の封書。
震える指で開く。
中の文字は、達筆で、冷静で、そして――迷いがある。
『もしこの手紙が読まれているなら、
帝都は既に私の嘘に耐えられなくなったのだろう。
私は正義を選ばなかった。
秩序を選んだのでもない。
私は、“耐えられる嘘”を選んだ。
真実は、常に正しいわけではない。
正しい真実が、正しい結果を生むとは限らない。
私は、帝都が崩れるのを恐れた。
だがそれ以上に恐れたのは、
市民が自分で選ぶ責任を負うことだった。
彼らは、まだ未熟だと思った。
だから私は、神話になった。
神話は便利だ。
責任を、未来へ先送りできる。
だが、もし――
真実を選ぶ者が現れたなら。
その者は、私より強くなければならない。
私より残酷で、私より優しくなければならない。
さもなければ、帝都は壊れる。』
沈黙が落ちる。
警吏が呟く。
「……彼は、自分が間違っていたと?」
「違う」
私は答える。
「彼は、分かっていて選んだ」
その瞬間、背後で気配。
黒衣の男たち。
「遺書を渡せ」
私は振り返る。
「なぜ守る」
「神話は秩序だ。
神話が崩れれば、人は刃を向け合う」
警吏が剣を抜く。
「なら、刃を向けない方法を考えろ」
黒衣の男が笑う。
「理想論だ。
英雄がいなければ、人は暴れる」
私は遺書を握る。
胸が、熱い。
北の高原での封印。
嘘の報いによる後悔。
英雄の墓の爆破。
全てが、ここに繋がる。
「……あなたはどうする」
警吏が問う。
私は答える。
「公開する」
黒衣が動く。
戦いは短く、激しい。
警吏が負傷する。
私は怒りで視界が赤くなる。
吸血種の力が暴走しかける。
その瞬間、遺書の一文が脳裏に浮かぶ。
“私より残酷で、私より優しくなければならない”
私は力を抑える。
黒衣を殺さない。
制圧する。
息が荒い。
「公開すれば、帝都は揺れるぞ」
「揺れればいい」
私は言う。
「揺れても立てる街にする」
地下を出る。
夜明けが近い。
私は広場へ向かう。
再び群衆が集まっている。
私は遺書を掲げる。
「英雄は、神ではなかった」
ざわめき。
「彼は、恐れた。
私たちを信じきれなかった」
沈黙。
「だから今、選び直す」
紙を読み上げる。
広場は静まり返る。
怒号は起きない。
代わりに――
泣き声。
誰かが言う。
「それでも、アーサーは救った」
別の声。
「でも、嘘は終わらせるべきだ」
議論が始まる。
暴動ではない。
対話だ。
私は、初めて気づく。
アーサーは間違っていたのではない。
時代が、彼を追い越したのだ。
警吏が隣に立つ。
「これで、終わりか?」
「いいえ」
私は遺書を閉じる。
「ここからが始まり」
遠くで、黒衣の男が見ている。
神話は崩れた。
だが、組織は残った。
夜が明ける。
帝都は揺れている。
だが、まだ立っている。
私は呟く。
「――私は、あなたより強くなれるだろうか」
答えは、まだない。
だが初めて、
恐怖よりも希望が勝っていた。




