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『影を纏う拳 ~氷の少女と辿る世界への道~』  作者: number four


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第2話 『第二の家、拳が語る真実』

放課後の喧騒が遠ざかるにつれ、俺たちの間に流れる空気は、より一層冷たく、そして鋭利に研ぎ澄まされていった。


俺、黒河くろがわ 慎しんは、自分の長い影を連れて歩いていた。隣を歩くのは、相変わらず氷の彫刻のような静寂を纏った少女、星野ほしの 雪乃ゆきのだ。


彼女の銀色の瞳は、西日に照らされて、まるで磨き上げられた鏡のように妖しく輝いている。


沈黙。


それが俺たちの会話だった。言葉を交わさずとも、互いの存在を意識している。奇妙な緊張感。だが、不快ではない。むしろ、心地よいとさえ言える。




人間関係において、沈黙は通常、気まずさを生む。だが、俺たちの場合は違う。この沈黙は、互いの領域を尊重する、暗黙の了解だ。


「ねえ、黒河くん。さっきの言葉の続きを聞かせて」


雪乃が唐突に切り出した。歩道橋の上、風が彼女の黒髪を乱す。夕日が彼女の横顔を照らし、その美しさが一層際立つ。


「続き?」


「ええ。ジムが『第二の家』だと言った理由。単なる練習場所をわざわざ『家』と呼ぶのは、そこが唯一、あなたが自分を許せる場所だからかしら?」


鋭い。


この女は、俺がひた隠しにしている心の傷に、いとも簡単に触れてくる。まるで、俺の内面を透視しているかのように。


人は誰しも、見せたくない部分を持っている。俺の場合、それは自分の弱さだ。理不尽に怒りを覚える熱い部分と、すべてを冷徹に切り捨てる冷たい部分。その矛盾が、俺を常に孤独へと追い込む。


俺の中に眠る、理不尽を叩き潰したいという「焔」と、すべてを諦観し冷徹でありたいという「氷」。その二つが唯一、調和を保てるのが――あの場所だ。


「……行けばわかる。無駄な会話より、拳の音を聞くほうが理解が早い」


俺は短く答えた。


説明するのは面倒だ。いや、正確には、説明できない。言葉にした瞬間、その真実性が失われる気がする。ジムは、俺にとって言葉では表現できない聖域なのだ。


雪乃は小さく頷いた。それ以上は追求しない。彼女もまた、言葉にできない領域があることを理解しているのだろう。


その時、前方の路地裏から爆音のような笑い声と、重厚な排気音が響いた。


「おーい! 慎! 待ってたぜ!」


大型のスクーターに跨り、ガムを噛みながら現れたのは、三年生の神城かみしろ 龍二りゅうじだ。


金髪を逆立て、耳にはいくつものピアス。制服は着崩し、その目つきは鋭い。この界隈の不良たちが恐れる『龍』と呼ばれる男。だが、俺にとっては、ジムの先輩であり、俺がかつて唯一、スパーリングで一度もダウンを奪えなかった男だ。


