忘れられない記憶
ニコラ・シーキントン。
彼は、アリエルの最初の婚約者だった。
アリエルの生家は元をたどるとシーキントン伯爵家の分家だ。
シーキントン伯爵家といえば、その当主は代々、太陽のように燦燦と輝く金髪に、どこまでも続く空のようにきれいな薄い青色の瞳を持っていた。けれどここ数代、祖先の血が薄まっていたのか、シーキントン伯爵家の直系に、それらの容姿を持つ者が生まれていなかった。
ゆえに一度血を濃く戻そうと、分家であり、なおかつ先祖返りのような容姿を持つアリエルと、シーキントン伯爵家の長子であるニコラとの間に婚約がなされた。
デビューして以来、夫の言いつけで本当の髪色を隠しているけれど、アリエルの元の髪色は黄金の麦穂のように美しい金髪で、その瞳は間違いなく伯爵家の血を継ぐ晴れ空の色。
容姿で選ばれただけの婚約者ではあったけれど、アリエルとニコラの相性は、幼いながら悪くはないようで、ゆるゆると二人の間に幼い絆が育まれた。
そんな二人の間にいつもひっついて周る幼子がいた。
チャールズ・シーキントン。ニコラの弟で、容姿はニコラと双子のようにそっくりだったのに、何をするにしてもニコラの影に隠れがちな少年だった。
それでもチャールズはニコラを慕い、ニコラもチャールズを可愛がっていた。むしろチャールズは、ニコラを独り占めしようとするアリエルを羨ましく思っていたくらいだった。
そんな誰もが幼かったある日のこと。
チャールズがひどく恐ろしいいたずらを思いついた。
次期伯爵としての教育が始まっていたニコラと違い、その能力が今ひとつ劣るチャールズは、それなりに奔放に育っていた。彼は領地を駆け回り、マナーハウスのある町で幼いながらも恋人を見つけるくらいには、町に溶け込んでいた。
その町で、彼は噂話を聞いた。
なんでも東の森の湖に、魔獣が住みついたとか。
陸地に上がってこないようだが、時折影を見つけるとか。
この間も子供がそれを見たと言っていたとか。
それはシーキントン領に昔から伝わる噂話のようなものだった。
大人たちは皆知っている噂だけれど、これを教えてくれた小さな恋人は知らなかったようで、怖い怖いといいながらこっそりとチャールズに教えてくれたらしい。
女の子は皆こういうものが怖いのだと思ったチャールズは、たまにはアリエルをこらしめてやろうと考えたのかもしれない。
ちょっと怖がらせてやろう、そんな子供らしい気持ちだったはずだ。
それが、まさか。
チャールズの頭の悪いところは、考えが最後まで及ばないところだった。こっそりとアリエルを東の湖に誘ったら、当然ニコラも着いてくる。そうして本当のところ、こんなに平和な領地に魔獣なんて出るとも思っていなかったのだと、あとから聞いた。湖の噂話をして怖がらせて、何かそれっぽい影を見たとか言って脅かしてやろうくらいの軽い気持ちだったのだと。
ソレが現れたのは、深い湖を三人が覗き込んでいた時だった。
一番最初に気がついたのはアリエルだった。
煌めく水面に黒い影が見えて、目を凝らしていた。それが段々と大きく赤黒いものだと気がつく。咄嗟に二人に危機を知らせた。
ニコラはすぐに湖から距離を取ろうとしたけれど、チャールズはそれを鼻で笑った。自分も知ってる噂話だし、アリエルも知っていたのかと面白くなくて、自分の目で見るまで信じなかったそうだ。
だから反応が遅れた。
ザッバンと水しぶきを上げて、大きな魚のような魔獣が姿を現した。
魔獣はチャールズと目が合うと、飢えた赤い目をギラつかせて、大きなアギトをぐわりと開く。
腰を抜かしたチャールズを助けたのは、ニコラだった。
ニコラは持っていた短剣で魔獣の目を一突きした。
魔獣は暴れて、ニコラは突き刺した短剣にしがみつくようにして魔獣に深く深く短剣を突き刺した。
そのすきにアリエルがチャールズの腕を取った。ぐいぐいと引っ張って、なんとか湖から離れたところにチャールズを引きずった。
茫然としていたチャールズに大人を呼ぶよう言いつけて、アリエルはニコラの元へ戻った。
アリエルは、あの瞬間が忘れられない。
湖へと戻ったアリエルの目の前が真っ赤に染まった瞬間を。
