三話
アイリスはとなり半歩後ろに青年を連れて、聖堂へ歩いていた。
朝早いため、外を出歩いている人は少ない。まだ朝食を取っているようだ。近くを通ると二人の雪を踏む音に混じって、家の中から朝の食卓が聞こえた。
「これから行く聖堂って、どんなところなんだ」
「正確には天界導聖堂。天界の力が降り注ぐ場所」
「てんかい?」
「そんなこともわからないの。ほら、これを持って祈りを捧げるところよ」
アイリスは歩みを止めて、首から提げていたペンダントを胸元から出して、横に並んだ青年に見せた。
角張った左右の翼が対になって重なり合い、六角形をつくっている。
「これ……は」
「見覚えあるでしょ。天界教のエンブレム」
「――っ」
青年は頭を抑えて小さく呻いた。
「ちょっと、大丈夫」
「だいじょうぶ。どこかで見たことがあるはずなんだけど……」
「だけど?」
「思い出せない」
「もしかして」
記憶を失っている。
アイリスは言葉を切った。
青年が記憶喪失なら、常識を知らず、不可解な言動があったことに納得がいった。
アイリスたちは再び歩き出した。
「見えてきたわ。あの高くて尖った屋根の建物よ」
「あれが」
アイリスが指差した向こうに、真ん中が一番高い三つ並んだ三角錐の屋根が見えた。
近づくと開けた場所に出る。中央に石造りの一際大きな建物がある。天界導聖堂。天界教の聖堂だ。
「どうしたの?」
「なんでもない。行こう」
天界教のエンブレムを見せてから、青年の様子がおかしい。
態度は硬くなり、何か思いつめているかのように考え込む仕草が増えていた。目つきも鋭いものになった気がする。
「――天の祝福を――」
アイリスはペンダントを両手で包んで、短く祈った。
大きな観音開きの扉を、身体が入るくらいあけた。
天井が屋根まで吹きぬけた礼拝堂が二人を迎える。床も壁も、柱も大理石で出来ていた。
礼拝者が座るための長椅子がきっちりと並べられていて、奥には祭壇があった。
一番奥に、女性の像が両手で何かを掬い上げる形で立っていた。
その像の前に、白と黒の服を着た信徒の女性が膝を着いて座っていた。ゆっくりと立ち上がり、アイリスたちのほうを向いて、にこりと笑う。
「おはようございます。アイリス。どうしたのですか、こんなに朝早く。祈りの日は明日ですよ」
「アグタリアさん。司祭様はいますか」
「その前にアイリス。なにか忘れてませんか」
「え。あ、お、おはようございます」
ふふ、とフィローネ・アグタリアは笑った。
「あなたも」
青年は小さな声で、おはようございます、と言った。
「はい。一つの挨拶は小さな礼儀。小さな礼儀は幸福に繋がります。忘れないでくださいね」
フィローネはペンダントを両手に包んで、短く祈った。
「それで、どのような用件で来たのかしら」
「旅人だそうです。宿に困っていたようなので、ここまで案内しました」
アイリスが詳細を省いて、青年を紹介する。フィローネは青年のことを何も聞かず頷いた。
「わかりました。司祭様を呼んできます。しばらくここで待っていてください」
ゆっくりとした足取りで左奥の扉へ消えた。
「とりあえず、座ったら?」
アイリスは自分の座った長椅子を、ぱんぱんと叩いた。
青年は一つ後ろに黙って座る。隣にあの金属の板が置かれた。
聖堂に入れたということは、青年は魔の者ではないのだろう。アイリスは気づかれぬよう、ため息を小さく漏らした。
天井を見上げる。
高い天井に、雇い主の怒っている顔が浮かんだ。
アイリスアが働いている牧場の持ち主だ。
一人暮らしをしているアイリスは今年で十六歳になる。この年齢になると仕事を持つことは珍しいことではない。今日は朝早くから、馬や羊などの世話をしなければならなかった。そのための早起きだった。
時間はもう遅刻どころではない。あとで謝ろう。