002話 喋る黒猫
何が起きたのか――いや、今もまだ、僕には分からなかった。成人の儀で、まるで凶悪犯のような扱いを受けるなんて、誰が想像しただろうか。大聖堂を出て、手枷を嵌められたまま、僕は街の中心を連行されていた。視線が突き刺さる。刺すような冷たい眼差しが、容赦なく全身を貫く。人々の顔に浮かぶのは、好奇の色、嫌悪の色、そして……恐怖。
数日前、教室で受けた女子のくすくす笑いや、先生の軽い叱責――あの時の「注目」とは、明らかに意味が違っていた。今、僕に向けられているのは、感情の澱が濁ったような視線。皮膚の下にまで染み込んでくるような、どす黒い視線。
どうか、見ないでくれ。お願いだから――やめてくれ。心の中ではそう叫んでいた。でも声にはならなかった。唇は閉ざされたまま、ただうつむき、引きずられるように歩くしかなかった。
―アルテナの街・牢獄―
連れてこられたのは、街の西にある石造りの牢獄だった。窃盗や暴行、詐欺など、一般的な罪人が収監される場所――そんな場所に、僕は立っている。鉄格子の向こうから、数人の囚人たちが物珍しげに僕を見ていた。……僕は、なにもしていない。
聖騎士たちは無言のまま、僕を牢の奥へ奥へと連れていく。石の階段を下り、薄暗く湿った空気が漂う地下へと降りる。そこは一般の牢ではなかった。天井から鎖が何本も垂れ下がり、壁は冷たい石。家具も装飾もなく、ただ拘束のためだけに存在している空間。僕は言葉を失った。腕を天井の鎖に繋がれ、吊り上げられるような姿勢で固定される。足には巨大な鉄球がついた枷。そして、目隠し。
「な……何を……!」
視界を奪われた瞬間、不安が一気に爆発する。何も見えない。何も分からない。何が起こるか、想像すらできない。これはもう、罪人の扱いですらない。明らかに“何か”として扱われている。
自分が、人ではない“何か”に変わってしまったかのような錯覚。僕はただ、成人の儀を受けただけのはずだったのに――。胸が締め付けられるような恐怖。息を潜めるしかない。この先、自分はどうなるのか――答えのない恐怖だけが、じわじわと胸に染みていく。
……どれくらい経っただろう。おそらく一時間か、それ以上か。僕は、ただじっと、吊られたまま耐えていた。立った姿勢のまま両手を縛られ、腰を落とすこともできない。腕を吊るされた状態で長時間過ごす苦痛は想像を遥かに超えていた。力を抜けば、体重が枷に集中して手首の皮が擦り切れる。だから僕は、つま先を地につけ、ギリギリのところで体を支えていた。地味で、終わりの見えない拷問だった。
――ガチャリ。
鉄の扉が重く開く音に、全身がビクリと震える。革靴のような足音と、鎧の軋む音が近づいてくる。見えない。だけど、確実に誰かがここに来た。誰かが、何かをしに来た。
「……あ、あの! 一体……僕が何をしたっていうんですか? 暴れません、だから……この枷を、外してもらえませんか?」
震える声で、けれど必死に問いかける。返ってくる言葉を信じて、希望をかけて。――だが、返事はなかった。無言の空気が、さらに恐怖を募らせる。そして、低く落ち着いた初老の男の声が響いた。
「ほう……まだ少年ですね。だが……魔力の波動は異常に強い。正確な構造は読み取れませんが……これも、“加護”の影響でしょうか」
ぞわりと、背筋が粟立つ。その声に、聞き覚えがあるような……けれどはっきりとは思い出せない。すると突然――ヒュッという乾いた音と共に、脇腹に灼けるような痛みが走った。
「――ッ!! あぁっ……!」
細い火の線のような衝撃。そして、じわじわと遅れてくる鈍い痛み。僕は理解する。これは――鞭だ。
「な、なにをっ……何のつもりだよ……!?」
混乱と痛みによる怒りと恐怖が、反射的に口をついて出る。だが、すぐに鋭い怒声が飛んできた。
「黙れ、化物が!」
若い男の声――おそらく、連行してきた聖騎士のひとりだ。……化物? 僕が……? 戸惑いと混乱の中、再び初老の声が重なる。
「ステータス開示……ふむ、間違いありません。破壊神の加護。不死種……確かにデータ上ではそう出ています」
冷静で、感情のない声。まるで僕が人ではなく、“研究対象”であるかのように。
――パシャッ!
