たべる。あなたと。
シロは息を潜め、森のなかを歩いている。
その辺りでむしりとった草や、腐れて落ちていた木の実を拾って、体にすりつけている。匂いは消えている筈だ。後はあしおとと、呼吸にさえ気を配ればいい。口には匂いの強い小枝をつっこんでかんでいる。この辺りに多く生えているものだし、問題はない……。
気配を感じ、シロはそちらに弓を向けた。彼は村一番の弓遣いで、今夜も得物を求めて森をうろついている。少しでも自分の強さを証明する為に。少しでも自分の価値を上げる為に。
矢を放ち、シロはにやりと笑った。確実になにかにあたった気配がしたからだ。「やった」
小さくつぶやいて、あしおとを殺してそちらへ走る。森のなかはすべて彼が把握している場所であって、ほんのわずかな星明かりだけでも自由自在に動くというのは、造作もないことだった。
彼が放った矢は、たしかに獣を射貫いていた。そこにはこぶりな鹿が居て、血を流し、かすかに痙攣していた。
その場で鹿の血をぬき、肩へ担ぐと、シロは小枝を吐き出して、あしおとをたてないように留意しながら村へと移動をはじめる。折良く雲が晴れ、星が顔を出した。
鹿は大きなものではないが、村の人間に分けるには充分だ。多く獲っても保存することは難しいし、呪い師のミマは薬づくりに忙しい。干し肉にしてもらいたいといって、手を煩わせるつもりはない。
血をぬききっていなかったのか、肩にあたたかいものがしみこんできて、シロは笑いそうになる。二回前の春に黄泉の国へ引っ張られた呪い師なら、これも食糧にできたが、彼女はミマに対抗心を抱いており、その方法を教えなかった。
ミマはそれを残念がっている。村にひとりの呪い師になってからは、とりひきをしている村の呪い師達にいろいろと教えを乞うているようだが、獣の血を食糧にまぜこめる呪い師は、今のところ見付かっていないらしい。
はっと小さく、誰かが息をのんだ。
「誰だ」
村はもう近い。シロは鹿を足許へ落とし、腰にはさんだ小刀をぬく。
巨木の向こうにひとが居る。ここまで近寄られていたのに、何故気付かなかった……。
少し前から、川向こうの村とは対立状態にあった。土地を荒らしに来る者、大切な木を切り倒していく者は、後を絶たない。これ以上そういったことが続けば、戦わざるを得ないだろうと、長老達は話し合っている。
空気が張り詰め、シロが飛びかかろうとしたところで、そいつは出てきた。
長い髪を束ねている、痩せた、背の高い女だ。
シロは動きを停め、それから眉を寄せた。女は小さなかごを持っていて、顔を俯けているが、見知った人間ではない。
「どこの村の者だ?」
返事はない。
シロは小刀を持ったまま、女に近付いていった。女は顔を背け、か細い声を出す。「上流の……」
「ここまで来たのか? 女ひとりで?」
上流の村といったら、シロの村と交流がある。こちらでとれたものや、呪い師のつくった薬を、あちらの薬や布と交換しているのだ。ほかの村よりも頻繁にとりひきをしている。
たしかに、移動するのに半日程度で済むが、女ひとりで歩くような道ではない。とりわけ、このような夜更けに、女がひとりでこの森に居るのは、違和感しかない。呪い師ならば、夜更けにしかとれない薬草があるとかなんとかで、この時間に森に居ることもあるが、だとしてもそれをまもる為に男が付き従っているのが普通だ。でなくば、貴重な知識を蓄えた呪い師を、失うおそれがある。
大体、上流の村からいつもとりひきに来るのは、背の高い男ふたりと小柄な呪い師の女で、近頃その女とふたりのうちのどちらかが夫婦になったと聴いた。もし呪い師の女が来るとすれば、夫になった男がかならずついてくる。
背の高い女の右手が見えて、シロは半分得心し、頷いた。成程、上流の村の女がするいれずみが施されている。上流の村出身であるというのは、嘘ではないらしい。
