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『影を纏う拳 ~氷の少女と辿る世界への道~』  作者: number four


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第7話 『鉄の咆哮』

ジムの中に漂う、使い古された革の匂いとロジンの粉末。それは、俺、黒河くろがわ 慎しんにとって、最も心を落ち着かせる香りのはずだった。だが、今日の空気は違った。まるで嵐の前の静寂のように、肌を刺すような緊張感が空間を支配している。



血の匂いが混じる。


それは、戦いの匂いだ。

俺の心臓が高鳴る。アドレナリンが全身を駆け巡る。これは、トレーニングではない。これは、本物の戦いだ。


「慎、左のガードがコンマ数秒遅れているわ。ジャブを打った後、拳が戻る軌道が一定すぎて予測されやすい」


リングサイドでタブレットを手に、冷徹な声を飛ばすのは星野ほしの 雪乃ゆきのだ。


源次郎から「セコンド」としての役割を正式に任されて以来、彼女の分析は、もはや単なる観察の域を超え、精密機械のような正確さを帯びていた。


彼女のタブレットには、俺の動きのすべてが記録されている。パンチの速度、フットワークのパターン、呼吸のリズム。そして、その中から弱点を見つけ出す。


彼女は、俺の動きを誰よりも理解している。


「……わかっている。凱のことを考えていると、どうしても自分の動きが遅く感じるんだ」


俺は荒い息を吐きながら答えた。


凱。


その名前が、俺の心を縛る。兄であり、宿敵。俺が越えなければならない最大の壁。


源次郎から聞いた、異母兄――黒河くろがわ 凱かいの存在。かつてこのジムで「化け物」と呼ばれた男の影が、俺の拳を縛り付けていた。


父を殺した男。


そして、俺が倒さなければならない男。


「あなたは彼ではないわ。そして、彼になる必要もない。慎、今は目の前の標的にだけ集中しなさい」


雪乃の冷たい、だが確かな信頼を宿したスチールグレーの瞳が、俺の焦燥を射抜く。


その目は、俺を信じている。


俺が、凱ではなく、慎として戦うことを。


その時、ジムの鉄扉が轟音を立てて跳ね上がった。


ガシャーン!


重い金属音が、静まり返ったジム内に反響する。


全員の視線が扉に向けられる。


「よぉ、慎! 逃げ足だけは速いと聞いたが、ここにいたか!」


現れたのは、三年の神城かみしろ 龍二りゅうじだった。


背後には取り巻きを数人連れ、不敵な笑みを浮かべている。だが、その瞳に宿る執念は、ただの不良のそれではない。


彼はかつてこのジムでボクシングを学び、敗北を味わった男の目だ。


挫折を知る者の目。


そして、リベンジを求める者の目。


彼の体は、明らかに鍛えられている。筋肉の付き方、立ち方、すべてがボクサーのそれだ。


「神城さん……。ここは遊び場じゃない。帰ってください」


俺は冷静に言った。


だが、心の奥では、闘志が燃えている。


神城。


彼は、俺がスパーリングで一度も倒せなかった男。彼の拳は重く、速い。


「遊びじゃねぇよ。俺は『正式な』喧嘩を売りに来たんだ。慎、お前と俺、どっちがこのジムの最強に相応しいか、白黒つけようじゃねぇか」


神城は足元にスポーツバッグを投げ出した。


ドサッ。


中には、ボクシンググローブとバンテージが入っている。


「ルールはボクシング公式ルール、3ラウンド3分。ヘッドギアなしだ。もし俺が勝てば、お前はこのジムから出ていけ。そして雪乃――お前は、俺の下に来い」


その言葉に、俺の拳が握られる。


雪乃を賭ける?


ふざけるな。


ジム内の空気が凍りつく。


源次郎が動こうとするが、俺が手で制する。


これは、俺の戦いだ。


雪乃は眉一つ動かさず、神城を冷酷に見つめた。


「失礼ね。私を賭けの対象にしないで」


彼女の声は冷たい。


だが、その冷たさの中に、怒りがある。静かな、しかし燃えるような怒り。


「……慎、やりなさい。今のあなたには、過去の亡霊を振り払うための『生きた生贄』が必要だわ」


彼女は、俺を見た。


その目には、信頼がある。


俺が勝つことを、彼女は疑っていない。


「源さん、いいか?」


俺はリングサイドで腕を組む老将、源次郎を見た。


源次郎は無言でストップウォッチを掲げ、短く「上がれ」とだけ命じた。


その目には、何かが宿っている。期待か。それとも、試練か。


リングに上がる。


ロープをくぐる。世界が変わる。


ここは、俺の領域。俺の戦場。


グローブの重みが、拳に実感を伴わせる。


革の匂い。汗の匂い。そして、緊張の匂い。


マウスピースを噛み締めると、外界の雑音が消え、己の鼓動だけが大きく響き始めた。


ドクン、ドクン、ドクン。


心臓の音。生きている証。


神城がリングの反対側で、拳を打ち合わせている。


その目は、俺を見ている。獲物を見る目。


「慎」


雪乃が、俺の名前を呼んだ。


「彼は、あなたより経験がある。だが、彼には一つ欠けている。冷静さよ。彼は感情的になりすぎる。それが彼の弱点」


彼女は、タブレットを俺に見せた。


そこには、神城の過去の試合の記録がある。いつの間に、こんなものを集めたのか。


「彼の攻撃パターンは三つ。ジャブ、フック、アッパー。そして、彼は必ず左足から踏み込む。その瞬間が、あなたのチャンス」


「……わかった」


俺は、短く答えた。


「いいか、慎。お前は、凱じゃない。お前は、お前の戦い方をしろ」


源次郎の声が響く。


「お前には、親父にはなかったものがある。それは、信じてくれるセコンドだ。彼女の声を聞け。そうすれば、お前は負けない」


「……はい」


ゴーン!


