第58話 打ち合わせは予定外のことで揉めるものです
『エメルダ雑貨店』の裏庭にある物置小屋が石鹸製造の為の秘密基地だ。
その場所でエリスちゃんとバルドーさんが食べ残した海藻擬きが固形石鹸の材料に適している可能性が急浮上したのだ。
エメルダさんもお残ししたことを、怒るに怒られず、と言った感じだ。
これなら濃度や油の種類、塩の投入などの条件を変えていき、最適な割合を見つけることが出来れば製品化しても良いだろう。
その割合を見つける為に、極端に地道で地味な研究が始まるのかも知れないが、そこはルケイドに丸投げしても良いだろう。
なんたってルケイドも転生者の一人なのだから。石鹸が欲しいに決まってる。
俺はルケイドに対してもこれまで洗浄剤と言ってきたのだ。
なのに彼は洗浄剤ではなく、『固形石鹸』と言う単語を使ったのだ。
異世界翻訳機能が働いたにせよ、俺の認識する石鹸とルケイドの認識する石鹸は同じ物だと考えて間違い無い筈だ。
俺のこともバレてると思うが、向こうが確認する気が無いのなら俺からも聞くつもりはない。
どうせ地球には戻れないだろうし、そのつもりも無い。この世界は不便なことも多いが、それでも俺はこの世界を気に入っている。少しずつ便利にしていく為にも、ルケイドの力が必要になるかも知れない。
だから良い関係を維持する為にも、適切な距離を置くべきだと思うのだ。
時計を見ると、クイダオーレの打ち合わせまで既に後三十分を切っていた。
これは急いでギルドに向かわないとまずいな。
何か少しは腹に入れてから会議に臨みたいし。
アイテムボックスにはドライフルーツやパンが入っているから、歩きながらでも食べるには困らないだろう。
「ルケイド、明日の依頼はどうする?
その海藻擬きの灰の研究に入るか?
それとも液体タイプの研究にする?」
「そうだなぁ、ここから進めるにはキチンと記録を取って管理しないとまずいと思う。
明日は記録管理用のノート作りかな」
「そうか、それなら洗浄剤の開発責任者をルケイドに任せるわ。
明日は俺の家の引き渡しなんだ」
「家の? 買ったの?」
「うん、まあね。なので、明日はバタバタするから」
「了解したよ。任せて。
で、ギルドの方は大丈夫?」
「うん、今から行く。じゃ、エメルダさん、エリスちゃん、今日は帰るわ」
「わかったわ。気を付けてね」
「じゃ、バイバーイ。明日は手伝いに行かなくても良いの?」
「うん、他の人も居るし、宿も前払いしてるから明日一日で終わらせなきゃって急がなくて良いから」
「わかった。じゃあ、行ってらっしゃい!…お母さん、この時計、時間合わせた?」
「えっ? 貴女がやってるんじゃ無いの?」
「ううん、お母さんがやってると…遅れてるかも?」
「マジっ?! 行ってくる!」
片道二十五分…もしあの時計が五分遅れだとしたら、開始時間ピッタリか。こりゃヤバい!
慌てて店を飛び出し、人が居ない場所は全力で走り。交差点では人が出てくるかも知れないから徐行して…グヌヌ、これならまだ普通に速歩で歩く方がマシだな。
飛行魔法はまだ制御が甘く、町の中では使えない。
ちなみにリミエンに来る途中に魔犬を蹴り殺した後、ブーツを洗ったのは最小威力の水を出す魔法だ。
高圧洗浄機のような勢いだったため草むらが抉れていたのだが、その程度で済んだので気にしてはいない。
「エカテリーヌっ! 私のエカテリーヌちゃん! どこに行ったの?!」
角を曲がった所で迷子を探す母親に遭遇した。なんで急いでる時に限って!
