003話 南極大陸
目の前の黒猫は、ごく自然に僕の理解できる言葉を話す。 あまりにも当然のように喋るせいで、「それが普通なんだ」と錯覚してしまいそうになる。
「一応、聞いておくが……お前の名前は?」
「ああ、ごめん。僕の名前はラルク。15歳です」
驚きはあった。けれど、こうして普通に喋る猫という存在を、意外にもあっさり受け入れている自分がいた。 そういえば、学校の授業で猫人間種という種族の話を聞いたことがある。 確か、絶滅危惧種とか何とか……? 先ほどまで味わっていた非現実的で非人道的な仕打ちに比べれば、猫が喋るくらい、もはや些細な事だと思えてしまう。
「じゃあ、ラルク。聞くけど……お前、何であんなにボコボコにされてたんだ?」
脳裏に、拷問の記憶がフラッシュバックする。目隠しをされたまま、殴られ、蹴られ、刃物で斬られ、焼けた鉄を押し付けられ―― 皮膚を剥がされ、爪を折られ、視界の無い中で突然襲い来る激痛と恐怖。地獄のような時間が、鮮明に甦る。
「うぷっ……う、うおえぇぇぇっ!」
「うっわ、汚ねぇな! おい、大丈夫か!?」
背中で手枷に繋がれた両腕ではどうすることもできず、口元から血の混じった胃液が零れる。みじめで、情けなくて、涙がまたこぼれる。なんで――どうして僕が、こんな目に。
「おいおい! 男がそう簡単に涙流すなよ。……落ち着いてからでいい、話してみろ。少しは楽になるかもしれないぜ? なっ!」
男とか女とか、そんな区分の話じゃない。 だけど、ぺしぺしと小さな前脚で僕の頭を軽く叩いてくるその感触は――妙に優しくて、今の僕には救いのように感じられた。
しばらくして、少し落ち着いた僕は、今までの経緯をスピカに語った。 スピカは、ただこちらを見つめながら、ウンウンと頷きつつ黙って聞いてくれる。僕が言葉を紡ぎ、スピカがそれを受け止める。内容は重く、聞く方も疲れるような話だろうに、不思議とその「聞いてもらえる」という行為が、僕の心の傷をほんの少し和らげてくれる気がした。
「そうか、大変だったな。……まぁ元気出せよ、な!」
黒猫のその感想は、驚くほど軽かった。 思わず心の中でずっこけそうになる。……いや、どこかで期待してたんだろう。 何か、少しでも共感とか慰めの言葉を。でも、まあ……猫だし。しかも、ほぼ初対面だし。
「ところで、この船って……どこに向かってるんだろう」
状況を整理する。国外追放。つまり俗に言う“島流し”だ。無人島に捨てられるのか、はたまた罪人が集まる監獄島なのか……想像すればするほど気が滅入る。
「タクティカって知ってるか? そこに向かうって話してたぜ」
「……タクティカ!?」
思わず声を上げる。タクティカといえば、世界地図の最南端――南極大陸とされる未開の地。その名を聞いた瞬間、確かに体の芯に寒気が走る。
「これでも俺様が魔法で寒さを抑えてるんだぜ? ちっとは感謝しろよな」
「……そうなのか? ありがとう」
そう言って礼を述べると、スピカは目を丸くしてこちらを見る。
「お、おう!? 意外と素直じゃん。人間種にしては珍しい」
戸惑い気味に口ごもるスピカ。その反応に少し肩の力が抜けた。やがて彼は、満足そうにくくっと喉を鳴らして笑う。――そういえば、さっき回復魔法をかけたって言ってたな。僕はそっと体を動かしてみる。確かに、皮膚の裂傷も、刃物で貫かれた痛みも、今はもう感じない。口の中と喉に、うっすら鉄の味が残っているだけだ。外傷は、きれいに癒えているらしい。
しかし、国外追放で向かう先が“南極”とは……。地図でしか見たことのない極寒の大陸。 一応、国家が存在すると地理の授業で習った記憶がある。アルテナの街には大きな港があり、そこから各国へ船が出ている。だが、南極に向かう航路は存在しない。つまりこの船は、僕を国外追放するためだけに国が特別に用意したものなのだ。
気持ちが少し落ち着いた僕は、改めて薄暗い船室の中を見渡した。木箱や樽が雑然と積まれているが、よく見ると積荷の量自体は少ない。アルテナ港から南極大陸まで、いくら高性能な船を使ったとしても、最低でも8日はかかる距離―― この物資の量から察するに、乗員もかなり少人数なのだろう。
「お前、7日間くらい寝てたから、そろそろ着く頃じゃねえか?」
スピカの言葉に思わず息を呑む。
「……そんなに?」
感覚的には昨日の出来事のように思える。それだけ、あの拷問が心にも体にも深く刻まれていたということだろう。肉体と精神が限界を超えて、一種の仮死状態になっていたのかもしれない。僕は船の揺れを感じながら、背後の手枷に気をつけつつゆっくりと上体を起こす。なんとか胡坐をかいた姿勢まで体を持ち上げると、スピカがひょいと僕の足の窪みに入り込み、丸くなった。