それから、女が少しだけ顔を上げた。女の顔、それに首には、大きくあざがある。シロはじろじろと、それを見る。決して失礼な行動ではなかった。彼の村では、そういった身体的特徴のある人間は、祈禱師になる。上流では違うのかもしれないと、シロは思った。女がはずかしがるように、顔を背けようとしているからだ。
女は困ったような顔をして、項垂れる。
「あの……わたしは、こちらの呪い師に、学びに来たの。彼女の家に、泊めてもらってる」
シロは鹿を担ぎなおし、女は足許にあった大きめのかごを担ぎ上げた。それに小さなかごを蓋のようにしていれる。森はまだ、獣達で充ちていて危ないし、女ひとりではなにがあるかわからない。呪い師をまもるのは大人の男として当然のことだから、シロは彼女を村まで送り届けることにしたのだ。シロの提案に、女は頷いて、黙りこくっている。
女が背負ったかごには、薬草が詰まっていたのが見えた。呪い師の技を学びに来たというのは、嘘ではないらしいと、シロは判断する。それらの薬草は、ミマがざるの上にひろげて干しては、実に大切そうに束ねているものだからだ。シロが牛に弾きとばされた時も、ミマは湿布や薬湯で、シロを黄泉の国からとりもどしてくれた。
ルィルが谷から戻ってきた時も。
ルィルのことを思い出して、シロはいやな気分になる。ルィル。生まれてすぐに親が黄泉の国に呼ばれたルィル。
ルィルを預かったのはミマの父親で、ルィルとミマは兄弟のように育った。誰もが、ふたりがいつか一緒になるものと考えていたし、実際あのふたりは慕いあっているらしい。
だがシロは、それを認めたくなかった。彼はミマにあこがれ、彼女を好いているのだ。だから……。
「あの」
女がかなり後ろに居ることに気付いて、シロは狼狽え、彼女を振り向いた。「なんだ?」
「ごめんなさい。足が痛くて」
「ああ……」
なにか踏みつけたのかもしれない。今の時期は、棘のある植物が元気だ。
数歩戻る。女は疲れたみたいに息を吐いて、その場に座りこんだ。体を覆っている布の間から、足首がひょこりと顔を出す。彼女はそこにもいれずみをしていた。
シロはそれに少しだけ目をとめ、なにか違和感を覚えたものの、放っておいた。「負ぶうてもいいが」
「いえ……少し休めば、大丈夫だと思う。あなたの獲物を、おいていくことになってしまうし」
女はかすみのような、小さな声で話した。シロは鹿をおろし、腕にまいていた布を一枚外す。
「足にまく」
「そんな、申し訳ないから」
「いい」
掴むと、女の足は柔らかかった。足裏を撫でて検分するが、棘が刺さった様子はない。
足裏も柔らかく、呪い師らしくはなかった。呪い師といえば、森や川辺や谷や山を歩きまわって、薬草をさがしているものだ。ミマの足の裏はかたくなっていて、石の上でも平気で歩く。みならいのうちは、足裏はまだ柔らかいのだろうか。
シロは布をそれにまきつけて、足の甲で結ぶ。女はほっとしたのか、かすかに息を吐いた。かなり足が痛いようだ。よく見てみれば、ふくらはぎは細く、肉に力はなく、やはり外を長く歩く呪い師らしくはない。
「ありがとう、……シロ」
「ああ」
シロは女の隣に腰を下ろし、寛いだ姿勢をとる。女は頭上の木の葉越しに、星空を仰いでいる。シロからは、あざのあるその横顔がはっきりと見えた。
まるで今まで星空を見たことなんてないみたいに熱心に顔を仰向けている女は、美しかった。そう感じたことにシロはまた、狼狽えて、ごまかすように口にする。
「名をきいても?」
女はゆっくりと、シロを見る。柔らかい微笑みをうかべる。「……チル」
「シロ? どうしてあなたが……?」
甘やかな高い声は、ミマのものだった。
村のすぐ傍まで戻ると、ミマとルィルがやってくるところだった。心なしか、ミマはあおくなっている。急いできがえたようで、丈長の貫頭衣とストールだけだ。帯を忘れている。
ミマは右頬のいれずみをゆがめるみたいにして、泣くような顔になった。「ああ、心配したのよ」
