第4話 『視線の檻と』
翌日、学校の教室は相変わらずの喧騒に包まれていた。だが、俺、黒河くろがわ 慎しんの周りだけは、昨日までとは違う「妙な空気」が漂っている。
「……おい、見たかよ。昨日の放課後、黒河が星野さんと一緒に帰ってたってマジか?」
「嘘だろ。あの『氷の女王』と『死神ボクサー』が? 地獄のカップル誕生かよ」
クラスメイトたちのヒソヒソ話が、俺の鋭い聴覚を不快に刺激する。
視線。
それは、物理的な攻撃よりも厄介だ。見えない、だが確実に存在する圧力。人間は、集団の中で異質なものを見つけると、本能的にそれを排除しようとする。俺は、常にその「異質なもの」だった。
俺は窓の外を眺め、深くため息をついた。
ボクシングのリングの上なら、飛んでくるパンチはすべて見えるし、対処もできる。だが、この「視線」という名の不可視のジャブは、ガードの隙間を縫って俺の神経を逆撫でしてくる。
教室という閉鎖空間。ここでは、暴力は許されない。だが、言葉の暴力は黙認される。それが、この社会の矛盾だ。
隣の席の星野ほしの 雪乃ゆきのは、まるで何も聞こえていないかのように、優雅にキリル文字のノートを広げている。その横顔は、完璧な静寂の中にあった。
彼女は慣れているのだろう。この視線に。異質な存在として見られることに。彼女の氷の鎧は、こうした攻撃から自分を守るために作られたのだ。
「……注目されるのは、あなたの趣味かしら? 黒河くん」
雪乃が、ノートから目を離さずに声をかけてきた。その声は相変わらず冷たいが、昨日の夜、橋の上で見せた微かな笑みが頭をよぎる。
あの笑顔。それは、彼女の本当の顔だった。氷の下に隠された、温かい部分。
「俺の趣味なわけないだろ。お前こそ、平気なのかよ」
「私は昔から異端児として扱われることには慣れているわ。でも、あなたのように『物理的な暴力』と結びつけられるのは、あまり気分のいいものではないわね」
彼女はそう言うと、ノートをパタンと閉じた。そのスチールグレーの瞳が、一瞬だけ俺を捉えた。
その目には、非難ではなく、むしろ共感があった。俺たちは似ている。異質な存在として、社会の周縁に追いやられた者同士。
「……悪かった。お前を巻き込むつもりはなかった」
「巻き込まれたわけじゃないわ。私が自分で選んだの。あなたの『家』を見ることを。あなたと歩くことを」
その言葉に、俺の心臓が一度、強く跳ねた。
教室の空気が変わる。周囲の視線が、さらに強くなる。だが、俺たちは気にしない。いや、気にする必要がない。
朝のホームルームが始まる。田中ヴィクトリア先生が教室に入ってきた。
「はい、おはよう! みんな、今日も元気? 特に慎と雪乃、あんたたち二人、昨日の掃除はちゃんとやったわよね?」
「「はい」」
俺たちの声が重なる。
ヴィクトリア先生は満足そうに頷いた。彼女は、俺たちの関係性を理解している。いや、もしかしたら、最初から意図的に俺たちを近づけたのかもしれない。
「よろしい。じゃあ、今日の連絡事項。来週の土曜日、学園祭の準備があるわ。クラスで出し物を決めるから、今日の放課後、残れる人は残ってね」
学園祭。
俺にとって、それは最も苦手なイベントだ。集団行動、協調性、社交性。俺に最も欠けているものばかりが要求される。
だが、今年は少し違うかもしれない。隣に、彼女がいる。
昼休み。俺が屋上で一人、プロテインバーを齧っていると、屋上の扉が勢いよく開いた。
「黒河慎くん、ここにいたんだね。探したよ」
現れたのは、生徒会副会長の一条いちじょう 蓮れんだった。
端正な顔立ち。整った制服。完璧な姿勢。彼は、この学校の「模範生徒」だ。成績優秀、品行方正、教師からの信頼も厚い。
だが、俺は知っている。その完璧な仮面の下に、何が隠されているかを。
