三行半はディナーの後で
公爵家の一件から一夜明けると、チャールズの興味はアリエルから薄れたようだった。
やることを思い出したのか、チャールズは朝からあちこちに出かけているようだ。前日の身体への負荷が抜けきっていないアリエルは、クララに私室の寝台へと押し込められてゆっくりと一日を過ごした。
その日の夜、チャールズがアリエルとの晩餐を望んだ。
二人きりでの晩餐は結婚したての頃以来で、アリエルも使用人たちもチャールズの気まぐれに身構えた。
緊張感をはらむ晩餐。
いざ食事を始めると二人の間に会話はなく、静かにカトラリーの音だけが食堂に響いた。
オードブルから始まり、スープ、メイン、デザートまで食べ終えても、チャールズは何も言わない。
アリエルがじっとこの無意味な晩餐を訝しげに思っていると、食後のワインが注がれたとき、ようやくチャールズが口を開いた。
「今年の社交界、お前は出なくていい」
「……どうしてまた急に?」
唐突なチャールズの言葉を受けて、アリエルは何を言われても平常心を保てるように、眼鏡のブリジッをくいと指で持ち上げた。チャールズに壊された眼鏡だけれど、スペアがあって良かった。
アリエルがそんなことを心の片隅で考えていると、チャールズはワインを味わうように舌で転がしながら、ふっと笑った。
「言ってなかったっけ? ミクリが妊娠したんだ。彼女の子を僕の後継ぎにする。だけど、ミクリを妻として迎えるにはお前が邪魔だろう? ちょうどよくお前が体調を崩したおかげで、それを理由に離婚を決めることにした」
食堂の雰囲気が一気に悪くなる。
アリエルは深くため息をついた。
背後に控える使用人たちの胸中は、ひどく荒れ狂っているのが手にとるように分かった。
ただ、当の本人であるアリエルはひどく冷静だった。
ミクリという女性は、アリエルも顔を知るチャールズの愛人だ。愛人というレッテルは褒められたものではないけれど、元々チャールズとミクリは愛し合っていた恋人同士。そこに割り込んだのが自分という存在だった。
夫と相思相愛な愛人と、成り行きで正妻の座におさまった自分。
元々アリエルは子供を産むことを求められてシーキントン伯爵家へ嫁いだ。けれどその契約をアリエルの生家と交わしていた先代伯爵がいなくなってしまった今、自分との間に子供が生まれなければ、チャールズが子を設けた愛人を正妻の座にしようと画策するのも考えられることだった。
けれどこうまではっきりと邪魔と言われてしまうのは心が痛む。
チャールズからしてみれば責任を取る形だったとはいえ、望まない結婚だったのは間違いない。けれどせめて、視力がなくなるまでは、一人で伯爵家を背負うチャールズの負担を少しでも減らそうと伯爵家に尽くしてきたのは、アリエルの独りよがりだったのだろうか。これまでの自分を不要だったのだと言われてしまったようで、ひどく寂しい。
とはいえ、チャールズの決めたことなら、逆らわない。
お互い、今のままでいるのは、幸せとは言えないだろうから。
「……分かりました。社交界が開かれる頃には子爵家に戻ります。ですが仕事の引き継ぎや身辺整理もありますので、まだしばらくはこちらに滞在させていただきたく思います」
今すぐ出て行けと言われても、引っ越しの心構えなんてしていなかったから難しい。
それを主張すれば、チャールズはあっさりとうなずいてみせる。
「僕もそこまで人でなしではないからね。それくらいは構わない」
「もう一つお願いが。実家から連れてきた使用人は連れ帰りますが、他にも望む者がいたら連れ帰ってもよろしいでしょうか。その分の新しい人材の確保の手配等はしますので」
お願いついでにタウンハウスの使用人のことも聞いてみる。チャールズは意外そうに眉をはねたけれど、これにも寛容にうなずいた。
「伯爵家より家格の劣る子爵家に行きたいと思う殊勝な奴がいるとは思えないけどね。人材の手配まできっちりやっていくのなら、まぁ好きにするといいよ」
「ありがとうございます」
目を伏せてアリエルは礼を言うと、食後の一服もそこそこに席を立つ。
「やることができましたので、先に部屋へと戻らせていただきますね」
「食事は終わったのだからご自由に。……ああ、そうだ。離婚の届け出は社交シーズンが終わる頃に提出するから、書いておくように」