それが自分へ向けられた言葉だったらどれだけよかっただろう。ミマはチルへ駈けよって、手をとり、それから抱きしめた。兄が弟にするような仕種だ。
チルはかすかに笑みをうかべ、肩からかごを下ろした。ミマがそれをうけとる。
「まあ、こんなにとったの?」
「あなたみたいにできると思ったのだけれど」
チルはやはり、か細くて、ほとんど聴きとれないくらいだ。ミマはにこっとして、親しげにチルの肩を叩く。「わたしよりも凄い」
「そんなこと……ごめんなさい、勝手に家を出て」
「いいえ」ミマは不意に、シロへ顔を向けた。が、すぐに目を伏せる。「ありがとう、シロ。彼女を見付けてくれて。森に不慣れだから、迷っているかと思って心配していたの」
「たいした働きじゃない」
そういったが、シロは内心、ミマに礼をいわれたことを喜んでいた。彼女とこんなふうに言葉を交わすのは、久々だ。このところ、彼女は俺に対して頑なになっている。
シロが、チルをミマの家まで運ぶことを申し出る前に、ルィルがチルを抱え上げた。チルはそれに驚くこともなく、ルィルの肩に片腕をまわす。ミマがまた、目を伏せたままでいう。「わたし達は戻る」
「……ああ」
「ありがとう」
そういったのは、ミマではなくてチルだ。シロの目をまっすぐに見て、かすかに笑んでいる。シロはそれに、動揺する。チルは左目が濁っていた。そちらがきかないのだろう。ミマも目がいい訳ではない。呪い師には、そのような特徴を持ったひとが多く居る。
だが、チルの目は格別に美しい。
三人はミマを先頭に、村へはいっていった。シロは鹿を担ぎ直し、頭を振ってからそれに続いた。俺は仲間外れにされたらしい。彼女の大事なみならいを見付けたというのに。
鹿は翌日の、村の者らの食事になった。長老達に誉められ、昨夜のミマ達のある種つめたい仕打ちに打ちひしがれていたシロは、それで幾らか気持ちを持ち直した。
シロは長老の息子だった。一回前の春に父が黄泉の国へ行ってしまい、ミマでも呼び戻せなかった。仕方のないことだ。
父は偉大だった。ずっと居なかった祈禱師を手にいれ、村に安定をもたらした。放浪暮らしだったのを、ここにずっと住むことにしたのも、父とその世代の長老達だ。すべて、黄泉の国へ行ってしまったが。
「シロ、くらい顔だな」
メイゼンが歩いてきて、木の実と一緒に焼いた鹿の肉を、シロにおしつけた。シロはそれを口へ運ぶ。礼はいわなかったが、メイゼンに気にした様子はない。
メイゼンは背の高い、豪放磊落な男で、シロよりも春三回分はやくに上流の村で生まれた。男ばかりの兄弟だったので、こちらの女ばかりの家と、子どもが交換されたのだ。それがメイゼンだった。
ひとりで鹿を狩ることができるし、村を襲った人間を数人殺したこともある、立派な戦士だ。顔には戦士の証のいれずみがあり、耳には飾りをつけている。祈禱師の護衛を任されることもある、長老に次いで権限のある男だ。
メイゼンはなにくれとなく、父を失ったシロに気を配ってくれるが、シロは彼に対して心を開いてはいなかった。メイゼンはミマと親しいのだ。ルィルの次に、ミマの仕事についていき、彼女の家に泊まることもある。
シロはミマの仕事についていったことは、一度もない。
小柄なジャナが走ってきた。やわらかそうなうねった髪が、ふわふわと揺れる。「メイゼン、ミマが呼んでる」
「ああ。シロ、きちんとくえよ。おまえが獲ってきたんだから」
メイゼンはシロとジャナの肩を軽く叩いて、歩いて行った。ジャナはその後ろ姿を、口を尖らせて見ている。不満げで、不機嫌な表情だ。それに自分に近いものを感じて、シロは低い位置にある彼女の顔をじっと見る。
ジャナはシロを見上げ、ふんと鼻を鳴らして、走り去った。今日は日差しがある。手先の器用な者達で広場に集まって、縫いものをするのだろう。
シロは鹿を食べたが、味はいまいちだった。
俺のなにが悪いのだろう。
