第49話 匂いに釣られて道草を
本日の依頼達成報告の為に冒険者ギルドに入ると、エマさんから食べ歩きマップの制作にゴーサインが出たと言う嬉しい報告がある一方で、何故か昨日知り合ったばかりのスオーリー副団長が安酒を呷りながら一人で俺を待っていたのだ。
旧キリアス貨幣、マジックバッグ、魔熊の森の事を彼から聞かされ、明日の朝、城門にグリムリーパーマンティスと呼ばれるカマキリの遺体を預けることにしてその場を逃れた。
この後、商業ギルドに行ってメイドさん候補の話をするので、余計な時間を食ったことと精神的疲労が地味に痛い。
帰りが遅くなると子供達が心配するので、さっさと話を聞きに行こうと思う。
とは思いつつも、立ち並ぶ屋台から良い匂いが漂ってくれば気にはなる。
大半は肉の脂が焼けた時の匂いなのだが、その中に明らかに違う匂い…バターのような香りが漂っていたのを俺の鼻は逃さなかった。
急いでいるが、これは決して逃してはならない!
そう、これは使命なのである!
よりこの香りが強くなる方へと夢遊病者のようにフラフラと歩いて行き、辿り着いた先には、『数量限定 バターパン 一個 大銅貨六枚』と書かれた看板を吊した屋台がひっそりと営業をしていた。
既に大行列が出来ていて、待ち時間三十分は覚悟しなければならないだろう、そんな覚悟をしていたのにこれは予想外だ。
匂いに釣られたのか、一人の若い女性がフラフラと屋台の前まで来るのだが、看板を見るとガッカリした様子で立ち去るのだ。
ははぁ、ここで売るにはお値段が高過ぎるんだな。
「今晩は。ちょっと見せてもらって良い?」
と屋台の前で店主に声を掛ける。
「いらっしゃい。良いわよ。幾つか買ってくれるのなら、有難いんだけどね」
と応えるのは二十代後半の素朴な感じの女性だった。
鉄板で焼くパン…パンケーキまたはホットケーキと呼ばれる物の亜種だね。
「小麦に卵とバターを混ぜて、屋台でも提供出来るように薄く焼いているのか。
それと…甘い香りは蜂蜜かな。
へえ、ベーキングパ…膨らし粉もあるのか」
ホットケーキならフライパンで比較的簡単に焼けると思い、俺も何度かチャレンジした経験がある。
お店で提供されるような出来にはならなかったけど。
「ちょっと、お兄さん!
なんでうちのレシピが見ただけで分かるのさ?!
まさかスパイしたんじゃ?!」
あれ? 見たまんま、匂いのまんまなんだけど、この程度のレシピが秘密なのかな?
「いや、これと同じような食べ物が故郷にもあったからさ。
このパンとは少し違うけどね」
違いは甘味料と小麦粉かな。鉄板に布いている油は植物由来のあっさりした物だろう。
「一つちょうだいね」
と、肩掛け鞄からお金を取り出してカルトン(コイントレイ)に枚数を確認しながら大銅貨を並べて、ホットケーキ擬きを一枚貰う。
「毎度あり。オタクの故郷の味より旨いといいんだけど」
お姉さんの言葉を聞き終わる前に勢い良くガブリと一口。
例えるなら、ぎゅっとキメの詰まった蜂蜜の風味のホットケーキだ。元々こう言う食べ物だと言われるなら、これで納得の味だ。
ホットケーキを食べたことの無い人なら、これで違和感無く充分に旨いと思うんじゃないかな?
ただ惜しいのは、同じサイズのパンの六倍近い価格だよな。材料費、その他の経費を入れたらそうなるのだろう。
「うん、これは美味しいよ。
コレにスライスした果物を乗せるか、ドライフルーツを混ぜて焼いたらデザートにもなるし。
少し甘みを抑えて少し薄く大きく焼いて焼き肉とかオカズを巻いてサンドイッチの代わりに片手で食べるメイン料理にしても良いし。
これはありだね」
このパンならレストランで出しても問題ないと思うわ。
ヤバい、そんな事を言ってたらバターの香るデニッシュを使った惣菜パンとか食べたくなってきたよ。
「そんなに旨いのか!
はっ!…まさか上手いこと言って、私を何処かに連れ込んで、あれやこれやをしようなんて魂胆じゃないだろうね?」
「はぁ…お姉さん、想像力が豊か過ぎだよ…」
売れていない商品を初めてベタ褒めされたら、何かしら裏があると思われるのは仕方のないことなのか。
しかし卵もバターも高級品だし、保管に冷蔵庫も必要だし、輸送コストは馬鹿にならないし。
それがなんでこんな場所で売られている商品に使用出来るんだ?