「わかりました」
チャールズの声に返事をして、アリエルは食堂を出た。
すまし顔で自室まで戻ると、アリエルは部屋の扉がパタリと閉まったところでふぅ、と大きく息をついた。
これから忙しくなるわ、と算段をつけようとするアリエルの後ろで、扉を閉めたクララがもう我慢できないというように声をあげる。
「どういうことですかお嬢様! あんな! あんな好き放題言わせて……! なぜ全てお認めになるのです!!」
食堂の空気を重くした一人は間違いなく、気心知れたメイドであるクララだろうことは思っていた。
予想通りに息巻いているクララに、振り返ったアリエルは困ったように微笑む。
「クララ、声が大きいわ。それに私はもうお嬢様じゃ……あら? 離婚するとお嬢様に戻るのかしら?」
「なんて呑気な!」
今気づいたわと言わんばかりに述べたアリエルに、クララが思いっきり言葉を返した。
アリエルは微笑みながら寝室へと向かい、ドレッサーの前にそっと腰かける。そうするとクララがいつものルーティンとして、きっちりと結われた茶色いシニヨンを丁寧にほどきはじめた。
鏡に向き合った自分の後ろで、クララがレディースメイドとしてあるまじき形相になっているのを見て、アリエルは再び困ったように眉が垂れてしまった。
「お嬢様は、今までの悪虐を表にさらして、アレに一矢報いようとは思わないのですか」
「思わないわ」
クララの言葉に、これだけはきっぱりとアリエルが返す。
「チャールズ様がいなくなると、シーキントン伯爵家の直系はいなくなるのよ。うちのような分家は他にもあるけれど、血が遠すぎる。血統に厳しい貴族社会でシーキントン家を守るには、チャールズ様が必要なのよ」
「それは分かります。ですがアレの血にそこまでの価値はありますか?」
クララの容赦のない言葉に、アリエルはふっと視線を落とした。
ワインレッドの縁取りがされた眼鏡を外す。
幼い頃に魔獣の血を浴びた後遺症か、ぼやける視界は治る傾向はなく、年々悪化していくばかり。
でも、この失われていく視力は、アリエルにとってのおまじないのようなものだった。
「……クララ、ごめんなさい。どうしてもニコラが生まれ育った家を、みすみす潰したくないの」
アリエルの視力がある限りは、伯爵家を守ってやりたかった。アリエルの視界が閉ざされる時、ようやく死んだニコラから休むことを許されるような気がして。
……チャールズは、自分がニコラが死ぬきっかけになったと負い目を持っているようだけれど、実際は違う。
ニコラは、アリエルが殺したようなものだった。
あの日、三人で湖に行った日。
チャールズが大人を呼びに行かせた間、アリエルがニコラの元へと戻らなかったら。
ニコラはアリエルの目の前で死んだ。
アリエルの視力が奪われたのは、ニコラをむざむざと見殺しにしてしまったことへの罰だ。
だからアリエルは、ニコラへの贖罪として、幼いながらも自身の使命を決めた。
幼い頃に定めたその使命で、アリエルはここまで来たけれど。
「それももう、おしまいね。チャールズ様に託して、後は私、どうしようかしら」
ぽつねんと呟くと、髪を櫛で梳いていたクララがため息をつく。
「……お嬢様は人が良すぎます」
アリエルは顔を上げると、ぼんやりと鏡の向こうに見える、友人のような姉のような彼女をじっと見つめた。
「そんなことないと思うけれど。シーキントン家がニコラの家じゃなかったら、ここまで心を傾けることはなかったもの」
「そうとは思えません。お嬢様のことですから、きっと同じようにして、周囲の人々を心配させるんですよ」
そう言われると居た堪れないわ。
アリエルの我儘に付き合わせて、タウンハウスの皆にはつらい思いをさせてきた。そればかりはアリエルの浅慮の結果で、申し開きもない。
「そうね……本当にあなた達には心配かけてきたわ。これからは心配をかけないように平和な暮らしをしたいわね」
「もちろんです」
アリエルの殊勝な言葉に、クララも神妙にうなずいた。
「子爵家に戻られましたら、ゆっくり羽を伸ばされませ。昔のように牧場で乳搾りをするのもよろしいかと」
「懐かしい。私の仔牛ちゃん、そろそろ引退だって聞いたから、一回くらい搾乳できるといいんだけれど」
「そうですね。次の搾乳期間を聞いておきましょう」
クララの前向きな提案に、アリエルの心もパッと華やいだ。