数日たって、ホップを噛みながらまた夜の森を歩き、シロは考える。ひとりで狩りに出られる程の、きちんとした大人の男なのに、ミマはなにが気にいらないのか、わからない。村のほかの男達と親しくできないところがきにいらないのだろうか。自分の要領の悪さを笑い、ばか扱いしてくる男達と、どうして親しくしなくてはならないのか、シロにはわからない。一人前の狩人になって、あいつらを堂々と無視できるようになったのに、それではだめなのか。
なにもかもわかることはない。
ミマはルィルとメイゼンをつれて、仕事に出た。谷に薬草をとりに行く、と。チルは留守居らしい。ミマがみならいをおいていることについて、誰からも話は聴かなかったし、長老達も黙っている。
呪いには、素人にはわからない難しい部分がある。おそらく、彼女がみならいとして学んでいることは、黙っていないといけないのだろう。だからシロも、なにもいわなかった。
ルィルは彼女の知っている。メイゼンもそうだろうか。一緒に仕事に行くくらいだから知っているのだろう。
それなのに、俺だけが仲間外れにされている、と、シロはいらだつ。そして、そのことを忘れようとする。
ミマが自分をきらっている理由には、心あたりがあった。
「シロ?」
か細い声に、シロは足を停める。木の幹の向こうから、チルが顔をのぞかせていた。今夜は髪を結っておらず、長さがより際立つ。足には毛皮のおおいをして、足裏を保護していた。
シロは驚いたものの、自然と微笑んでいた。「やあ。また、ミマの真似?」
「そう」
チルはくすっとして、おぼつかないあしどりで、シロの前までやってきた。小さめのかごを背負い、腰にはなにかを包んだ布をまきつけて結んでいる。
転びそうになったのを、シロは笑顔で抱き留める。チルはおそらく、ミマと同じくらいに生まれただろうに、表情や仕草は子どもっぽく、愛らしかった。
彼女を、シロは両腕に抱えた。弓を帯へ戻し、チルを抱え直す。チルはもしかしたら、脚が不自由なのだろうか。この前も、長く歩くのはつらそうだった。
チルは男に抱えられたというのに、なにもおそれる様子はなかった。微笑んで髪を後ろへ払いのける。
「ちょうど……よかった。すこし、てつだってもらえない?」
掠れた、か細い声に、シロは深く考えもせずに頷いていた。
チルがほしがっていたのは、葡萄だった。それは背の高い樅に絡みついているつるになっていて、彼女はそこまでのぼることができないらしい。「これくらいを?」
驚いて問い返すシロに、チルは困ったように肩をすくめてみせる。やはり、脚がきかないのかもしれない。
シロは幹に飛びついて、するするとのぼった。葡萄の房を、ひとつとる。チルがかごを掲げるようにしていて、シロはそこへ葡萄を放り込んだ。村一番の弓の腕を持っているシロには、それは造作もないことだった。
「ありがとう」
「……もう必要ない?」
「あまりとっては、悪いから」
チルはそういい、シロは不意に、チルに対して愛しさがこみあげて、息を停めた。
飛び降りる。地面はあたたかでやわらかく、チルはシロの動きに驚いたのか、目をぱちぱちさせた。シロはかごを覗きこんだ。
「これも、薬に?」
「ううん。食べる」
「分けてもらってもいいか」
チルはにっこりし、少し待っていて、といった。
チルはその場に座り込んで、適当な石をつかい、作業を始めた。腰の布からとりだした肉の塊を、ちゃちな小刀で切り、葡萄を添えてシロへさしだす。シロは口を開け、チルが肉と葡萄をそこへ放り込んだ。
かみしめる。肉は焼いて、保存しているものだ。食べきれないくらいに獲物があった時には、皆でそうやっておいて、村の者達に平等に分ける。ミマが忙しくなければ干し肉にもしてもらえるが、わがままはいえない。彼女の薬は、別の村とのとりひきに欠かせないものだ。
だから、彼女と添いたいと俺がいった時に、誰も反対しなかった。
まだしっかり熟れてはいない葡萄と、焼かれてぱさついた肉は、しかし好相性だった。葡萄の酸味と甘みが、肉の塩味とまざって、おいしい。