スライムと聴覚情報を共有すれば、離れた場所の音も拾える。
ただし不必要な雑音をかなり拾うため、目的の声だけをピックアップするにはかなり骨が折れる…この体は骸骨さんだっただけに尚更ね…。
「ママーっ! どこーっ!」
おっ、居た居た、この子だな。
はぐれる程に人波に押される程の通行量じゃないから、何かに興味を惹かれて勝手に動いたのか?
急いで子供の声の方に急行すると、運悪く短剣をちらつかせている先客が到着していた。
「…聞くが、その子を保護してるのか?」
「へへ、そうさ、ママの所に連れて行ってやるのさ」
男の様子は何となく不審に思える。真っ当な働きをしている人物にはない腐臭が感じられるのだ。
「そう…本当に?」
「そうさ、謝礼ぐらいは貰えるだろ?
悪いな、こう言うのは早い者勝ちだ。邪魔しないでくれ」
ふと頭の中にメイベル部長の言っていたある言葉が浮かんだ。それだとまずい。
「俺は謝礼はいらない。
ただし、その子をママに会わせるまで着いていくが構わないか?」
「ああん? 何言ってやがる。
どうせ謝礼を半分寄越せと言うつもりだろ?」
即座に否定か…コイツはクロだな。忙しい時に限ってトラブるんだよね。
「じゃあ取引だ。金貨一枚でその子と交換だ。
俺がママの所に連れて行く」
肩掛け鞄から出す振りで金貨一枚を取り出し、男の目の前にちらつかせる。
男の頭の中ではこの金貨一枚と、目的の場所にこの子を連れて行った場合の報酬額との比較が始まったのだろう。
ぶん殴る方が早く解決出来そうだが、子供の前で暴力を振るって解決とは行きたくない。
どうやらこれだけでは足りないらしい。
「もう一枚でどうだ?」
「しゃあねえ。あんたに手柄を譲ってやるょ」
少し悩んだようだが、さすがに金貨様の効果は抜群だ。俺の掌から二枚の金貨を奪い取るように掴むと、
「ここであったことは内緒にしてくれよ」
と言って走り去って行った。
震えている女の子の頭を撫で、
「お兄ちゃんがママのところに連れて行ってあげる」
と聞かせて背中に乗れるようにしゃがむ。
おずおずと俺の頭に手を乗せ、ヨイショと可愛く声を出したところで肩に乗る…何故に肩車?
普通はおんぶでしょ?
確かに肩車の方がおんぶより視界が確保出来るけど。
子供を探す母親の声の方向へと足を運ぶと肩車の効果は抜群で、お互いが探している相手の姿を見つけ出したようだ。
「ママっ!」
「エカテリーヌっ!」
母親が走り寄ってくる。ゆっくりしゃがんだところで息を切らした母親が娘を抱きかかえた。
時間の大幅ロスになったけど、これは仕方ないか。
「ありがとうございます。あの、お礼を…」
「いらない、いらない。あ、お名前だけ頂いても?」
「レイアット・ウィンストと申し」
「ありがとう、それじゃ俺、今超急いでるから。
じゃあ、もうお母さんから離れちゃ駄目だぞ」
と女の子にウィンクしてから急ぎ足でそこから立ち去る。
後で衛兵詰め所に連絡しなきゃ駄目なヤツかな。
◇
「ゼェゼェ、ハァ、やっと着いた…」
冒険者ギルドの前ではエマさんが腕を組んで待っていた。
「クレストさん、遅刻ですよ」
「悪い、野暮用で…急いで来たんだけど…水貰える?」
「もぅ、しっかりしてくださいねっ!」
少し怒っているようだけど、中に入ると酒場から水の入ったグラスを貰ってきてくれた。
息を整いてから勢い良く飲む。
「ふぅ、生き返るー。遅刻の理由は後で良い?」
「多分先に説明した方が良いですよ」
「ですよねぇ…結構厄介なんだけど」
エカテリーヌちゃんとやらの側に居た男、あれは恐らく奴隷商の仲間だろう。
リミエンでは公認されていないが、メイベル部長は奴隷商が居ないとは言っていない。
「レイアット・ウィンストさんだと?」
「と、エカテリーヌちゃんです。
何か心当たりが?」
俺の遅刻の理由をクイダオーレの打ち合わせの為に集まっていたメンバーに報告したのだが、何故か予想以上に空気が重い。
「ウィンスト家はお隣の『シャリア伯爵領』の海沿いの町『バレオ』の名家の一つだよ。
過去に海運業で財を成したんだ。
そんな家の娘さんを誘拐しようだなんて、その男は死にたかったのかな?」
と和やかな顔で怖いことを言うライエルさん。
「リミエン領で誘拐されて奴隷商に売られた、なんてことになっていたら、外交問題になったかもね」
と、初めて顔を見るギルド幹部の元美人なお姉さん。彼女とは二十年前に会いたかったものだ。
「何か失礼なことは考えていないわよね?」
「え? 何のことだか?」
鋭い! 何故俺の考えていることが分かった?