開始のゴングが鳴り響く。


世界が動き出す。


開始のゴングと同時に、神城が猛烈な勢いで踏み込んできた。


「オラァッ!」


彼のスタイルは、暴力的なまでの重戦車スタイルだ。


ガードを固めて強引に距離を詰め、破壊力のあるフックで内側を抉りに来る。


ドン、ドン、ドン!


連打。


重い。


(重い……!)


腕越しに伝わる衝撃。一撃一撃が、俺の前腕の骨を軋ませる。


神城は単なる不良ではない。彼は、本物のボクサーだ。


彼は、俺が越えなければならない最初の「壁」として立ちはだかっていた。


「慎! 下がるな! 最小限のステップで位置をずらせ!」


雪乃の指示が、混乱しそうな俺の思考を繋ぎ止める。


彼女の声が、俺の脳に直接響く。


冷静になれ。


俺は神城の猛攻をスウェーで回避し、カウンターのジャブを放つ。


パン!


だが、神城はそれを顔面で受け止めながら、さらに深いフックを打ち込んできた。


「ははっ! 慎、お前のパンチには『熱』が足りねぇんだよ!」


神城の右クロスが俺の頬を掠める。


ズガッ!


熱い感触。視界がわずかに揺れる。


痛い。


だが、それは悪い痛みではない。生きている痛み。

ボクシング漫画さながらの、剥き出しの闘争心がジム内を満たしていく。


観客――ジムのメンバーたちが、息を呑んで見守っている。


さくらが、リングサイドで拳を握りしめている。


神城の攻撃は、俺の防御をじわじわと削り取っていく。


「慎、彼の左足を見て! 踏み込みの瞬間に僅かなラグがあるわ!」


雪乃の叫びに、俺は神経を研ぎ澄ませた。


左足。


踏み込みの瞬間。


神城の連打が止まらない。だが、その猛攻の隙間――雪乃が指摘した通り、左足が地を蹴る瞬間に、ガードが数ミリ開く。


見えた。


(あそこだ……!)


俺は神城の懐に飛び込む。


相打ち覚悟の踏み込み。


だが、神城はニヤリと笑った。


それは誘いだった。


「待ってたぜ、慎!」


神城の左アッパーが、俺の顎を狙って突き上がる。


時間が遅くなる。


アッパーが迫る。


避けられない。


だが――


「慎、右に!」


雪乃の声が響く。


俺は、本能的に頭を右に逸らした。


ズザァッ!


間一髪。


だが、皮膚を裂くような衝撃が鼻筋を走った。


熱い。


熱い液体が口の中に広がる。鉄の味がした。

血だ。


「慎、落ち着きなさい! 距離を取って!」


雪乃の声が、俺を現実に引き戻す。


俺は、バックステップで距離を取る。

神城が追ってくる。


だが、俺は冷静だ。


雪乃の声が、俺を導いている。


第一ラウンド、残り三十秒。


出血した俺を、神城は飢えた狼のような目で見つめている。


「終わりだ、慎!」


神城が、最後の猛攻を仕掛けてくる。


連打、連打、連打。


だが、俺は見ている。


左足。


踏み込みの瞬間。


そこだ!


俺は、カウンターのストレートを放った。

バァン!


神城の鼻を捉える。


彼の動きが止まる。


ゴーン!


終了のゴングが鳴り響く。


決着はつかない。第一ラウンドは、互いの魂を削り合う地獄の入り口に過ぎなかった。


俺は荒い息を吐きながら、コーナーへと戻った。


足が重い。


だが、まだ戦える。


雪乃が即座に氷を手に駆け寄ってくる。


「……まだ、終わってねぇ」


「ええ。勝負はここからよ、慎」


彼女は、俺の顔に氷を当てる。


冷たい。


だが、その冷たさが、俺を落ち着かせる。


「彼の『癖』はすべて把握したわ。左足の踏み込み、右フックの予備動作、そしてアッパーの軌道。すべて記録した」


雪乃は、タブレットを俺に見せた。


そこには、神城の動きの詳細な分析が表示されている。


「第二ラウンド。あなたは、彼の攻撃をすべて避けられる。そして、カウンターを決める。私が、タイミングを教える」


彼女の目は、冷たい。だが、その冷たさの中に、熱がある。


俺への信頼という名の熱が。


俺と雪乃の視線が交わる。


彼女の目には、迷いがない。


俺が勝つことを、彼女は疑っていない。


「……ああ。任せる」


俺は、短く答えた。


源次郎が、俺の肩を叩く。


「いいぞ、慎。お前は、一人じゃない。隣に、彼女がいる。彼女の声を聞け。そうすれば、お前は勝てる」


「……はい」


第二ラウンド。


俺たちの反撃が、ここから始まる。


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