チルもそれを口へ運び、にっこりして、もうひと切れシロへさしだす。シロはまた、彼女の手からそれを食べた。シロと同じ夏に生まれた女達や、夫のいない若い女達とは、チルは少し違った。やわらかで、でも力強い雰囲気が、彼女にはある。
ぱっと顔を背ける。あまり長い間、彼女を見ているのは、よくない気がした。
チルは黙って、余ったものを布へ包んで腰へ戻す。葡萄は半分ほどになって、かごへ戻った。
「うまいものをもらった」
「……ええ」
「礼は、今度でいいか」
チルを見る。彼女は微笑んで、頷いた。
「チ……ミマの家に、余分にやってもらえないか」
三日後、仕留めてきた鹿をジャナが解体しているのを見ながら、シロはそう頼んだ。あれ以来、チルは森に姿を見せず、自分の分の肉を渡したかったのだがそれはできていない。だから、狩ったものを直に分ければいいのだと思い付いた。
普段よりも割り当てが多ければ、そしてそれがシロの狩ったものだと知れば、チルはシロの意図を理解するだろう。
ジャナはうすい刃の小刀を持つ手を停めず、睨むようにシロを見た。
「また、ミマだけ特別扱い?」
「いや……」
「あなたがあの女をしっかり見ているべきだと思う」
ジャナは不機嫌だ。ミマの話になると、彼女はいつもそうだと、シロは唐突に気付いた。ミマがたまに広場に行って、細工物や縫いものを手伝うと、ジャナが凄くいやそうにすることも。
ジャナは毛皮を乱暴にはぎとる。
「彼女はメイゼンと親しすぎる。彼は彼女に近すぎる。どうしてあんな不公平がゆるされるの? 彼はわたしのこと、要らないみたい」
ジャナは泣くみたいにいって、鹿の脚を綺麗に体から切り離した。ジャナがメイゼンを慕っていると初めて気付いて、シロは狼狽えた。
結局、ミマの家に――だから、チルのもとに――普段より多く割り当ててもらうことはできなかった。シロはそれからも、毎晩のように狩りに出て、弱々しい獣達を狩った。昼間動くには弱すぎる者達だ。そういう弱い者を狩ることを、彼ははじとは考えない。父は鹿に突き殺された。幾ら獣のなかでは弱いといっても、人間ひとりではかなわない。だまし討ちでもなんでも、日々の糧を得ることのほうが重要なのだった。
縫いものの係から獣を解体する係にかわったジャナは、配置換えを恨んでいるらしい。
「メイゼンはなにをしてるって、あんたに訊いてわかる?」
獲物を持って行くと、数回に一度、そう訊かれる。獣を解体するのは設備の整った場所でだ。メイゼンはミマにくっついている時と食事の時、それから祈祷師を護衛している時以外、村をまもる為に近場の森や川辺をうろついている。人数の多い縫いもの係なら、理由をつけて席を外すことは、日に数度ならできた。ジャナは身軽だから、村の傍の木にのぼって、メイゼンを見ては、安堵していたらしい。
ところが、解体は知識や技の要る作業だ。彼女ともうひとり、耳のきかないばあさまがやっているだけで、頻繁にはなれることはできない。手が血で汚れるから、それで木にふれることもできなかった。森のなにかを怒らせる。
「今日は、ミマとルィルと、谷へ行った」
「どうしてあんたはつかいものにならないの?」
ジャナの言葉は激しく、甲高く、突き刺してくるようだったが、シロはいいかえさない。彼女の気持ちはわからないでもなかった。慕っている相手が、自分ではない女と一緒なのだ。心穏やかでいられる訳はない。
シロも、いやだった。ミマがルィルや、メイゼンと一緒に居るのが。
だが今は、チルのことも頭をちらついている。ルィルやメイゼンがミマの家へ泊まることもある。そんな時に、チルはどうしているだろう。ルィルやメイゼンが、彼女と親しく話していることを想像すると、吐き気がした。
ジャナは言葉を切り、唇をかんで、つうっと涙を流した。小刀をつかって、まるまる肥えたウサギを、細切れにしていく。シロは狩りの印の獲物の骨を少しもらい、その場をはなれた。
「昼間は悪かった」