「クレスト君の趣味趣向は置いておこう」
「置かなくて良いですからっ!」
ライエルさん、そんなのさっさとポイしてくれよ!
「これ、呑気にクイダオーレの打ち合わせをやっている場合ですか?」
「金貨二枚で片付ける、君にはそんなつもりは無いのだろ?」
エマさんが不安そうにライエルさんに質問すると、ライエルさんが俺にそう確認してきた。
「勿論、奴隷商なんて輩を放置するつもりはありませんし、キッチリ利子を付けて返して貰わないと。
とは思いますが、一冒険者の出来ることなんて知れてますし、これは衛兵隊、領主様の案件だと考えます」
俺の答えに、幹部の元美人さん、その隣の元イケメン(かなり美化あり)も少し考える素振りを見せる。
「それが正解だろう。
下手に正義を振りかざして突っ込んだ所で、我々冒険者の出来ることは限られている」
「今日は前回と違って随分大人の対応だな。人が違ったみたいだ」
ライエルさんの後に、ノットイケメン幹部が言わなくても良いことをのたまう。アンタに言われる筋合いは無いんだが。
まあ、黙って聞き流してやるけど。いつか泣かしてやるから。
「時間も押したことだし、いい加減に本題に入りたいんだけど、構わないかしら?」
「賛成!」
元美人さんが今日の司会進行を務めるらしい。
「食べ歩きマップの概要については、この場に集まっている皆さんには既に周知されていますよね?」
配布された羊皮紙には俺が初めてエマさんに会ったときに語った内容が整理されて記載されている。
この資料も人の手で書き写してるんだから大変だわ。
簡単に複写出来る魔道具が欲しいよね…と言うと、複写で生計を立てている人はどうなるんだ!と言われるのがオチなんだけど。
既得権益が文明の進化を妨げてるんだよね。などと心の中でぼやいていると、会議が始まった。
「本プロジェクト『クイダオーレ』の最大の目的は、地域振興の促進にあります。
それは何故か?
地域が活性化すれば自然と住民は増えていき、住民が増えれば我々冒険者ギルドへの依頼も増えるからです」
はい? 俺の考えってそんな壮大なテーマじゃ無いのだが。
単に美味しい食べ物のお店をパッと見て分かったら便利だね!って、それだけなんだ。
なんでそんな大風呂敷を広げる必要がある?
「あー、ブルガノ。言い出しっぺのクレスト君が不思議な顔をしてるんだが。
それに私も本件についてはそこまで考えすぎなくても良い、と思うのだが」
「何を仰いますか!
クイダオーレは領主様もお認めになられた冒険者ギルド初の公認事業なのです。
ご領主様に中途半端な結果を報告しろと申されるのですか?」
なんだよ、この会議は?
ギルドのトップの意見を無視するポンコツ幹部を会議に入れたの誰よ?