ただただ、深い悲しみと、ひどい自己嫌悪、それから心臓を掴まれたかのような恐ろしさに、泣いていた記憶しかなくて。
そうしてチャールズが大人を連れて戻ってきたときには、ニコラは半身を魔獣に食いちぎられ、アリエルは全身をニコラの赤い血と魔獣の青緑の血に染めあげて、泣きじゃくっていた。
誰もが夢だと思いたかった。
けれどニコラの葬式は滔々と執り行われたし、アリエルは魔獣の血の後遺症か、目をすっかりと悪くしてしまった。
そうして事の次第がチャールズの悪戯からだと知った当時のシーキントン伯爵は、責任を取るようにチャールズに申しつけた。
それまでのびのびと育てられていたチャールズには頭が痛くなるほどの教育を施され、視力を失っていくばかりのアリエルを妻にすることを決められて、当時のチャールズは荒れに荒れた。
アリエルの生家はチャールズに良い感情を持っていなかったけれど、アリエルがニコラの代わりにシーキントン伯爵家を守りたいと強い決意を述べれば、彼女の両親も頷くしかなかった。
そうしてアリエルとチャールズは改めて婚約をかわし、彼女が社交界デビューして一年後、先代シーキントン伯爵が病気で亡くなる直前の頃に、二人は結婚した。
婚約期間中、アリエルとチャールズは近すぎず遠すぎずの距離を保っていた。
それが変わったのは結婚してから。
アリエルが結婚し、王都でマナー講師としてひっぱりだこになり始めると、アリエルはタウンハウスを中心に生活するようになった。
そうしてチャールズといえば、年の大半は領地に戻るのだけれど、チャールズが領地のマナーハウスに愛人を連れ込んだという報告が上がったのは、結婚してすぐのことだった。
愛人の女性は、かつてのチャールズの恋人だった。アリエルは自分のせいでその女性からチャールズを奪ってしまったという負い目があったので、領地で過ごすチャールズと恋人との時間を邪魔することはしないようにしていた。
それも最初の一年だけのこと。チャールズがだんだんとその女性に入れ込み、伯爵家の財産に手を付けて、度を超えそうな散財を繰り返しそうになっているのをアリエルが咎めた時から、二人の関係は完全に変わってしまった。
チャールズはアリエルだけではなく、ほとんど屋敷にいない夫よりもアリエルのことを慕う者が多いタウンハウスの使用人にまで、手ひどい暴力を奮うようになった。
アリエルは何度も使用人に謝った。度が過ぎればアリエルが身体を張って、使用人をチャールズから庇った。
使用人は何度もチャールズを訴えるべきだと言い募ったけれど、アリエルは希望を持ち続けていた。
今のチャールズは周りが見えていないだけ。アリエルを憎むあまりに、その周りも悪だと思っているだけ。
チャールズがタウンハウスに来るのは社交シーズンの三ヶ月程だけだ。いつかきっとチャールズも、伯爵としての責務を理解するときが来る。それを導くのは、亡くなってしまった先代伯爵やニコラの代わりにそれができるのは、自分だけだとアリエルは主張した。
アリエルを慕う者たちは、アリエルにとってシーキントン伯爵家が大切なものだと知っていた。心の拠り所だと知っていた。特に幼い頃のニコラとアリエルの姿を知っている者たちは、アリエルの健気な想いを尊重してくれた。
それもそろそろ、限界なのかもしれない。
アリエルとチャールズが結婚して、もう五年が経つ。
チャールズが一年ぶりに領地から出てきて四日目。彼の暴力はエスカレートしていくばかりで、アリエルが期待するような改心の予兆は少しもない。
◇ ◇ ◇
ほう、とアリエルは息をついた。
バスタブにはった湯船に肩までつかり、ようやく人心地ついた気持ちになる。身体にできた傷に滲みたけれど、それ以上に心が落ち着いた。
「ご気分はいかがですか」
「気持ちいいわ。今日の香りはとても優しい匂いね」
「マテューの新作石鹸です。ラベンダーがメインの香りだそうですよ。お気に召したのでしたらまた調合していただきましょう」
「そうね。お願いしようかしら」
