第5話 『伝説の視線』
放課後の湿った空気を切り裂き、俺、黒河くろがわ 慎しんはジムの鉄扉を開けた。背後には、すっかりこの場所に馴染みつつある星野ほしの 雪乃ゆきのが静かに従っている。
だが、今日のジムは何かが違った。いつもなら妹のさくらが騒がしくミットを叩いているはずだが、今はしんと静まり返っている。
空気が重い。
まるで、嵐の前の静けさのような、張り詰めた緊張感が漂っている。
「……慎、遅かったな」
ジムの奥、リングサイドの椅子に座っていたのは、白髪混じりの短髪に、彫刻のような深い皺を刻んだ老人だった。
源次郎げんじろう。
このジムの真のオーナーであり、俺の親父をかつて指導した伝説のトレーナーだ。日本ボクシング界に数々のチャンピオンを輩出した男。その眼光は、今も鋭く、まるでリング上の獲物を狙う鷹のようだ。
「源さん……。帰ってたんですか。合宿に行ってるんじゃ……」
「予定が変わった。それより慎、隣の嬢ちゃんは誰だ? ここは遊び場じゃねぇぞ」
源次郎の鋭い眼光が雪乃を射抜く。
並の生徒なら腰を抜かすほどの威圧感。それは、数十年のトレーナー人生で培われた、人を見抜く力。ボクサーとしての素質、精神力、覚悟。すべてを一瞬で見抜く目。
だが、雪乃は一歩も引かず、そのスチールグレーの瞳で老人を見つめ返した。
「星野雪乃です。黒河くんの……観察者、とでも呼んでください」
その声は冷静で、しかし力強い。まるで、源次郎の威圧感など意に介さないかのように。
「観察者だぁ? ほう、いい度胸をしてやがる。慎、お前には勿体ねぇくらいのツラ構えだ」
源次郎は、わずかに笑みを浮かべた。それは、興味深いものを見つけた時の表情だ。
彼は、雪乃の中に何かを見たのだろう。ただの観客ではない、何かを。
源次郎はゆっくりと立ち上がり、俺に向かって指を鳴らした。
「慎、バンテージを巻け。スパーリングじゃない。ミット打ちだ。お前の拳が、どれだけ鈍ったか確かめてやる」
俺は黙って従った。
バンテージを巻く。この動作は、俺にとって儀式だ。戦士が鎧を身につけるように、俺は拳を武器に変える。
雪乃がリングサイドの椅子に座り、食い入るようにこちらを見ているのがわかる。
その視線が、俺を緊張させる。いや、緊張ではない。意識させる。彼女が見ている。その事実が、俺に何か新しい感覚をもたらす。
リングに上がる。
ロープをくぐる瞬間、世界が変わる。ここは、俺の領域。俺が俺である場所。
源次郎が構えるミットに向かってジャブを放つ。
パン!
「遅い! 迷いがあるぞ!」
源次郎の声が怒号となって響く。
「お前の中に眠る『衝動』と『冷静』が喧嘩してやがる。隣にいる嬢ちゃんの前で格好つけてんのか? あぁ!?」
その言葉が、俺の心を刺す。
格好つける?
違う。俺は、ただ……
「……そんなんじゃねぇ!」
俺は一歩踏み込み、渾身のストレートを叩き込んだ。
バァン!
乾いた音がジムに響き渡る。俺の全体重を乗せた一撃。だが、源次郎はその衝撃を微動だにせず受け止めた。
「拳ってのは嘘をつけねぇ」
源次郎の声が、静かに響く。
「お前の拳は今、誰かを守りてぇのか、それとも自分を証明してぇのか、どっちつかずだ。そんなんじゃ、『世界』どころか、隣にいる嬢ちゃん一人守れやしねぇぞ」
その言葉が、俺の心臓を直撃した。
守りたい?
俺は、誰かを守ろうとしているのか?