突然、冷たい液体が顔面にぶつかった。目隠しをしていても分かる。これは……水だ。額から頬、首筋、胸元へと流れ落ち――さっきの傷口へと染み込み、ヒリつくような刺激を走らせる。
「……聖水に反応はなし。傷の自然治癒も確認できず、か」
初老の男が呟く。実験だ。僕は、何かの“検体”にされている。
「では、次の手順に移ろうか。聖騎士殿、頼みます」
“次の手順”?嫌な予感が脳裏をよぎる。――どうして、こんなことに。何もしていない。何も悪いことなんて……!誰か、助けて。僕はただ、世界のどこかにいる“何か”に向かって、声にならない声で叫んでいた――。
――――長い、長い悪夢の時間だった。
初老の男と、二人の聖騎士による拷問は容赦がなかった。皮膚を裂かれる痛み。筋肉を貫かれる痛み。骨を砕かれる痛み。それでも僕は叫ばなかった。――いや、叫べなかった。声を上げれば、「魔物は人語を解す」などと勝手な理屈でさらに“実験”が激化していくだけだった。
そして、最後には――胸元に突き立てられた3本の剣。僕の視界は、濁った赤で染まり――やがて、すべての感覚が遠のいていった。……ああ、死んだんだな。やっと、終わるのか……
◇◆◇◇◇◇
「遅いね、お兄ちゃん」
「そうね。ビクトリアと寄り道でもしてるのかしら?」
日がすっかり暮れて、いつもなら家族で夕飯を囲んでいる時間。 それなのに、お兄ちゃんはまだ帰って来ない。ちょっとだけ、不安になる。 お兄ちゃんは優しいけど、そのせいで時々面倒事に巻き込まれることがあるから。
去年だって、ビクトリアお姉ちゃんにしつこく付きまとっていた上級生と喧嘩して、傷だらけで帰ってきた。 ……結局、その時はビクトリアお姉ちゃんが相手を倒しちゃったけど。良く言えば正義感が強いし、悪く言えば少しお節介。 でも、私はそんなお兄ちゃんが大好きだった。 ――たぶん、ビクトリアお姉ちゃんも。
誰よりも優しくて、いつだって自分のことより誰かを助けようとする。 私にとっての「英雄」って、きっとお兄ちゃんみたいな人なんだと思う。だからこそ、また何かに巻き込まれてないか……それが心配だった。
――ドンドンドン!
「……何だ? こんな時間に」
家の勝手口が、乱暴に叩かれる。お父さんが顔をしかめ、音のする方へと向かっていった。 この時間、店はもう閉まってるし、こんなふうに裏口を叩くなんて――とても珍しいことだった。
「おう、ビクトリアじゃねぇか! ……な、何ぃ!?」
「…………」
勝手口の方からお父さんの驚いた声が聞こえた。 私とお母さんも慌てて駆けつけると、そこには―― 顔面蒼白で、肩で息をしているビクトリアお姉ちゃんの姿があった。
「ビクトリアお姉ちゃん、何かあったの?」
胸の奥が、ずきんと痛む。 嫌な予感が全身を駆け巡る。そして、お姉ちゃんは普段の落ち着いた様子を完全に失い、叫ぶように言った。
「……ラルクが! ラルクが捕まった!!」
え……? お兄ちゃんが――捕まった? 頭の中が真っ白になる。「捕まった」って、それって……誰かに連れて行かれたってこと? まさか、悪いことをして捕まったってことじゃ――そんなの、絶対にあるはずない!
「どういうことなの!? ビクトリア、詳しく教えてちょうだい!」
私が声を出す前に、お母さんが叫ぶように問いかけていた。 肩をつかまれたお姉ちゃんは、しばらく荒い息を整えてから、震える声で説明を始めた。……大聖堂で、お兄ちゃんが何かの検査を受けた。そこで異常が見つかったらしく、聖騎士に連行されてしまったという。詳しい内容は難しくて、私にはあまりよくわからなかった。 でも――お兄ちゃんは、悪いことなんてしていない。 なのに捕まって、牢に入れられた……それだけは、わかった。
「ワシが迎えに行って来る」
「私も行きます!」
お父さんが立ち上がり、すぐさま西の牢獄へ向かおうとする。 その後ろを、ビクトリアお姉ちゃんが追いかけた。お母さんは涙を堪えながら、ふたりの背中を見送っている。 私は思わず、その腕にすがった。
「お母さん……」
「大丈夫。きっと、お父さんが連れて帰ってくれるわ」
優しく、包み込むような声。 お母さんに抱きしめられながら、私はようやく少しだけ安心した気がした。でも――その夜、お兄ちゃんもお父さんも、帰って来ることはなかった。
◆◇◇◇◇◇
――地面が揺れている。そして、鼻を刺すような磯の匂いが肌にまとわりつく。気がつけば、僕は大量の荷物に囲まれた空間で、うつ伏せに倒れていた。 両手は後ろ手に縛られ、重たい枷で固定されていて、動かすことすらできない。
……ここは、どこだ? 拷問を受けたあの地下牢じゃない。もっと湿っぽくて、狭くて、木のきしむ音が耳に残る――まるで倉庫のような場所だ。気のせいではなく、地面は確かに揺れている。 潮の匂いが漂うこの感じ……海の上? 船の中か?
