第4話 歌姫の密室毒殺未遂 ――声は嘘をつける、だが沈黙は選べない
歌姫という存在は、最初から自由ではない。
喝采とは檻の内側から鳴らす音であり、
拍手とは、逃げ道を塞ぐための合図だ。
帝都歌劇場は、夜の光を吸い込んで沈黙していた。
赤い絨毯、金の装飾、剥がれかけた天井画。
三〇年前と、ほとんど変わらない。
人間は建物を保存する。
だが、そこで行われた選択までは保存しない。
私は関係者通路を歩く。
止める者はいない。
吸血種である私の存在は、必要な時だけ薄くなる。
事件は三〇年前。
“歌姫の密室毒殺未遂”。
エレノア・ヴァイス。
帝都が誇ったソプラノ。
彼女は本番直前、楽屋で倒れた。
公式記録は「自殺未遂」。
アーサーの推理も、そうなっている。
だが、黒い手帳は否定していた。
『毒は致死量ではない。
声帯を破壊するため、計算されている』
楽屋の扉を開ける。
今は倉庫。
だが匂いは残っている。
古い化粧品。
紙。
汗。
そして――恐怖。
私は壁に触れ、過去をなぞる。
舞台直前。
喉を潤すために飲んだ水。
そこに混ぜられた、微量の毒。
死なない。
だが、歌えなくなる。
犯人は、殺すつもりはなかった。
歌姫という存在を終わらせるつもりだった。
「……ひどく、人間的だ」
拍手が聞こえた。
乾いた、二、三人分の拍手。
振り向くと、初老の男が立っていた。
劇場支配人。
三〇年前も、同じ立場にいた男。
「まだ嗅ぎ回っているとは」
彼は笑う。
「過去は美しく閉じるべきだ」
「あなたが毒を入れた」
断定だった。
彼の匂いが、否定を許さない。
男は一瞬だけ黙り、やがて肩をすくめた。
「歌は商品です。
老いは欠陥。
衰えは裏切りだ」
その言葉は、あまりにも慣れていた。
「彼女は落ち始めていた。
観客は残酷だ。
だから私は――交代を用意した」
「声を奪うことで?」
「殺すより、慈悲深い」
その瞬間、私の胸の奥で、何かが冷たく折れた。
慈悲。
正義。
人間は、それを自分の都合に合わせて磨く。
「アーサーは、あなたを裁かなかった」
「賢明な男だ」
男は満足そうに言う。
「劇場が潰れれば、多くが路頭に迷う。
一人の歌姫より、帝都の誇りを選んだ」
私は、一歩近づいた。
「彼女は、今も歌っている」
男の目が揺れた。
「……何を言っている」
「声は戻らなかった。
だが彼女は、子供たちに歌を教えている」
私は、少しだけ言葉を探した。
「小さな声で。
それでも、確かに」
沈黙が落ちる。
それは音より重く、長かった。
「……それなら、もういいだろう」
男の声が震えた。
彼は初めて、老いを見せた。
「彼女は生きている。
劇場も守られた。
誰も死んでいない」
「いいえ」
私は、手帳を閉じた。
「あなたは、彼女の人生を終わらせたつもりだった。
それが失敗しただけ」
「今さら暴いて、何になる!」
男は叫ぶ。
恐怖と、後悔が混じった匂いが立ち上る。
「彼女は救われない。
あなたも救われない。
それでも――」
私は、少しだけ声を低くした。
「沈黙を強いられた時間は、戻らない」
それだけ告げて、私は背を向けた。
翌日、公文書は書き換えられる。
“自殺未遂”の文字は消え、
“他者による毒殺未遂”となる。
その一文は、帝都の歴史に残る。
英雄の名推理は、静かに訂正される。
夜の劇場を出る。
空気は冷たい。
私は思う。
これは裁きだったのか。
それとも、ただの記録か。
答えは出ない。
だが、私は嘘を選ばなかった。
次の頁をめくる。
――『北の高原、首なし公爵事件』。
声を奪う話の次は、
首を失った真実だ。
外套を翻し、夜へ溶ける。
胸の奥に、微かな重さを残したまま。