「これで、少しはあったかいだろ?」
「うん、スピカ……ありがとう」
スピカは目を細めて、ニコッと笑った。その仕草がなんとも愛らしい。直に伝わる黒猫の体温が、冷えていた足をじんわりと温めてくれる。撫でてやりたいが、手は後ろ手のまま。無理に腕を前に回せば肩が外れそうだ。残念。僕は背中を柱に預け、スピカの温もりを感じながら静かに目を閉じる。――ふと、故郷で過ごした温かな日々が脳裏に浮かぶ。
父さん、母さん、エレナ…… 今頃どうしているだろう。僕のことで迷惑をかけていなければいいけれど。……僕と血が繋がっていないという事実が、今はかえって救いだとすら思えてくる。もし血縁だったなら、一族ごと粛清する――そんな狂った判断を、あの教皇たちはしかねない。義理の家族であることは調べればすぐにわかるはずだ。……どうか、国が家族に手を出していませんように。
何も返せなかったな。僕はただ、与えられてばかりで、恩返しもできないままだった。最後まで、迷惑をかけてしまったかもしれない――胸の奥から、じわじわと黒い感情が湧き上がる。――僕のこの加護さえなければ。初めて、心の底から自分の“運命”を憎んだ。
「おい、起きろ! 起きるんだ!」
体を揺さぶられる衝撃と共に、鋭い痛みが走る。どうやらまた眠ってしまっていたらしい。目を開けると、目の前に屈強な男たちが立っていた。筋骨隆々、無精髭に荒れた肌。まさに“海の男”というより、“荒くれ者”という言葉がよく似合う。
慌てて辺りを見回すが――スピカの姿がない。足元にあったはずの温もりも、跡形もなく消えていた。……夢だったのか? 体に広がる寒気が、現実に引き戻す。全身を貫く冷気に身震いしながら、僕は黙って引きずられていった。船の艦橋を通って、ほとんど放り投げられるように外へ出される。そして一人の小柄な男が近づいてきて、黙って手枷の鍵を外した。
――自由だ。あまりにも久しぶりに腕を動かせた。それだけで、なぜか胸が詰まるような気がした。目の前に広がるのは、真っ白な雪原。果てしなく続く氷の大地と、眩しいほどに輝く太陽――だが、気温は容赦なく低い。吹きつける風は刃のようで、立っているだけで皮膚が裂けそうだった。
「ほらよ」
無造作に麻袋が投げられる。中には、薄手の麻のローブと、保存食――硬いパンと干し肉がわずかに入っていた。せいぜい2日分といったところか。見送りもなく、言葉もなく、船はさっさと出港していった。その背中は、小さくなることすらなく、容赦なく水平線の彼方へ消えていく。……捨てられた。そんな言葉が、ふと頭をよぎった。無力感と怒り、そして悔しさが込み上げる。だが、不思議と空腹は感じなかった。7日以上何も口にしていないのに、心の痛みがすべてを麻痺させていた。
「おい、ラルク。早く行こうぜ!」
――その声に振り向く。そこには、毛繕いをしている黒猫の姿。黄金色の瞳がこちらを見上げていた。
「スピカ……! いたのか」
「ふふん。俺様は自由なんでな。お前に着いてくことにした」
気まぐれで、軽口を叩く。れど、その瞳は不思議なほど真っ直ぐだった。自由――か。考えもしなかった言葉。絶望の中に差し込んだ、わずかな光。何もかもを失ったはずの僕に、“選べる道”が残っているように思えた。この先がどんな道でも――僕は、歩いていかなければならない。
故郷での辛い記憶、生き別れた家族のこと――気がかりは尽きない。でも、仮に僕が戻ったとしても……“あの妙な加護”がある限り、また周囲に迷惑をかけるだけだ。思考の沼に沈みかけた僕の足を、ぺしぺしと軽く叩く者がいた。
「取りあえず、近くの街か村まで行こうぜ!」
前を歩くスピカは、まるで迷いがない。まっすぐな背中が、僕を誘っているようだった。この場所で立ち尽くしていたって何も始まらない。僕は麻のローブを羽織り、スピカのあとを追って歩き出した。南極大陸――この見知らぬ氷の世界での、1歩目だった。
辺りは分厚い凍土と氷壁に囲まれている。けれど、なぜか僕たちの足元を走る街道は、雪一つ積もっていなかった。不思議に思って屈んでみると、舗装された地面はわずかに温かい。触れた雪や氷はすぐに溶け、脇に掘られた水路へと静かに流れ込んでいる。
「スピカは、この大陸に来たことあるの?」
「ないぞ? 知識としては知ってるけどな。道があるんだから、歩いてりゃどっか着くだろ」
相変わらずの軽さだ。だけど、こうも堂々としていると、道を知ってるんじゃないかと錯覚してしまう。旅の途中、僕はスピカと色々な話をした。彼は自分のことを、“有名な魔術師の弟子”だと言っていた。人間の言葉を喋ったり、魔法が使えたりするのはその影響らしい。