夕方、焼けた肉を持って、ジャナがやってきた。手には血がこびりついていて、爪が染まっている。
シロは肉をうけとり、小柄なジャナの頭を見下ろす。長老達と先程、話していて、気疲れしていた。シロはもう少ししたら、長老に加わる。彼は狩人として村に大きく貢献しているし、父親が偉大な長老だった。月が充ちる日に、祈禱師のゆるしを得て、長老になる。祈禱師に会うのは初めてだ。今から、緊張する。
ジャナが顔を上げ、低声でいった。
「あんた、どうして彼女を慕ってるの」
「それは……」
「教えて」
ジャナとはこれまで、あまり話したことはなかった。ずけずけしたものいいに戸惑ったが、シロはもごもごと、答える。「彼女は、俺を黄泉の国から呼び戻してくれた。凶暴な牛にやられた母さんも一度、救われた。そのあと、だめだったけれど、一度は猶予をくれた」
「……それは慕っているっていうの?」
「子どもの頃から、ミマは俺に優しかった。俺がばかでも、彼女は気にしなかった」
「わたしはそんな理由じゃない」ジャナは腹立たしそうに拳をつくる。体がぶるぶると震え、顔がまっさおになる。「メイゼンが居ないとわたしはだめになる。彼が居ないといやなの。彼が居なくなるんだったら、死んだほうがまし」
ジャナは怒ったあしどりではなれていった。耳のきかないばあさまが、焼いた肉を黙々と配っている隣に並び、微笑んでそれを手伝う。先程の腹をすかした熊のような表情との落差に、シロは唖然とした。
「シロ」
かすかな声にはっとして、口をつけていない肉を抱えたまま、シロは広場をはなれる。小屋の陰から、チルが顔を出して、シロは息を吐いた。
シロはそこへ駈け寄り、チルの腕を掴む。チルは微笑んで、シロを仰いだ。シロは彼女がなにかいう前に、たまたま手にいれたばかりの肉を示す。「これを。この間の、礼を……会えなかったから」
「ごめんなさい」チルは小さく頭を振る。「でも、もらえない」
「なぜ?」
「お願いがあるから」
チルは相変わらず、うまく喋れないのか、声が掠れていた。シロは彼女を抱え上げて、小走りに村を出る。チルは抵抗しない。
彼女を村の者達の目に触れさせたくなかった。どうしてだか。
チルはやわらかく、シロのうなじを撫でた。そこにはいれずみをしてある。シロはチルの、あたらしい毛皮の衣が、自分の獲った鹿でできているらしいと気付いた。これは、長老達へ渡した。ミマへ渡っていたのか。
女を狩りへつれていくなんて狂気の沙汰だ。
だが、チルがどうしてもというから、シロは従った。彼女に見詰められ、頼まれると、断れなかった。
「静かに」
チルはあしおとを立てて歩いてしまう。何度注意しても、落ち葉や枝を踏んで音を立てた。その度、彼女はばつが悪そうにする。
首尾よく栗鼠を見付け、シロは弓でなく、手掴みでそれを捕らえた。さっと小刀で殺す。チルはそれを、目をかがやかせて見ている。
「獲れた」
「すごい」チルはにっこりする。「ねえ、お願いは、もうひとつ、あるの」
シロは唸る。チルのお願いは、断れない。
今度はけれど、穏便なものだった。
チルは器用に栗鼠を捌き、その辺でシロが見繕ってきた串をうって、焼いている。火をたいて煙を出したら狩りなんてできなくなるのに、シロはそれを承知した。これ以上、チルをつれて夜の森を歩きたくなかったのだ。彼女になにかあったら、とりかえしがつかない。
チルは栗鼠を焼きあげ、なにかを塗りつけた。その部分も火で炙る。「それは?」
「草と、木の実でつくった。おいしいはず。はい」
串をさしだされ、戸惑う。チルは小首をかしげ、シロはおずおずと、栗鼠にかじりついた。
あおくささと、ぴりっとした刺激、それに木の実の脂がまざった、なんともいえずいい味がする。それに、引き締まっているが脂っこい栗鼠の肉は、ぴったりだった。
「うまい」
「よかった。シロに、食べてもらいたかった」
チルは少しだけ、哀しげにした。「あなたとは、もう会えないかもしれないから」
会えない?
