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『影を纏う拳 ~氷の少女と辿る世界への道~』  作者: number four


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第6話 『地獄の向こう』

地獄という言葉は、この男のためにあるのかもしれない。


俺、黒河くろがわ 慎しんは、ジムの床に這いつくばりながらそう確信した。


汗が床に滴り落ちる。呼吸が荒い。心臓が胸を打つ。


これは、トレーニングではない。これは、拷問だ。


「立て、慎! 自分の影を追い越せと言ったはずだぞ!」


源次郎げんじろうの怒号が、鼓膜を直接殴打する。


彼の声は、容赦がない。弱さを許さない。限界を超えることを要求する。


今日のトレーニングは、徹底的な基礎体力の再構築だ。


10キロの重りを入れたベストを着ての反復横跳び。そして狂ったようなリズムで刻まれるステップ練習。縄跳び、シャドーボクシング、そして終わりのないミット打ち。


体が悲鳴を上げている。


筋肉が焼けるように痛い。関節が軋む。だが、止まることは許されない。


「……はぁ、はぁ……っ!」


視界が白く霞む。


腕が、足が、まるで他人の肉体のように重い。重力が、普段の何倍も強く感じる。


だが、その限界の向こう側で、雪乃の声が冷たく響く。


「慎、あと三十秒。心拍数が上がりすぎているわ。無駄な動きを削ぎ落として」


リングサイドでストップウォッチを握る星野ほしの 雪乃ゆきの。


彼女は、既に完璧なセコンドになりつつあった。彼女の観察眼は鋭く、俺の体の状態を正確に把握している。


心拍数、呼吸のリズム、フットワークの乱れ。すべてを彼女は見ている。


彼女の「氷のセコンド」としての才能は、源次郎をも驚かせるほどだった。


「いいぞ、星野! その調子だ。慎の動きを見逃すな。ボクサーは、自分の体の状態がわからなくなることがある。だから、セコンドが教えてやるんだ」


源次郎は、満足そうに頷いた。


三十秒。


それは、永遠のように長い。だが、俺は止まらない。雪乃が見ている。彼女の前で、弱い姿は見せられない。


「ゼロ! 終わりだ!」


雪乃の声が響く。


俺は、その場に倒れ込んだ。床が冷たい。その冷たさが、心地よい。


「よくやった、慎。今日のメニューは終わりだ。休め」


源次郎が、水の入ったボトルを投げてくる。


俺は、それを受け取り、一気に飲み干した。水が喉を通る。生き返る感覚。


休憩中、俺は荒い息を吐きながらベンチに座り込んだ。


全身が痛い。だが、それは悪い痛みではない。成長している痛み。強くなっている痛み。


源次郎がタオルを投げつけ、ふと重苦しい口調で問いかけてきた。


「……慎、お前、最近またアイツの夢を見てるんじゃねぇか? 凱かいの夢を」


その名を聞いた瞬間、俺の全身に冷たい悪寒が走った。


黒河くろがわ 凱かい。


その名前は、俺にとって呪いだ。逃れられない過去。乗り越えなければならない壁。

雪乃が怪訝そうにこちらを見る。


「凱……? 誰のこと?」


彼女は、その名前を知らない。当然だ。それは、俺が隠してきた過去だから。


源次郎は深く煙草を吸い込み、重い口を開いた。


「黒河凱。慎の異母兄であり、俺がかつて教えた中でも最高の『化け物』だ。慎の親父が世界へ行くための最後のスパーリング・パートナーだった男さ」


異母兄。


その言葉に、雪乃の目が見開かれた。


「異母兄……つまり、慎の兄?」


「ああ。だが、血の繋がり以外、何も共有していない。凱は、慎とは正反対の人間だ」

源次郎は、遠い目をした。


「凱は天才だった。生まれながらのボクサー。技術、スピード、パワー。すべてを兼ね備えていた。だが、アイツには一つ欠けていた。戦う理由だ」


俺は拳を強く握りしめた。


凱。


彼は俺と同じ血を分け合いながら、俺とは対極の存在だった。


天才的なセンスを持ちながら、戦う喜びを一切持たない殺人機械。感情を持たず、ただ勝つことだけを追求する。


「凱は、ボクシングを仕事としか思っていなかった。金を稼ぐための手段。有名になるための手段。だが、それだけだ。リングに立つ喜び、相手を倒す充実感、観客の歓声。そういったものに、アイツは何も感じなかった」


源次郎は、煙草を灰皿に押し付けた。


「そして、俺の親父が事故で亡くなったあの日のリングに、最後に立っていた男だ」


その言葉に、雪乃が息を呑んだ。


「まさか……」


「ああ。スパーリング中の事故だった。凱の一撃が、親父の頭部に直撃した。それが、致命傷になった」


俺の声は、震えていた。


あの日の記憶。


リングの上で倒れる父。駆け寄る人々。救急車のサイレン。


そして、何の感情も見せずに立っている凱。


「事故だった。誰も凱を責めなかった。だが、俺は知っている。アイツは、わざとやったんだ。親父が、アイツを超えようとしていたから。アイツは、それを許さなかった」


「慎……」


雪乃が、俺の手を握った。その手は冷たいが、温かい。


「アイツは今、海外のプロリーグで無敗のまま頂点に君臨している。……慎、お前が『世界』を目指すということは、いつかあの化け物と対峙するということだぞ」


源次郎の言葉が、重くのしかかる。


凱と戦う。


それは、俺の目標だ。だが、同時に恐怖でもある。


雪乃のスチールグレーの瞳が揺れる。


彼女は、俺の震える拳に、そっと自分の冷たい手を重ねた。


「……過去の亡霊に怯える必要はないわ。慎、今は私を見なさい。あなたの影は、まだ死んでいないわ」


その言葉が、俺の心を温める。


彼女は、俺を信じている。俺が、凱を倒せると信じている。


「そうだ、慎。お前には、親父にはなかったものがある。それは、信じてくれる仲間だ。親父は、一人で戦った。だが、お前は違う。隣に、彼女がいる」


源次郎は、雪乃を見た。


「星野、お前はこのバカの目になれ。耳になれ。声になれ。そして、心の支えになれ。そうすれば、このバカは無敵になる」


「……はい」


雪乃は、力強く頷いた。


練習が終わり、俺たちは家路についていた。


夕暮れの中、街は静かだ。


人々は家に帰り、店は閉まり始めている。


俺は隣を歩く雪乃に問いかけた。


「……怖くないのか? 俺のような、亡霊に追いかけられている男といるのが」


雪乃は足を止め、月を見上げた。


月は美しい。満月に近い。その光が、雪乃の横顔を照らしている。


「私は『半分』という孤独の中にいた。あなたは『過去』という孤独の中にいる。……それなら、二人で一つの新しい居場所を作ればいい。違うかしら?」


彼女は、凍てつく夜に一瞬だけ差す陽光のような、切ないほどに美しい笑みを浮かべた。


その笑顔が、俺の心を打つ。


「……そうだな。悪くない」


俺は少し照れくさくなり、視線を逸らした。

だが、心は温かい。


兄であり、宿敵。黒河凱。


彼を倒さなければ、俺の「世界」は始まらない。


そして今、俺の隣には、その闇を一緒に歩んでくれる少女がいる。


「慎」


雪乃が、俺の名前を呼んだ。


「1月13日。私の誕生日。その日までに、あなたは必ず凱を倒すための準備を整えなさい。私が、あなたを支える」


「……ああ」


俺は、短く答えた。


夜が更ける。


だが、俺たちの道は明るい。


なぜなら、俺たちには目標があるから。


そして、互いがいるから。









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