いや、違う。俺は、ただ強くなりたいだけだ。世界チャンピオンになりたいだけだ。
だが、心の奥で、別の声が響く。
「お前は、彼女を守りたいんだろう?」
俺が息を切らし、膝をつきそうになったその時、雪乃がリングのロープを掴んで声を上げた。
「源次郎さん。……彼の拳が迷っているのは、守るべきものが増えたからではなく、自分の限界に気づき始めたからではないでしょうか?」
源次郎が動きを止め、雪乃を振り返った。
「限界だと?」
「ええ。彼は一人で戦うことに慣れすぎている。でも、ボクシングは一人でするものではないのでしょう? セコンドがいて、トレーナーがいて、そして応援する者がいる」
雪乃は立ち上がり、リングに近づいた。
「……慎、あなたの影が揺れているのは、あなたが誰かの助けを求めている証拠よ。一人で世界と戦おうとしているあなたは、強い。でも、本当の強さは、誰かと共に戦うことを知ることではないかしら」
その言葉は、まるで鋭いジャブのように俺の心臓を突いた。
誰かと共に。
俺は、常に一人だった。孤独こそが、俺の武器だった。だが、それは本当に強さなのか?
「ハッ! 面白い嬢ちゃんだ」
源次郎は、大きく笑った。
「慎、お前のお目付役は、お前の親父よりもお前のことを見てやがるかもしれねぇな」
源次郎はミットを外し、ニヤリと笑った。
「いいだろう。慎、明日からは地獄だぞ。そして星野、お前もだ。お前にはこのバカの『目』になってもらう。セコンドの基礎を叩き込んでやる」
雪乃の目が、わずかに見開かれた。
「セコンド……ですか?」
「そうだ。ボクサーは、リングの上では一人だ。だが、その周りには必ずセコンドがいる。セコンドは、ボクサーの目であり、耳であり、声だ。戦術を伝え、励まし、時には叱る。お前には、その役割が似合うかもしれねぇな」
源次郎は、椅子に座り直した。
「慎の親父は、優秀なボクサーだった。だが、セコンドとしては二流だった。感情的になりすぎる。だが、お前は違う。冷静で、分析的だ。お前なら、このバカを世界に連れて行けるかもしれねぇ」
「……望むところです」
雪乃は冷たく、だが力強く答えた。
その瞳には、新しい決意が宿っている。
俺は、リングのロープにもたれた。
セコンド。
それは、俺が考えたこともなかった役割だ。俺は、常に一人で戦ってきた。だが、これからは違う。
隣に、彼女がいる。
「慎」
雪乃が、俺の名前を呼んだ。
「1月13日。私の誕生日。その日までに、あなたは必ず強くなりなさい。私が、あなたの目になる。あなたの耳になる。あなたの声になる。だから、あなたは、ただ拳を振るえばいい」
その言葉に、俺の心が熱くなった。
「……ああ。任せる」
俺は、短く答えた。
源次郎は、満足そうに頷いた。
「よし、じゃあ早速始めるぞ。星野、そこのノートとペンを取れ。お前の最初の仕事は、慎の動きを記録することだ。パンチの速度、フットワーク、呼吸。すべてを観察し、記録しろ」
「はい」
雪乃は、キリル文字のノートを取り出した。そのノートには、既に何かが書かれている。彼女は、既に俺を観察し始めていたのだ。
「慎、もう一度だ。今度は、迷うな。お前の拳は、何のためにあるのか。それを思い出せ」
源次郎が、再びミットを構えた。
俺は、深呼吸をした。
拳は、何のためにあるのか。
それは、世界を掴むため。
そして、隣にいる彼女を守るため。
俺は、一歩踏み込んだ。
ジャブ、ジャブ、ストレート。
今度は迷わない。拳は真っ直ぐに飛ぶ。
「いいぞ! その調子だ!」
源次郎の声が響く。
雪乃が、ノートに何かを書き込んでいる。彼女の目は、俺の動きを追っている。
その視線が、俺を力づける。
俺は、もう一人じゃない。
隣に、彼女がいる。
そして、背後には、伝説のトレーナーがいる。
俺たちの物語は、伝説の老トレーナーを巻き込み、新たなステージへと加速し始めた。
夜が更ける。
ジムの明かりが、俺たちを照らす。
汗が流れる。
だが、それは心地よい。
これが、俺の生きる場所。
これが、俺の戦場。