シロはチルを抱き寄せ、きつく抱きしめた。
チルの唇に自分の唇をおしあててから、シロは自分がなにをしているのかわからなくなった。ミマという許嫁がいるのに。
彼は、父を失ってすぐ、大きな熊を仕留め、長老達に認められた。熊は村を襲ってきたもので、それを倒すのは村に大きな貢献をしたということだ。彼には大きな権限が与えられた。誰とでも、好きな相手と添える。
だからミマを選んだ。長老達は、呪い師のミマが出自のはっきりしているシロと一緒になることを喜んだし、ミマはシロの求婚を断らなかった。
次の満月に結婚して、シロは長老に加わる。そう決まっていた。決まっている。村の者も承知しているのに……。
「すまない」
自分の涙声に動揺して、シロは顔を伏せた。
チルはシロのしたことに対して、咎めはしない。ゆるく頭を振り、シロの頬を優しく撫でる。「シロ、あなたには、ミマがいる」
「いや、違う。今、わかった」シロは頭を振る。「チルを失いたくない。上流の村へ戻るのか? なら、俺も一緒に行く」
チルは痛そうな顔をした。
「そうでは、ない……」
「クハク、なにをしてる?」
訝しげな声に顔を向けると、メイゼンが居た。その腕にジャナがぶらさがるようにしている。どうやら、森で逢瀬を楽しんでいたらしい。
クハク?
シロは腕のなかに居る、チルを見る。あざ……それに、足首のいれずみ。
「祈禱師……なのか? あなたが?」
チルはうなだれ、涙をこぼした。
メイゼンはチル、もといクハクと同じ村の出で、顔を見知っていたし、気安く接することができるからと、クハクの護衛をよく請け負っていたらしい。
泣き出したチルを、ジャナが慰めている。メイゼンとシロは少しはなれて、それを見ていた。
「彼女が上流出身だと知らなかったんだろう。それを知っている者は、お前達の世代に伝える前に多くが死んだし、彼女がどこの出でもここの祈禱師であることにかわりはない。長老達はだから、伝えなかった。必要がないと考えたんだ」
「だが……祈禱師は祈祷所から出てはいけない」
「ああ。祭礼と、お告げを伝える時以外はな。だがそれは、以前別の村と戦っていた時の決まりだ。あの時の奴らの狙いは祈祷師だったと俺は父から聴いた。だからお前の父親が、祈祷師が外に出ることを禁じた。クハクはそれを律儀にまもっているだけだ」
そんなことはまったく知らなかった。
黙り込むシロに、メイゼンは続ける。
「ああ、まもっていた、だな。彼女は今外に居る。……クハクは目が弱い。どうせ、昼間はほとんど外に出られない。俺と、ミマ、それにルィルは、彼女がたまに外に出るのを、こっそり手伝っていた」
「それは、掟破りだ」
思わず反駁する。
「ほんの少しの気晴らしもしてはならんと? 彼女の脚を見たか。日がな一日、祈祷所にこもっているから、彼女はまともに歩けないんだぞ」
メイゼンの声に怒りを感じ、シロは首をすくめた。祈禱師というのは村の平穏の為に必要な者で、それが定められた通りにそこにずっと居るのは当たり前だと思っていた。定めをつくったのが誰なのか、どうしてその定めができたのかまでは、考えていなかった。
クハクがとらわれていたと思うと、腹が立つ。
ジャナが戻ってきて、怒り顔をする。「シロ、あんた、役に立って」
「なにをいってる?」
「彼女はあんたを慕ってる。あんたは?」
シロは口を開け、閉じ、開ける。ジャナが満足げに頷き、腕を組んだ。メイゼンを見て、甘えたようにいう。「メイゼン、手をかしてくれる?」
「勿論」
メイゼンはそう応じ、シロを振り向いた。
「ところでいい匂いがしてるんだが、俺達にも分けてくれないか? 腹が減ってる。ちょっと体力をつかったんだ」