シーキントン伯爵家の庭師であるマテューは多芸な人間だ。植物の香りを抽出することに長けていて、石鹸や香り袋などをよく作っている。アリエルや屋敷のメイドたちにとって、マテューの新作はシーキントン伯爵家での一つの楽しみだった。
アリエルが湯船にのんびりとくつろいでいると、湯浴みの世話をしてくれていたクララがふと気がつく。
「染め粉が落ちてきていますね。アレに気がつかれる前に染め直しましょう」
「クララ、言い方」
「いいのです。今頃アレはお酒を飲んでぐっすりベッドで休んでいる頃ですから、聞かれるはずもございません。お嬢様にこのような仕打ちをするなど、シーキントン伯爵家のご先祖様の血を引いているなんてとうてい思えない横暴さでございます」
クララは語気を強めて言い切った。
そうして言い切った後、しおしおと項垂れる。
「私がお代わりできれば良かったのに……お嬢様、やはり考え直しませんか。アレがここにいる間だけでも、どうかご実家に戻られませんか」
アリエルの首には赤黒い手指の痣がある。
それ以外にも身体のあちこちに痣が浮かんでいた。
クララはアリエルの生家から連れてきていたメイドだ。幼い頃から仕えてくれている彼女は、アリエルが夫であるチャールズから受けている仕打ちに一番心を痛めている人物でもある。
そのクララの、我が身の不幸のような表情を見て、アリエルは困ったように眉を下げた。
「私がいなくなれば、このタウンハウスの皆がどうなるか分かったものじゃないわ。それに、チャールズ様だけでは伯爵家を守ることは難しいでしょう?」
「そうですが……それも不満なのです。どうして夫人であるお嬢様がアレの仕事を肩代わりする必要があるのです。もう五年です。ご結婚された頃のような慌ただしさはなく、お嬢様が伯爵の仕事を手伝う必要はないのではありませんか」
クララに言い募られて、アリエルは本当に困ってしまった。クララの言うとおり、アリエルがチャールズの仕事を肩代わりする理由は、もうない。
シーキントン伯爵家の領地の経営の半分は今、アリエルが担っている。それは、まだまだ勉強途中だったチャールズが先代伯爵の急逝により伯爵位を継がねばならなくなった時に、彼のキャパシティを越えて投げ出されたものをアリエルが拾い上げて采配をふるったのが始まりだった。
アリエルとしては、女だてらに男の仕事を取ってしまったことに引け目も感じている。それでも当時のチャールズには荷が重いと判断してのことだった。
だからチャールズが落ち着いて、少しずつ仕事の要領を得ていったら、彼が伯爵として立派に采配をふるえばいい。その日までは自分が伯爵家を支えようと、そう決めいていた。
決めていたけれど。
「……チャールズ様は、伯爵家をどうしたいのかしらね」
外で聞くチャールズの評判はまずまずといったところで、特段悪いわけではない。
でもそれはチャールズがアリエルのいるタウンハウスで見せるような暴力的な一面を綺麗に隠しているだけ。本人も進んで悪名を流したいわけではないらしく、マナーハウスに囲っている女性のことや、アリエルとの冷めきった夫婦関係を表立てるようなことはしていない。むしろアリエルとの仲を疑わせないように、外では理想の夫像を演じているくらいだ。
仕事に関しては、全くしないわけではないけれど、意欲的に取り組んでいる様子は見たことがない。アリエルがやっている仕事に関しても、我関せずで、そんな仕事は最初からアリエルのものだろうと言うように仕事を振ってくることさえある。
アリエルはちゃぷちゃぷとバスタブの湯を跳ねさせ、しゅわしゅわと浮かぶ泡をそうっと手ですくい上げると、ふう、と息を吹きかけた。
小さなシャボン玉が、透明な七色の模様を描いて宙に浮かぶ。色が変わるシャボンを見つめながら、アリエルはたおやかに微笑んだ。
「ごめんなさい、クララ。やっぱりもう少しだけ、私が伯爵家を支えたい。ニコラが守りたかったものを、私も守りたいの」
「……かしこまりました」
アリエルという女性はひどく頑迷だ。
どんなに打ちのめされようとも、たった一つの信念のためならば、どんな逆境も乗り越える強さを持っている。
この強さが、チャールズにも少しだけあれば、誰もが幸せになれたはずだった。