二話
―――八年後。
大陸の北西の辺境地。
林に囲まれた、小さな村。ライア。
分厚い雲が空を覆い、降り積もった雪が家々を白く染め上げている。
明朝を迎えた村の東の端。
レンガ造りの小さな家。
「んっ」
ランプを持って外に出たアイリス・オルティアンは、肩を震わせた。
毛皮のコートを着込んでいるとはいえ、冷たい外気は容赦なく浸透する。
家と同じくレンガを積み上げて造られた倉庫に向かう。日課の一つ、食料や薪の在庫の確認だ。一年を通して寒いため、不足は命に関わる。暖炉の薪を補充する目的もあった。
倉庫前。足首まで積もった雪に視線を落とした。
「……?」
明らかに自分のものより大きい足跡があった。村の外、林から続いているようだ。
誰のものだろう。
扉を開ける。外は雪が光を反射して淡く明るいが、倉庫の中は真っ暗だった。
ランプの明かりを翳した。アイリスの碧眼に、奇妙なものが映った。
青年が壁に背中を預けて、外套に身を包ませて蹲っていた。人間を入れた覚えはない。昨日の夕方、食料と薪を取ったときに、そんなものはなかった。
アイリスが何か判断するよりも早く、青年が閉じていた目蓋を開ける。黒の瞳。眠気の残る顔に笑みを浮かべた。
「これの持ち主かな? 勝手に宿にしてしまったことをまず謝罪する。一晩借りさせてもらったよ」
力の抜けた声だった。よほど気持ちよく熟睡していたとみえる。
アイリスは警戒心をむき出しにしていた。青年を村で見かけたことはなかった。
まず頭に浮かんだのは泥棒という単語だった。人を呼ぼうかな。
「黙っていられるのも困るんだが……許可もなく倉庫を使ったのは悪かったけどさ」
「……」
「食料も何も取ってないよ」
青年は頭をかいた。肩の後ろまで無造作に伸ばされた髪が音をたてる。
「――なあ頼むよ。会話してくれ」
「あなたは、なに? ここでなにしてたの」
「旅人みたいなものかな。宿代わりにして眠っていただけだよ」
ボロボロの服に、痛んだ布の外套。ずいぶんと軽装の旅人だ。
「ここで、そんな格好で一晩を」
「寒かったけどなんとかなった。身体は頑丈な方なんだ」
息も凍る夜に、暖炉もない倉庫で寝るのは命取りだ。頑丈なだけで乗り切れるものはでない。
魔の者かもしれない。しかし、嘘をつくような利点も、状況でもない。魔の者がそれと察知される言動を簡単に取るとは思えない。
今まで魔の者に会ったことがないので、本当はどうなのかわからないが。
「……まあいいわ。それで、どうして倉庫なんかで寝ていたの」
小さな村だが、頼めば宿を貸してくれる施設はあった。
「雨風凌げるところを探してたらこの村を見つけてさ、倉庫に辿り着いたんだ。最初は家かと思って、扉を叩いて呼んだんだけど返事がなくて。扉が開いたから、とりあえず入ってみて、倉庫だとすぐにわかったんだけど、朝まで眠れるならもうどこでもいいや、って。そのまま」
ともすれば、高い確率でアイリスの家を訪ねたかもしれなかった。
この男が倉庫で寝ていたことが幸いに思えて、微妙な気分になった。近所で騒がれても起きなかったことは、とりあえず頭の端に追いやっておこう。
「旅人っていってたけど、どこから来たの。ここは村の入り口から遠いわよ」
「森の向こうからきたんだ」
青年がさした東の方角には、村を囲む林を抜けたところに森がある。
しかし、森の向こうには草木のほとんどない雪と石の山しかなかった。吹雪いていることが多く、魔境と恐れる人もいた。
「ここまで一人で歩いてきたの」
「そうだよ」
森は獣の住処だ。一人で歩くのは、餌になるようなものだった。
言動を除けば、外見は人間だ。怪しすぎるが、もしかしたら、わけありの旅人かもしれない。
いろいろな理由で村や町を追い出されて、旅をせざるえない人はいる。もしくはダエーワに故郷を滅ぼされて……。
アイリスは一度思考を切った。クリアにして再稼動。
とにかく、旅人だというのだから、無下に追い払うのはよくない。
「―――わかってるって―――だまって―――」
「どうしたの」
「あーいや、なんでない」
「?」
気のせいかな。青年が誰かと話しているように聞こえた。
倉庫の壁に見慣れないものが立てかけてあった。皮が何重にも巻かれている。アイリスのものではなかった。
「それは……なに? あなたのものなの?」
「ああ」
青年が自分の前に引き寄せた。重い音がした。
「見るかい」
アリシアは頷いた。
皮が解かれる。
下半分は皮が巻かれたままだが、全体図は想像できた。
両刃の剣らしき形をしているそれは、柄を合わせて二メートルくらいはある。もう一つ、杖のようなものがある。剣と同じ長さだ。
音と見かけから、材質は金属かもしれなかった。
「もしかして、兵士なの」
金属を加工する職人とは別に、精製する技術を持った人がいる。
錬金術師と呼ばれている彼らは、帝国の認可をもらって金属を作り出している。
地方ごとに一ヶ月分の量が限られているため、日用品ならともかく、装飾品や剣などのものになってくると、持っている者は位を持つ人か、兵士か、もしくはそれを作る職人くらいだった。
「違うよ」
青年はあっさりと否定した。
「剣じゃないの」
「違う違う。形は似てるけど、ほら、刃はついてないから」
確かになかった。柄のついた金属の板だ。
「ところでさ、いま西暦何年かな」
「せいれき? なにそれ」
「あれ? んん? じゃあ、今、暦は何年なんだ」
「天経暦、千六百二十三年よ」
「……そう、か。ありがとう」
いきなり暦を聞いて、どうしたのだろうか。
なぜか青年の顔から少し元気がなくなっていた。
そんなとき、誰かの腹がなった。青年が、ばつが悪い顔をした。
「ええと、食べ物をもらえないでしょうか」
「勝手に忍び込んでおいて何言ってるの」
とはいうものの、空腹の人に食べ物をあげないのは少し心が痛む。
聖堂に連れて行くしかないだろう。旅人を泊める宿はそこしかない。
「着いてきて。聖堂まで案内するわ。そこなら宿も貸してくれるし、食べ物も貰えるはずよ」
あそこなら魔の者は払われるし、自衛団の宿舎が近くにある。もし悪人でも、悪さはできないだろう。