第1話 雨のち、遺言―名探偵は嘘をついた
名探偵は、嘘をついて死んだ。
そしてその嘘を、私が暴くことになる。
人間は、腐るのが早すぎる。
それが、私の最初の感想だった。
王都に降り注ぐ雨は、三日三晩止むことがなかった。
石造りの大聖堂の前には、黒い傘の海が広がっている。
国一番の英雄――稀代の名探偵アーサー・ペンドラゴンの国葬だ。
沿道に並ぶ人間たちは、濡れたハンカチで目頭を押さえ、嗚咽を漏らしている。
涙、後悔、尊敬、そして安堵。
雨に混じって漂うそれらの感情の残り香を、私は鼻で嗅ぎ分けていた。
私は傘をさしていない。
吸血種――ヴァンパイアである私に、風邪や体調不良といった概念は存在しないからだ。
棺の中で眠るアーサーは、九十歳だった。
かつて出会った頃の、カミソリのように鋭く、神経質そうだった碧眼の青年はもういない。
そこにあるのは、皺だらけの枯れ木のような死体だけだ。
人間は、老い、壊れ、やがて止まる。
何度見ても、慣れることはない。
「……シロ様、ですね」
不意に、横から声をかけられた。
黒い喪服に身を包んだ、線の細い青年。
眼鏡の奥の瞳が、ほんの少しだけアーサーに似ている。
血の匂いで分かる。
彼はアーサーの曾孫だ。
「祖父から、これを。葬儀が終わったら渡してくれと」
差し出されたのは、分厚い革張りの手帳と、一本の古い万年筆。
表紙には何も書かれていない。だが、匂いで分かる。
――これは、悔恨の匂いだ。
アーサーは晩年、誰にも見せず、この手帳にだけ本音を書き続けていた。
私は短く頷き、それを受け取った。
「ありがとう」
青年は何か言いたげだったが、
私の異様な白さと、人間離れした冷たい気配に気圧されたのか、黙礼して去っていった。
私は大聖堂を離れ、裏手の回廊へ向かう。
誰もいない場所で、手帳を開いた。
几帳面で、神経質で、見慣れた筆跡。
『親愛なるシロへ。
この手紙を読んでいるということは、私はもう土の下だろう』
鼻で笑う。
大往生だ。人間としては、これ以上ない。
『君には随分と世話になった。
私の「超推理」などと世間が持て囃したものの半分は、君の能力によるものだ』
吸血種である私には、人間にはない感覚がある。
血液に残る記憶。
場所に染みついた残留思念。
それらを嗅ぎ取り、整理し、人間の言葉に翻訳していたのが、アーサーだった。
『だが、シロ。私は嘘をついていた』
指が止まる。
『世間を混乱させないため。
王族を守るため。
あるいは、犯人の幼い娘を守るために。
私はいくつかの事件で、わざと間違った推理を披露した』
ページをめくるたび、空気が重くなる。
『当時は、それが正義だと信じていた。
だが死期が近づくにつれ、思うのだ。
真実を歪めたことで、救われなかった魂があるのではないかと』
次のページには、事件名と日付が並んでいた。
――『北の高原、首なし公爵事件』
――『歌姫の密室毒殺未遂』
――『帝都・連続小指切断事件』
どれも、名探偵アーサーが「解決」した事件だ。
犯人は処刑、あるいは投獄され、物語は終わったはずだった。
『私の寿命は尽きるが、君の時間は永遠だ。
頼む。私の推理を、覆してくれ』
身勝手な遺言だ。
生きているうちに自分でやればよかったものを。
だが、人間とはそういう生き物だ。
後悔を未来に押し付けて、先に死ぬ。
私は手帳を閉じ、雨空を見上げた。
八〇年前。
私がまだ、人間の感情を理解できず、
ただ命令に従う「道具」だった頃の事件。
――『帝都・連続小指切断事件』。
アーサーの走り書きが、最後に残っていた。
『真犯人は、まだ生きて笑っている』
「……暇潰しには、ちょうどいい」
私は万年筆をポケットにしまい、歩き出す。
葬送の列とは逆方向へ。
名探偵が眠る墓地には、背を向けて。
これは弔いではない。
名探偵が遺した「未解決の過去」を掃除するための、
極めて事務的な仕事だ。
ただ、一つだけ気がかりなことがある。
『追伸。
君がいつか、人間の「悲しみ」を理解できる日が来たら、
私の墓に花の一本でも供えてくれ』
私は胸に手を当てる。
心臓は動いていない。
体温もない。
悲しみの味を、私はまだ知らない。
だが――
それを知るための旅になるのかもしれない。
そう予感しながら、
私は雨の降りしきる王都を後にした。