彼は、俺のような「問題児」を排除しようとする勢力の中心人物だ。表向きは「学校の秩序を守るため」と言うが、本音は違う。自分の地位を脅かす可能性のある存在を、事前に潰しておきたいだけだ。
「一条か。何の用だ。俺は校則違反なんてしてないはずだが」
「いや、違反じゃないよ。ただ、君が星野さんと親しくしているという噂を聞いてね」
一条は、計算高い笑みを浮かべながら近づいてくる。
「彼女は我が校の大切な『国際的アイコン』だ。ウクライナと日本のハーフという貴重な存在。学校としても、彼女には特別な配慮をしている。だから、君のような、暴力沙汰が絶えない人間が隣にいるのは、彼女の評判に傷がつくと思わないかい?」
一条の言葉は、まるで鋭いジャブのように俺の自尊心を突いてくる。
暴力沙汰。
それは、去年の一件を指している。校外で絡まれて、正当防衛で反撃した。だが、学校は「暴力を振るった」という事実だけを見た。文脈は無視された。
「彼女が誰といるかは、彼女が決めることだ。生徒会が口を出すことじゃない」
俺は立ち上がり、一条の目を真っ向から見据えた。
「……それとも、俺と『スパーリング』でもして、どっちが相応しいか決めるか?」
一条の顔がわずかに引き攣る。
俺の放つ「殺気」は、素人には耐え難いものだろう。ボクシングで培った、相手を威圧する技術。それは、リングの外でも有効だ。
「……ふん。暴力しか脳がない人間はこれだから困る。失礼するよ」
一条は吐き捨てるように言い残し、立ち去った。
俺は拳を握りしめた。
やはり、俺のような人間が静かに暮らすのは、この国では難しいらしい。常に誰かが、俺を排除しようとする。俺の存在そのものが、彼らにとって脅威なのだ。
だが、俺は屈しない。
俺には、目標がある。世界チャンピオンになる。そのためには、こんな小さな障害は乗り越えなければならない。
午後の授業。
俺は窓の外を見ていた。雲が流れている。風が吹いている。世界は動いている。
だが、この教室の中は、止まっている。時間が流れているようで、実は何も変わっていない。
「黒河くん、授業中よ」
雪乃が小声で言った。
「……わかってる」
俺は教科書を開いた。だが、文字は頭に入ってこない。
一条の言葉が、頭の中でリフレインする。
「暴力沙汰が絶えない人間」
それが、俺のレッテルだ。一度貼られたレッテルは、簡単には剥がせない。
だが、それでもいい。
俺は、俺の道を行く。
放課後、俺がジムへ向かおうとすると、下駄箱の前で雪乃が待っていた。
彼女は、いつもの制服姿だが、手には小さなバッグを持っている。
「……何してる。一条に何か言われたのか?」
「一条くん? ああ、あの退屈な優等生ね。彼が何を言おうと、私の意志は変わらないわ」
彼女は、きっぱりと言った。
「……それより、慎。今日の練習、私も行っていいかしら?」
俺は驚いて彼女を見た。
「練習に? 昨日見たばかりだろ」
「見るだけじゃないわ。あなたの『第二の家』が、なぜあなたをあんなに強くするのか。その秘密を、もっと近くで観察したいの」
彼女は一歩近づいた。
「……それに、一人で帰るのは、昨日みたいな連中がいて危ないのでしょう?」
彼女は少しだけ悪戯っぽく笑った。
その銀色の瞳には、好奇心と、俺に対する確かな信頼が宿っていた。
信頼。
それは、俺が最も得ることが難しいものだ。俺の外見、俺の過去、俺の評判。すべてが、人々を遠ざける。
だが、彼女は違う。彼女は、俺を信頼している。
「……勝手にしろ。ただし、今日は昨日よりキツいぞ」
「望むところよ。あなたの熱に、私の氷がどこまで耐えられるか、試してみましょう」
俺たちは、学校を出た。
周囲の視線が、俺たちに注がれる。だが、もう気にならない。
俺たちの距離は、周囲の雑音を置き去りにして、加速していく。
夕日が、俺たちの影を長く伸ばす。
二つの影が、重なり合う。