アリエルの生まれたコールソン子爵家は領地こそ小さいものの、高原地帯が広がっていて牧畜が盛んだった。生家もいくつかの牧場を経営していて、アリエルが嫁ぎに行く前に生まれた仔牛は、アリエルがよく世話していた。
のんびりとした気候と芝生の匂い、牛たちの鳴き声。
幼い頃の憧憬は、今のアリエルでも簡単に思い出せる。
「搾ったミルクでバターを作って……そうだわ、孤児院の子供とバターを作るのも楽しそう。それからクッキーを焼いて。あの子達、喜んでくれるかしら」
「あそこの子たちは皆お嬢様を慕っておりますから。きっと喜んでくれますよ」
やりたいことを思いつくと、そこからあれもこれもと手を伸ばしたくなるのはアリエルの悪い癖かもしれない。
夫と離婚の危機だというのに、なんだか楽しみばかりが見つかってしまって、いたずらを思いついた子供のような気持ちになってしまう。
「ふふ、楽しみ。そうね、嘆いてばかりはいられないわ」
アリエルはクララと二人で笑い合った。
チャールズには悪いけれど、離婚したら新しく人生を歩み直すのも良いかもしれない。
ニコラとシーキントン家に囚われていたアリエルを解き放ってくれるのが、彼女に手酷い仕打ちをしていたチャールズだというのは皮肉だけれど。
愛するものに縛られて、虐げられた者に捨てられる。
幸せな結婚生活とは無縁だった。
でもアリエルは、何も悪いことばかりだとは思わない。
チャールズと過ごすのは社交シーズンの数ヶ月だけで、彼はほとんど領地にいた。彼がいない間はのびのびとタウンハウスの使用人たちと過ごしていたし、やりたいことは好きなようにやってきた。
ダンスやマナーの講師だってそうで。
「家に戻る前にお世話になった方々へご挨拶したいけれど、たぶんチャールズ様がまた悋気を起こしそうね」
「アレを悋気と言えるのはお嬢様だけですよ。あれはもはや公害です。百害あって一利なしです」
クララのいいざまに、とうとうアリエルも咎めるのをやめてくすりと微笑んだ。
「クララは本当にチャールズ様に厳しいわね」
「私だけではなく、タウンハウスの皆が思っていることです」
きっぱりと言い切られると、少しだけチャールズのことを不憫に思う。彼だって望んで伯爵になったわけじゃない。そのストレスのはけ口が暴力になってしまうのは褒められたものではないけれど、でも彼なりに頑張っていることはアリエルも認めていた。
アリエルがなんとも言えない表情になっていると、クララがすっかりと髪をきれいに梳かしてくれたようで、化粧箱に櫛をしまい始める。
「というかお嬢様、あんなこと言ってよろしかったのですか?」
「あんなこと?」
「希望者がいれば使用人を連れて行くって話です。あんなこと言われたら、ここの使用人は皆お嬢様に着いてきてしまいますよ」
クララが呆れたように言う。
アリエルはゆるゆると頬をゆるめて微笑んだ。
「それは困るわね。皆を雇えるか、お父様とお母様にもご相談しないと。難しそうなら孤児院の人手にするのもいいし、学び舎のようなところを作るのもいいわ。皆に先生になってもらうの。読み書き算数は必要でしょう?」
スラスラっと代替案の出てくるアリエルに、クララがちょっとだけ目を丸くする。ちゃっかり悪戯が成功した子供のように目を細めている顔のアリエルを見て、クララは心底呆れた。
「お嬢様の聡明さにはいつも驚かされます。そこまで考えてらっしゃったんですか?」
「思いつきよ、思いつき」
ふふ、とアリエルは笑った。
その笑顔に毒気を抜かれたクララもくすりと唇の端を緩める。
それからアリエルは急いで一通の手紙をしたためた。他にもしたためなければいけない手紙はあるが、しばらくの猶予を与えられたので、残りは明日にでも書くことにする。
その後はまだまだ本調子ではない身体を休ませるため、湯浴みをした。
クララに湯浴みの世話をされながら、その間も二人でやってみたいこと、やりたいことの話を膨らませる。
離婚が決まったら、逆に吹っ切れた気持ちになれた。
領地に返った後はもう、余生を静かに、平和に過ごそう。
視力が年々悪化していくばかりの自分は、きっと再婚も望めない。
目が見えるうちに、たくさんの風景を見て、たくさんの人を見て、たくさんの思い出を色鮮やかに覚えておこう。
アリエルはそう決めた。