――そうだ、ここは古びた船の積み荷倉庫だった。 木材に染みついた潮風の匂い、薄暗い空間、そして規則的な揺れ。それが、そう告げている。意識を失う直前の記憶が、断片的に蘇ってくる。――あのとき。
「国外追放で本当に宜しいのですか? 教皇様」
「……仕方あるまい。何をしても殺すことができぬのだ」
……教皇? 今のは、教皇の声だったのか? この国の聖職者の頂点に立つ男。名前は――確か、ネディロ教皇。式典で何度か遠目に見かけたことがある。そのときは、温和で慈悲深そうな笑顔を浮かべていた。 まさか、あの優しげな人物が、僕にあんな非道を……?
信じたくなかった。 心の中で思い描いていた“教皇”という人物像と、実際に僕を拷問した存在とが、どうしても一致しない。 でも、目隠しをされていたせいで、姿を見ることはできなかった。
――ズキリッ!
突然、心臓に針を刺されたような鋭い痛みが走り、思わず血の味が口に広がる。 歯を食いしばって、なんとか声を押し殺した。
「……これで良いだろう。仮にこの者がこの国に戻ってこようと、無力化できる。後の処理はお任せいたします」
そう言い残して、教皇――と呼ばれていた男は立ち去っていった。 そのあと再び、複数の聖騎士たちによる拷問が始まった。最終的には、心臓を三本の剣で貫かれ――そのとき、僕の意識は途切れた。たしかに、あの瞬間は……死んだ、はずだった。
……わけが、わからない。これまで平穏に暮らしてきた街の、その裏側に潜んでいた“何か”。 触れてはいけない黒い影のようなものに、僕は巻き込まれてしまったのかもしれない――。
恐怖と苦痛が、文字通り体と心に刻み込まれ、動くことすらままならない。破壊神の加護とは、そんなにも罪深いものなのだろうか?国外追放――。僕は船に揺られながら、どこへ運ばれているのか見当もつかなかった。薄汚れた床を見つめながら、無力な自分の悔しさと、無抵抗のまま他者から浴びせられた理不尽な暴力に涙が溢れ出る。 国民の義務として受けたはずの成人の儀で、持って生まれた運命のせいで、殺されるような拷問に耐えなければならないなんて――あまりにも理不尽すぎる。
僕が……悪いのか? 生まれたこと自体が罪なのか? 誰も答えを教えてはくれない。そんな自問自答が、体の痛みをかき消す代わりに、心の痛みを深く刻んでいった。
「……おっ、目が覚めたようだな」
突然、薄暗い倉庫に声が響く。誰もいないはずの場所。 でも、確かに誰かがここにいる。女性? まだ声変わりしていない少年? どこか幼さを感じさせる声だった。
「……密航者か?」
その言葉が口をついて出た瞬間、口の中に鉄の味が広がる。 殴られて腫れた瞼をゆっくりと開け、声の主を探そうとする。
「……まあ、間違ってはいないな」
目の前に黒い物体がひらりと降り立った。 見た目はごく普通の、毛並みの良い黒猫だった。
「回復魔法を掛けておいたから、外傷はもう治っているはずだ」
クリクリとした黄金色の瞳が薄暗がりに浮かび上がる。どこか得意げな、いわゆる“ドヤ顔”に見えるのは気のせいだろうか。
「あ、ありがとうございます。えっ……猫が喋った!?」
猫が話すことにも驚いたが、回復魔法まで使えるとはさらに衝撃だった。 目の前の黒猫は鼻を鳴らしながら、ツンとした目つきで僕を見下ろしている。 その猫特有のツンデレ気味な態度が、なぜかとても愛らしく感じられた。
「俺様の名前はスピカだ。よろしくな、人間!」
これが人語を喋る黒猫スピカと僕の最初の出会いだった。
お読みいただきありがとうございます。
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