ジャナが赤くなって、メイゼンをひっ叩いた。
夜の薬草さがしから戻ったミマとルィルは、四人が揃って待っているのに目をまるくしたが、事情を聴いて頷いた。
ミマは涙を流して喜んでいる。俺との結婚がそんなにいやだったのかとシロは内心動揺したが、そうではなかった。クハクの手をとり、よかった、といっているからだ。
「ミマ、ありがとう」
「ううん。なんにもできなくて、もどかしかったの。シロなら、長老になって掟をかえられる」
ルィルがシロの肩を叩いた。「シロ、クハクを頼んだ。お前ならば任せられる」
「あ、ああ……」
ルィルは悔やむみたいに目を逸らす。それを、ミマが優しい表情で見ていた。この間に割り込もうとしていた自分を、シロは少しだけ笑う。今となっては、どうしてミマに執着したか、わかる。ジャナのいうとおり、それは「慕っている」とは違った。優しい、そして掟に忠実な彼女なら、自分を拒まない、というだけの理由だ。
拒まれるかもしれなくても、クハクとは一緒になりたいと思った。だからあんなふうに、気が急いて、一緒に行くとまでいった。ひとを恋い慕うというのは、こういうことなのだろう。
クハクは濁った目でシロを見て、にこっとした。シロはそれを見たら、うまいものをたらふく食べたような気持ちになって、彼女を抱き上げる。
六人は並んで、長老達の家へと向かっていった。
「では、シロをあらたな長老にする。反対の者は?」
誰も声を上げない。長老達もだ。
シロがクハクと結婚し、ルィルがミマと結婚することを、長老達には奇妙なほどすぐに承知してくれた。だが、理由はすぐにわかった。彼らもクハクがひとり淋しく祈祷所にこもり、村の為に祈っていることを、後ろめたく思っていたのだ。掟についても緩和が決まった。
ついでに、メイゼンとジャナもいつの間にか婚約していた。ふたりはすでに結婚し、ジャナは子どもができたと、獣の解体の係から縫いものの係に戻った。身軽であることから、いずれはミマのみならいになる予定だ。
ルィルとミマはまだ一緒になっていないが、今日もふたりで谷へ行った。時期を逃すと薬草は採れないから、とミマが申し訳なげで、シロとクハクは苦笑いした。ミマの仕事は呪い師なのだ。友人の結婚式があるからといって、予定は崩せない。
シロとクハクは長老達に祝われて、結婚を誓った。クハクは目を傷めないよう、布をかぶっている。彼女の顔を多くの人間が知らなかったのも、たまにお告げで出てきてもそうやって布をかぶっているからだ。
「シロを長老とみとめます」
クハクが掠れた声でいった。ほとんどひとと喋らない彼女は、のども衰えているらしい。
「そして、わたしの夫に……」
シロがミマとの暮らしに備えてつくっていた家は、途中からクハクに合わせて姿をかえた。彼女は喜んでくれて、シロは嬉しかった。
「シロ?」
「ああ」
「今夜は、なにを食べる?」
相変わらず祈禱師のクハクだが、夜はシロと一緒に居ていいと決まった。シロには狩りがあるから、毎夜一緒には居られない。いずれ、川向こうの村との戦いもあるかもしれない。その時にはなにより彼女をまもる為に、自分は弓をとって戦うだろうと、シロは思う。
夜、村に居る時には一緒に食事をとれるように、家のすぐ外には小さな煮炊き場をつくった。食事を用意することが好きなクハクの為に。
シロは妻になったひとを抱きしめて、チルのつくるものならなんでもいい、といった。それは事実だ。彼女のつくるものはなんだってうまい。
そして、彼女は彼にとって単なる祈禱師のクハクではなく、可愛らしいいたずら者のチルでもあるのだった。