「神城さん……。また学校をサボってここですか」


「堅苦しいこと言うなよ。学校なんて、俺には意味ねぇんだ。それより、そっちは……へぇ、噂の銀色の女王様か。慎、お前には勿体ないくらいの美人じゃねぇか」


神城が雪乃を値踏みするように見る。その視線は明らかに無礼だ。


雪乃は一瞬、眉をひそめたが、すぐに鋼のような無表情に戻った。彼女の対応は完璧だ。感情を表に出さない。それが彼女の防御壁。


「失礼な人ね。あなたの排気ガスで私の脳細胞が死滅しそうだわ」


雪乃の声は冷たく、しかし毅然としていた。


「ははは! 言うじゃねぇか! 慎、お前の女もなかなか『硬い』な。いいぜ、そういうの好きだ。練習、楽しみにしてるぜ」


神城はそう言い残し、爆音を立てて去っていった。


俺は拳を握りしめる。あの男は、俺が越えなければならない最初の壁だ。彼を倒さない限り、世界への道は開けない。


「……黒河くん。あの人、あなたのライバル?」


「ああ。俺が唯一、勝てない相手だ」


「そう。でも、あなたの目を見ていると、いつか必ず倒すつもりなのね」


雪乃は俺の横顔を見つめた。


「当たり前だ。俺の目標は、世界の頂点だ。神城はその途中にいる障害物に過ぎない」


「自信家ね」


「自信じゃない。決意だ」


俺たちは再び歩き始めた。ジムまであと少し。


重い鉄の扉を開けると、そこには革の匂いと、汗が蒸発したような独特の熱気が立ち込めていた。


ここが俺の全て。


俺を唯一「黒河慎」として存在させてくれる場所。学校でも、家でもない。ここだけが、俺が本当の自分でいられる場所。


壁には古いポスターが貼られている。歴代の世界チャンピオンたち。彼らの写真が、俺を見下ろしている。まるで「お前もここに来れるか?」と問いかけているかのように


リングの中央では、サンドバッグが揺れている。誰かが先ほどまで使っていたのだろう。その動きは、まだ生命を持っているかのようだ。


「ここが……あなたの『家』」


雪乃は立ち尽くした。彼女の銀色の瞳が、ジム全体を見渡している。観察しているのだ。この空間の意味を、理解しようとしている。


リングの上では、一人の少女が猛烈な勢いでミット打ちをしていた。パンッ、パンッ、と乾いた音が響く。その動きは速く、正確だ。


「慎兄ちゃん! お帰り!」


汗を拭いながら駆け寄ってきたのは、俺の妹であり、ジムの看板娘――黒河 さくらだ。


明るい茶色の髪を高い位置でポニーテールにまとめ、元気な笑顔を浮かべている。身長は160センチほど。小柄だが、その体は引き締まっている。彼女もまた、ボクシングをしているのだ。


「さくら、客人を連れてきた。星野雪乃だ。……少し、見学させてやってくれ」


「わぁ! 美人なお姉ちゃん! もしかして慎兄ちゃんの……」


「違う」


俺は即座に否定した。


さくらはニヤニヤと笑っている。この妹は、いつもこうだ。俺をからかうのが好きなのだ。


「初めまして、黒河さん。星野雪乃です」

雪乃は丁寧に挨拶した。その態度は完璧だ。礼儀正しく、しかし距離を保っている。

「わぁ、声も綺麗! よろしくね、雪乃お姉ちゃん! 私、慎兄ちゃんの妹のさくらって言います!」


さくらの人懐っこさは、雪乃の氷の壁をも溶かすようだ。雪乃の表情が、わずかに柔らかくなった。


「……さあ、練習を始めるぞ」


俺は上半身裸になり、慣れた手つきでバンテージを巻き始めた。175センチの体に刻まれた筋肉は、今日この日のために鍛え上げられたものだ。


一つ一つの筋肉が、目的を持っている。速く打つため。重く打つため。長く戦うため。


雪乃が俺を見ている。その視線を感じる。評価しているのか。それとも、ただ観察しているだけなのか。


サンドバッグの前に立った。


深呼吸。


集中。


左、左、そして右。


乾いた音がジム内に響く。単なる練習ではない。俺にとって、これは自分との対話だ。


一打ごとに、自分の弱さを叩き出す。一打ごとに、強くなる。


「雪成。なぜ俺がここに執着するか知っているか?」


動きを止め、俺は雪乃の銀色の瞳を真っ向から見据えた。


「俺の目的は、『世界』の頂点に立つことだ。ベルトを獲る。それだけが、俺の存在意義だ」


心臓は、決意と使命感で脈打っている。

この夢は、幼い頃から抱いていた。父が見せてくれた、世界戦のビデオ。あの輝くベルトを腰に巻いたチャンピオンの姿。あれが、俺の原点だ。


「世界……。あまりにも遠い、孤独な道ね」


雪乃はさくらが貸したバンテージをギュッと握りしめた。


「でも、今のあなたの拳の音を聞いていると、そこが不可能な場所ではない気がしてくる。……あなたの影、今だけは少しだけ、光って見えるわよ」


雪乃は微かに微笑んだ。それは氷が解ける瞬間のような、冷たい風の中でも温かさを感じる笑みだった。


初めて見る、彼女の本当の笑顔。


それは、俺の心臓を一度、強く打った。


「1月13日。私の誕生日の夜、ウクライナでは魔法が起きると信じられているわ。……あなたのその拳に、魔法が必要になったら、呼んで。私が『声』を貸してあげる」


その言葉に、俺は何も答えられなかった。


ただ、胸の奥が熱くなるのを感じた。


影の中に生きるボクサーと、銀色の瞳を持つ異邦の少女。


交わるはずのなかった二つの魂が、ジムという名の場所で、静かに、だが熱く共鳴し始めた。


「……ああ。期待してる」


俺は再びサンドバッグに向き直った。


世界への一歩。その重みを知るには、まだこの拳は軽すぎる。


だが、隣に立つ少女の冷たい視線が、今の俺には最高のセコンドのように感じられた。


窓の外では、夕日が沈みかけている。


新しい物語の始まり。


俺たちの、戦いの始まり。



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