考えられるとしたら、マジックバッグを持っているか、冷蔵庫…か、その代わりになるものを持っている?
「お姉さん、卵とバターの保存はどうやってる? 冷やさないと傷んで使えなくなるよ」
「良く知ってるじゃないの。どうやら故郷の話も嘘じゃなさそうね。
えへん! 実は私、氷を作る魔法が使えるのだっ!」
「凄いっ! ソレなら納得! 他の魔法は?」
「あー…それ聞くの?
他の魔法が使えりゃ、こんな所でパンなんか売ってないわよ。はぁ、もっと魔法の才能が欲しいわね」
なるほど、氷専門の魔法使いだったのか。
彼女が手のひらに氷の塊を作ると、自分の口にポイッと放り込んでガリガリ。
俺にも!と指で顔を指して口を開けると、同じように氷を作って投げ入れてくれた。
口の中に異世界初の氷の刺激を感じ、少し溶かしてからガリガリと噛み砕く。
『魔熊の森』でカマキリ退治に使った辺り一面を氷付けにするような魔法より、手頃なサイズの氷を作るこの魔法の方が使い勝手が良いに決まっている。
この魔法を串焼き屋のおっちゃんに教授してくれないかな。氷入りの冷たいジュースが飲めるようになるからね。
ギルドで聞いた話だと、同じ人が使用出来る魔法の数はそれ程多く無くて、治癒魔法みたいな特殊な魔法が使える人は多くの種類を使えない傾向にあるんだって。
ゲーム的に言えば、魔法を覚える為にそれぞれの魔法に設定されたポイントを消費して習得するような感じだ。
ポイントの少ない魔法なら沢山覚えられて、ポイントの多い魔法は少ししか覚えられない、そんな結構シビアなシステムだ。
しかもこの国では氷の魔法はレアな部類に入るらしい。
でも考えてみたら、雪がほとんど降らないこの地域なら、氷を見たことの無い人が多いのがその理由じゃないのかと結論が出そうなんだけどね。
その後で彼女から聞いた話で、彼女は少し離れた山村で牧場を営む一家に嫁いできて、子供の養育費を稼ぐ為にリミエンに出て来たそうだ。
今日初めて商業ギルドに行き、何とか屋台の許可を貰えたのがこの場所だった訳だ。
どう考えても、販売価格と客層のミスマッチ感が拭えない。商業ギルドよ、もう少し頭を使えよ、と愚痴を言いたくなる。
「もっと客層の良い場所に屋台を出すには、市民権のグレードが足りないんだってよ」
と少し悔しそうな声で笑う彼女に同情する。
せっかく良い商品を用意しても、それを買える人に会えなきゃ意味は無い。
俺としては、卵とバターの伝手になる彼女との交流は諸手を挙げてウェルカムだ。
食事を豊かにする為に、畜産農家とのパイプを持つのは絶対に重要事項だよな、うん。
でも今は商業ギルドに急いで行きたいところなので、ゆっくり彼女と話している余裕は無い。
「お姉さんはいつまでリミエンに居るの?」
「子持ちの三十路を捕まえてお姉さんなんて、クチが美味いわね。
資金に余裕が無いから、明日の午前中に出来るだけ焼いて、昼には帰る予定よ」
それじゃ明日は会えないな。
「それなら、お姉さん、俺がパンを全部買うから焼けるだけ焼いてよ!
何枚ぐらい焼けそう?」
「そうね…明日の午前中のを合わせて九十からギリギリ百枚ぐらいの材料は用意してあるかしら」
「なら大銅貨で六百枚。我が儘をお願いしてるから迷惑料込み大銀貨七枚置いてくからお願いね!」
カルトンに大銀貨を並べると、
「今から商業ギルドに行くから、偉い人に話をしてくる!
遅くなるかもしれないけど、ちょっと待ってて。
あ、そうだ、自己紹介しなきゃ。俺は冒険者のクレスト。よろしく!」
と言って銀色のギルドカードを見せる。
「凄いな、若いのに銀貨級かい。
私はラゴン村のミレット。パンは置いとくと冷えるけど良いのかい?」
「うん、温め直すし、何か具材を乗せるのに使うから大丈夫! じゃあ、お願いするね」
こういった時には信用の証でもある銀色のカードが有難い。それから急ぎ足で商業ギルドへと向かう。
ホットケーキミックスを使えば割と簡単にホットケーキは焼けます。
水分量が多いとペチャンコになるので要注意。
粉を溶くのに乳酸菌飲料を混ぜるとヨーグルト風味のホットケーキになります。紙パック入りの1リットル百円ちょっとの安いやつで試してね。