第33花
戦場から帰還したスイに取り敢えずの顔見せはしておかないと、といつものようにタイムを護衛として引き連れて翠の部屋へと訪れたアエネアは、普段はまったく動揺しない表情を取り繕うことに精一杯になってしまう、という失態を演じた。それはアエネアに付き従い、翠の部屋を訪れたタイムも同様だったようだが。
翠は天蓋付きの大きなベッドに横になっていた。
翠の体調不良は聞いていたので、それに驚くことはなかった。驚いたのは、翠のあまりにも窶れた姿。
アエネアとタイムを認めると、口元に笑みを浮かべて挨拶してくれるが、瞳はどこか、この世ではない場所を見ているかのように虚ろで、兄上と義姉上の過剰な心配ぶりが一目で納得出来てしまう姿だった。
「あれ、ヤバくないか?」
珍しく焦ったようなタイムの言葉にも触発されたのだろう。それから、3日と明けずに翠の見舞いに訪れるようにした。
徐々に回復していく翠の姿に、アエネアは軽い安堵を覚えていたが、『軽く』ではない安堵を覚えていたのは、翠を可愛がっている周囲だっただろう。
さり気なく、本決まりになっているフィアナとの縁談の話を出したりして、翠の体調の良し悪しを図りつつ、日々は過ぎていった。
そんなある日、翠のベアートゥスとしての力を借りたい、と宰相経由から話が持ち込まれた。
王家御用達も勤める大商会からの嘆願で、食物を栽培する他国の土地が未曾有の水害によってすべてが流されてしまい、復興するのには数年の月日が必要となること。だが、そうなれば他国とのパイプを幾つも持つ商会が大きなダメージを受け、ドルドーナ国の経済に影響を及ぼしかねないこと。
確かにとてつもなく大きな打撃となるが、幼い翠の体調を犠牲にしてまでベアートゥスとしての力を使用させるのは如何なものか?、と兄上や義姉上はとても不服そうな様子だった。
優秀であるが、人の良過ぎる宰相は翠の味方であるのと同時に、アエネアにとっては駒として扱いやすく、また扱いにくくもある人物だ。
アエネアには、翠が断ることのない姿が容易く想像出来た。
それを証明するかのように翠はその嘆願を受け入れ、ものの見事に神殿で祈りを捧げた後、ブッ倒れた。
ようやく翠がベッドから起き上がれそうだ、という医師からの診断を受けていた時、再度、宰相が翠に嘆願があったことを伝えた。
箝口令を強いていたはずなのに、何故か翠が商会を救ったことが漏れていた。このことに、兄上や義姉上はすぐに徹底調査するように命じた。
戦争が長引いたことと云い、誰かが情報を流していることだけは、まず間違いない。
アエネアにとって予想外だったのは、翠は最初、その嘆願を、
「焦らずとも良いのでは?」
と断ったのだそうだ。翠はこの世界にやって来て、当初は牢獄に入れられた経緯から、自分に好意を持っている者の言葉を無視することが出来ない。だからこそ、断った事実がアエネアにとっては意外だった。
しかし、最後には宰相の言葉に折れたのは翠らしい。
だが、アエネアはそのことを楽観視していた己を悔やんだ。
その後からも翠への嘆願は引っ切り無しに訪れ、兄や義姉、甥である王太子のサガと王太子妃のロロネー、アエネアは、王宮への謁見の申し込みに苦慮する事態が発生した。
ベアートゥスの力が必要であろう、酷い災害や人災を救うと、
「自分達にもその恩恵を!!」
と願ってくる。『恩恵』という言葉を使えど、そこに配慮や信仰や感謝など一切存在しない。ただただ、己の欲を叶えようとする不快な感情しか見えてこない。
誰か1人を贔屓するわけにはいかないので、翠への嘆願を平等に扱うために精査したいのに、その時間すら取ることが出来ない。嘆願という名の欲望を叶えようとしてくる者達は、知恵を働かせて、翠の側に居ることが許された者達の知人や友人、家族を通して様々な形でゴリ押しをする。
アエネアはそこに、誰かが知恵を付けさせているかのような悪意を感じ取れずにはいられなかった。
際限のない欲望を叶える翠は、体調が回復したら倒れ、回復したら倒れを繰り返し続け、祈る以外では、ほとんど寝込むようになってしまった。
体重も落ち、戦争から帰還したばかりの頃のように窶れはじめていた。
それでも周囲に心配をかけまいと明るく振る舞う姿を見せる翠であったが、その瞳が再び虚空を見始めていることに、翠を想う者やアエネアは気付き始めていた。
『際限なく願いを叶えてくれるベアートゥス』
その存在が国内の情勢を悪化させ、アエネアの守るべきものを疲弊させていく。
次第次第にアエネアの中に、翠への鬱憤は溜まり続けていった。
翠のことが問題に上がる中でも、国を動かし回すために、他の仕事も山となっている。
アエネアとフィアナの婚約が正式に決定されたのもそんな中であったが、王族は皆、仕事に忙殺されていた。その婚約を快く思わない者がただ1人。
後に翠の義理の家族になるクインティは、この先のアエネアとフィアナの夫婦としての生活を見越していたのかもしれない。