第2話 「帝都・連続小指切断事件(前編)――血は嘘をつかない、だが人は嘘を選ぶもの」
帝都は、嫌な場所だ。
石畳に染みついた血の匂いは、八〇年経っても薄れない。
人間は忘れるが、街は覚えている。
「……ここだった」
私は足を止めた。
かつて最初の被害者が倒れていた路地。今は花屋の裏口になっている。
花の香り。
腐敗した水。
そして――混じっている。
新しい血だ。
「おかしいな」
私は眉をひそめる。
この事件は、すでに終わったはずだ。
帝都・連続小指切断事件。
犯人は捕まり、裁かれ、獄死した。
――それが、アーサーの「答え」だった。
私は黒い手帳を開く。
『捕まった男は、怯えすぎていた。
本物の犯人は、もっと犯行を楽しむ人物だった』
当時は意味が分からなかった。
今なら、分かる。
「……続いている」
私は花屋の裏口に近づいた。
血の匂いが、確かに残っている。
その時だった。
「だ、誰だ!」
男の声。
振り返ると、若い警吏が短剣を構えていた。
「そこは立ち入り禁止だろ!」
――人間。
しかも、恐怖と使命感が混ざった、面倒なタイプ。
「安心して。私は犯人じゃない」
「それを決めるのは俺だ!」
短剣が震える。
彼の視線は、私の白い肌と赤い瞳に釘付けだった。
……失敗した。
人目を避けるべきだった。
「ここで何があった?」
「答える義務はない!」
彼は叫び、次の瞬間――
背後の闇が、動いた。
――ズン。
鈍い音。
警吏の体が、私の前に崩れ落ちる。
「……え?」
血の匂いが、急激に濃くなる。
闇の中から現れたのは、
杖をついた老人だった。
白髪。
皺だらけの顔。
だが、歩調は異様なほど正確で、呼吸は乱れていない。
「やれやれ……」
老人は、倒れた警吏を一瞥しただけで、興味を失った。
「また余計な“部品”が増えた」
――部品。
その言い方で、背筋が冷えた。
老人の視線が、私に向く。
年老いた眼球の奥で、子供のような好奇心が光った。
「……君は」
その瞬間、分かった。
同じ匂いだ。
八〇年前。
切り落とされた小指の断面に残っていた、
執着と愉悦と、正当化された暴力の匂い。
「あなたが――」
「それ以上は黙れ」
老人は、まるで孫を嗜めるような、穏やかな声で言った。
「私はもう“終わった人間”だ。
英雄が裁いた。
それで十分だろう?」
彼は警吏の右手を掴んだ。
力は弱い。
だが、指の位置に一切の迷いがない。
「やめ――」
――ザン。
音は、あっけなかった。
血が噴き出す。
警吏の悲鳴が、路地に響いた。
私は、動けなかった。
――殺せた。
一瞬で、灰にもできた。
だが、どう終わらせるべきかを考えた、その一瞬が致命的だった。
老人の目に浮かんだのは、
興奮ではなく、安堵だった。
「ほら……やはり、正しい形だ」
彼は切り落とされた小指を見つめ、
壊れ物を扱うように、丁寧に地面へ置いた。
「アーサーは、よく分かっていた。
私を捕まえれば、帝都は燃える。
だから、あの男を代わりに差し出した」
私の胸の奥で、何かが軋んだ。
これは、正義か?
それとも、ただの先送りか?
「……あなたのせいで、誰がどれだけ苦しんだか」
「知っているとも」
老人は、穏やかに微笑んだ。
「だから、私は八〇年、丁寧に続けてきた」
その言葉に、私は初めて――
怒りに近いものを感じた。
「アーサーの嘘は、今日で終わり」
私は一歩、前に出る。
老人は、嬉しそうに目を細めた。
「そうか。
では君は――真実の味を知る覚悟があるのだな?」
雨が、再び降り始めた。
血と雨が混ざり合う路地で、
私は理解した。
真実は、必ずしも救いではない。
――それでも、誰かが暴かなければならない。
そうしなければ、
私は、あの名探偵と同じになってしまうから。




