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『影を纏う拳 ~氷の少女と辿る世界への道~』  作者: number four


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第3話 『夜の誓いと』

ジムの重い鉄の扉を閉めると、それまでの汗の匂いとサンドバッグを叩く乾いた音が嘘のように消え去り、四月の夜気が俺たちの体を包み込んだ。


トレーニングを終えた後の俺、黒河くろがわ 慎しんの体からは、まだ微かに熱気が立ち上っている。アドレナリンがゆっくりと引いていく感覚は、まるで潮が引く夜の海岸のようだ。


肺が深く呼吸を求めている。心臓はまだ高鳴っている。だが、それは不快ではない。むしろ、生きている実感がある。トレーニングの後、俺は常にこの感覚を味わう。生命の鼓動。それが、俺が生きている証だ。


星野ほしの 雪乃ゆきのは俺の隣に立っている。彼女もまた、ジムの熱気を感じたのだろう。その頬には、わずかな紅潮が見える。いつもの氷のような表情が、少しだけ柔らかい。


「……送るよ。この時間は柄の悪い奴も多い。それに、お前の家はこっちだろ?」


俺はバッグを肩にかけ直し、ぶっきらぼうに言った。


これは義務感ではない。いや、義務感だけではない。何か別の感情が混じっている。それが何なのか、俺自身にもわからない。


これは義務感ではない。いや、義務感だけではない。何か別の感情が混じっている。それが何なのか、俺自身にもわからない。


雪乃は、自分の長い黒髪を指先で整えながら、スチールグレーの瞳を街灯の光に反射させた。その仕草は優雅で、計算されたかのように美しい。


「あら、意外ね。暴力の化身のようなあなたが、女性をエスコートするなんて。少しは紳士的な回路も持ち合わせているのかしら」


その言葉には、いつもの棘がある。だが、その棘は以前より柔らかい。まるで、氷の刃が少しだけ溶けたかのように。


「……ただの合理的な判断だ。うちのジムの近くでクラスメイトが事件に巻き込まれたら、親父の看板に泥を塗ることになる。それだけだ」


嘘だ。


本当は、彼女を一人で帰したくない。それが理由だ。だが、それを認めることは、俺が彼女に特別な感情を抱いていることを認めることになる。それは避けねばならない。


「相変わらず、可愛げのない人。でもいいわ。あなたの『聖域』を見せてもらった報酬として、少しだけその影に寄り添ってあげる」


彼女はそう言うと、俺の斜め後ろ、影が重なる位置にスッと立った。


その距離感が絶妙だ。近すぎず、遠すぎず。まるで、互いの領域を尊重しながら、でも確実に存在を認識できる距離。


夜の街道。街灯が等間隔に並び、俺たちの影が伸びては縮むのを繰り返す。


慎の足音と雪乃の足音。リズムは違うはずなのに、不思議と夜の静寂の中で調和していた。


歩くという単純な行為。だが、二人で歩くと、それは全く違う意味を持つ。俺は常に一人で歩いてきた。だが、今は違う。隣に誰かがいる。その事実が、俺の心に何か新しい感覚をもたらす。


夜の空気は冷たい。だが、不快ではない。むしろ、心地よい。トレーニングで火照った体を冷やしてくれる。


「……あなたの拳、綺麗だったわ」


沈黙を破ったのは雪乃だった。彼女の声は、夜の空気に溶け込むほどに澄んでいる。


「ジムでサンドバッグを叩いていた時。あなたの拳は、何かを壊そうとしているのではなく、何かを必死に繋ぎ止めようとしている……そんな風に見えたわ。まるで、バラバラになりそうな自分自身を繋ぎ止めるための、唯一の手立てみたいに」


その言葉に、俺は驚いた。


彼女は見抜いている。俺の拳の意味を。俺が何のために戦っているのかを。


ボクシングは、俺にとって暴力ではない。それは自己表現だ。俺が俺であるための、唯一の方法。


俺は足を止めずに答えた。


「繋ぎ止める、か。そんな高尚なもんじゃない。俺はただ、あそこにいる時だけは、自分が何者であるかを実感できる。学校の成績や、他人の評価や、半分という血の呪縛……そんなものを全部剥ぎ取った、裸の自分をな」


裸の自分。


それは、社会的な仮面を脱ぎ捨てた、本当の自分。俺は学校では「怖い奴」として見られ、家では「期待される息子」として扱われる。だが、ジムでは違う。そこでは、俺はただの「ボクサー」だ。


雪乃は少しだけ俯いた。その横顔に、月光が差している。


「……血の呪縛。私と同じね」


彼女の声が震えた。それは、初めて聞く、彼女の弱さだ。


「私は、日本にいても『外人』として扱われ、母の国を思えば『遠い国の子供』として扱われる。鏡を見るたびに、自分の輪郭がぼやけていくような感覚になるの。自分がどこに属しているのか、誰も教えてくれない」