僕はてっきり、猫人間種――つまり、亜人種の一種だと思っていたけれど、どうやら違うようだ。
「ある人に恩があってな。今はその恩返しをしてる最中なんだ」
そんなふうに言うけれど、詳しいことはどうしても話してくれなかった。けれど、話の節々からは、スピカなりの“強い目的”を感じた。この世界で、僕が何を得て、何を失っていくのかはまだわからない。けれど、この黒猫と共に歩く旅が、少しずつ僕の心を前へと動かしてくれる気がした。
「ラルク、街に着いたらどうするつもりなんだ?」
唐突な問いに、僕は言葉を詰まらせた。どうすると言われても―― 拉致され、拷問を受けて、無理やり国外に捨てられた身だ。プランなんて、あるわけがない。
「そんなに悩むなよ。食料も、もう残り少ないだろ? だったらまずは仕事を探そうぜ」
仕事、か。今まで実家の雑貨屋を手伝った程度しか、まともな労働経験はない。中等部は卒業しているし、職種を選ばなければ雇ってくれる場所はあるかもしれない。……ただ、成人の儀で“個人カード”を発行してもらえなかった僕に、正式な雇用があるのかは怪しい。いや、それ以前に―― 国によっては入国審査すら通らず、門前払いを食らうかもしれない。
「そうだな。仕事を探さないと、生きていけないよな。でも……」
「人と関わりたくないって顔してるな」
スピカの言葉は、図星すぎて言い返せなかった。
「……人間種なんて、もともと身勝手なもんさ。そんなの、さっさと忘れちまえよ」
投げやりにも思えるその口調には、どこか達観した響きがあった。初対面のときから偉そうな言い方をするけれど――スピカって、いったい何歳なんだろう? もしかして、ずいぶん年上なんじゃないか? ふと、そんな疑問が浮かんだ。
「なぁスピカ、歳って……」
「女性に年齢を聞くなんて失礼だぜ!」
ピシャリとたしなめられて、僕は絶句した。
「……え? スピカって、女の子?」
「ふふん。口調で判断するなんて、まだまだ甘いな」
からかうように鼻を鳴らすスピカの目が、黄金にキラリと輝く。そういえば、ビクトリアもそうだったな。 貴族の娘なのに、学校でも私生活でも、わざと男っぽく喋っていたっけ。スピカも、そういうサバサバした性格だから話しやすかったのか。……まぁ、猫なんだけど。
約2時間、雪原の中をひたすら街道沿いに歩き続けると、やがて視界の先に石造りの建物が見えてきた。
「おっ! 見えてきたぞ!」
スピカが前足をピンと伸ばして指差すその先には、白い石の建造物群――まるで雪に沈む城壁都市のような姿があった。……けれど、近づいてみて分かった。 そこは街ではなかった。正確には、”かつて人が暮らしていた“遺跡””のようだった。建物の多くは崩れかけ、荒れ果てている。人の気配はほとんど感じられず、風の音だけが耳に残る。
「そこの人間種、止まれ!」
突如、鋭い声が響いた。声の方へ目を向けると、朽ちた建物の屋根の上に、一本の杖を構えた人物の姿があった。雪のように白い肌、銀色の髪。そして尖った耳。――妖精種? 年の頃は僕と同じくらいだろうか。けれど、彼女の視線は氷のように冷たく、手にした杖には既に魔力が宿っている。……まずい。山賊か?
身を守る術を持たない僕は、両手をゆっくりと上げ、無抵抗の意志を示した。一方でスピカは、僕の足元で大きなあくびをしている。……魔法が使えると豪語していたから、守ってくれると思ってたのに。
「この場所は“聖域”だ。貴様は何者だ?」
彼女は距離を保ちながらも、足音ひとつ立てず背後へと回り込んでくる。まるで狩人が獲物を仕留める直前のような緊張感だ。
「……国外追放されて、この大陸に……流されました」
その言葉を聞いた彼女は、僕の前へ出ると、じっと顔を覗き込み―― いきなりローブの襟首を掴んで引き寄せた。
「えっ――」
抵抗する暇もなく、シャツの前を捲られ、左の鎖骨あたりを凝視される。
「……隷属印か。嘘は言っていないようだな」
自分では気づかなかったが、赤黒く浮かぶ魔法陣のような刻印が肌に浮かんでいた。彼女はそれを見届けると、手にした杖を収めて背を向け、短く言い放つ。
「ついて来い」
……命は取られなかったらしい。
「なぁ、ラルク、行ってみようぜ! 殺気はもう無いし、大丈夫だろ。……なんか面白そうだし!」
スピカが足元から見上げてくる。黄金色の瞳は期待と好奇心に満ちていて、まるで探検にでも行くような気軽さだ。……ほんと、ただの猫なんじゃないかな。けれど、他に道は無い。 行くあてもなく、逃げる場所もない。僕はスピカとともに、彼女の後を追い、遺跡の奥へと足を踏み入れた。
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