アイデンティティの喪失。


それは、俺には想像できない苦しみだ。俺は日本人として生まれ、日本人として育った。だが、彼女は違う。彼女は二つの文化の間で揺れ動いている。どちらにも完全には属せない。


「私の母は、ウクライナの伝統を大切にしている。家では、ウクライナ語で話すこともある。ウクライナの料理を作り、ウクライナの歌を歌う。でも、私は日本で生まれ、日本で育った。ウクライナは、私にとって遠い国。母の記憶の中にしか存在しない国」


彼女が立ち止まった。そこは、古い橋の上だった。


下を流れる川には、満月に近い月が映っている。水面は静かで、月光を受けて銀色に輝いている。


「でも、さっきのジムには、その輪郭がはっきりと存在していた。あなたの拳が響くたびに、私の肌にもその振動が伝わってきたわ。……初めてよ。自分がここにいてもいいんだって、少しだけ思えたのは。日本でもウクライナでもない、あの『家』という場所で」


その告白に、俺は何も言えなかった。


ただ、胸の奥が熱くなるのを感じた。


彼女もまた、孤独だったのだ。俺と同じように。いや、もしかしたら、俺よりも深い孤独を抱えていたのかもしれない。


「……雪乃」


俺は彼女の名前を呼んだ。それは、初めて下の名前で呼んだ瞬間だった。


「あそこは、お前の『家』でもある。いつでも来い。お前が自分の輪郭を取り戻したい時、俺の拳の音を聞きに来い」


雪乃は顔を上げた。その瞳には、涙が浮かんでいた。だが、それは流れない。彼女は強い。涙を見せない。


「……ありがとう、慎」


彼女もまた、俺の名前を呼んだ。


その瞬間、何かが変わった。俺たちの関係が、一段階深くなった気がした。


橋を渡りきったところで、路地裏から数人の男たちが出てきた。コンビニの前でたむろしている、見るからに質の悪い連中だ。


タバコを吸い、大声で笑っている。その視線が、俺たちに向けられた。


「おいおい、見てなよ。超美人のハーフちゃんじゃねぇか」


「隣の奴、怖そうだけど一人だぜ? ちょっと遊ぼうぜ」


俺の中に眠る、熱い「衝動」が首をもたげる。


この連中を叩きのめしたい。その衝動が、俺の拳を握らせる。だが、拳を握り込もうとした瞬間、雪乃が俺の袖を強く引いた。


「黒河くん。……無駄な体力は使わないんじゃなかったの?」


彼女の瞳は冷静だった。


そうだ。無駄な戦いは避けるべきだ。俺の拳は、こんな連中のためにあるのではない。世界のために、チャンピオンになるために鍛えられたものだ。


「……失せろ。次は言葉じゃ済まさない」


俺の低い声が響くと、連中は捨て台詞を吐きながら逃げ去っていった。

「チッ、マジかよ」


「やばい奴だったな」


彼らの足音が遠ざかる。


「……助かったわ。あなたのその『目』、本当に便利ね」


雪乃は少しだけ笑った。氷が解ける瞬間のような、1月13日の凍てつく夜に一瞬だけ差す陽光のような笑み。


「でも、ありがとう。守ってくれて」

その言葉が、俺の心を温める。


その言葉が、俺の心を温める。


彼女の自宅マンションの前まで着いた。そこは、静寂が支配する高級住宅街だった。


高層マンションが立ち並び、街灯が整然と並んでいる。ここは、俺の住む下町とは全く違う世界だ。


「ここでいいわ。……送ってくれてありがとう、黒河慎くん」


「……ああ。また明日、学校でな」


俺が背を向けようとした時、彼女が俺の名前を呼んだ。


「慎。……さっきの約束、忘れないで。1月13日。私の誕生日の夜、ウクライナの魔法が起きるその時に、あなたは私のためにその拳を振るいなさい。私は、あなたの魂のセコンドになってあげる」


彼女の銀色の瞳が、月光を受けて輝く。


その輝きは、まるで約束の証のようだ。


「……わかった。期待してるよ、雪乃」

俺は闇の中に消えていく自分の影を追いながら、家路についた。


俺は闇の中に消えていく自分の影を追いながら、家路についた。


夜風はまだ冷たい。だが、バッグの中のバンテージは、不思議と彼女の言葉の熱を宿しているように温かかった。


俺の心にも、何か新しい感情が芽生えている。


それが何なのか、まだわからない。


だが、確かなことが一つある。


俺は、もう一人じゃない。


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