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分かりあえない夫

女性への暴力表現があります。

苦手な人向けに最後にダイジェストあらすじつけています。

胸糞注意。

 アリエルは非常に後悔していた。

 いかに意識が朦朧としていたとはいえ、一番言ってはならない人に、一番言ってはならないことを言ってしまった。


 元はと言えば、エドモンの目の前ですきを見せてしまったのが悪かったのかもしれない。心配してくれた公爵自ら横抱きにして客室に運ばれるなんて思ってもいなかった。安心感のあるたくましい腕と、密着した服から香るジュニパーの香りはひどくアリエルを安心させてくれた。


 エドモンに運ばれた先にあったふかふかの寝台は、さすが公爵家というべきか良い匂いがして、伯爵家の物より寝具の手触りが一等いい。メイドにひっつめていた髪をほどかれて、ワインレッドの眼鏡をベッド脇のサイドボードに置いて、ゆったりとアリエルは寝台に沈んだ。


 そこからはもう本当にぽっかりと意識を失っていた。

 途中息苦しさも覚えた気もしたけれど、意識が浮上することもなく、ここ二日の間であっという間に限界がきた身体を休めるように、泥のように眠っていた。


 そんなアリエルの意識が浮上したのは、名前を呼ばれた時だった。


 アリエル、と優しく名前を呼ばれた気がした。


 ぼんやりとまぶたを開ければ、秋の枯れ葉のような茶色に、温かな榛の色。

 いつまで経っても忘れられないその色を見て、懐かしさがあふれた。


「ニコラ……」


 夢現で名前を呼ぶと、目の前の人は微笑みながらアリエルの頬を撫でた。

 それから唇を枕に沈むアリエルの耳元へとそうっと寄せてくる。


「―――二度とその名を口にするなと言っただろ」


 ぞっとするような冷たい声音に、アリエルは飛び起きた。

 はっ、と息をついて、朧気な視界ながらも、目の前にいた人物が誰なのかに気がつく。


「チャールズ様……っ」

「よく眠っていたようだね。心配したよ。さぁ、帰ろう。僕らの邸に」


 間違えようもないくらいにチャールズの声を聞いて、アリエルはしくじったことを悟った。


 チャールズは人好きのするような笑顔を浮かべて、優しく声をかけてくれる。けれどその一つ前に耳元で囁かれた言葉と、笑ってはいない榛の瞳の奥にある感情に心臓が掴まれた思いになり、全身が冷えた。

 ぼやけた視界の中でも、彼の機嫌が最低レベルにまで急下降したのは分かった。ここがもし伯爵邸であれば、この二日間のような悪夢の時間が、問答無用でアリエルを襲っていたはずだ。


 一瞬、今なら誰かに事情を話せるのではとも思ったけれど、他所の家にどうこうできる問題でもないことを思い出して、そっとうつむく。


「さぁ、帰るよ。歩けるね?」

「……はい」


 眼鏡がなくて視界が悪い。多少よろけながらベッドを降りようとしていると、気の利くメイドが眼鏡を手渡してくれた。


 くっきりと輪郭を伴った視界で、改めてアリエルはチャールズが迎えに来ている事実を認識して、ため息をつきそうになる。それでもため息なんてチャールズの前でした日には後が怖い。ただでさえ、もうすでにチャールズの怒りの沸点はとうに越しているだろうから。


 チャールズは当たり障りなく部屋の外で待っていたらしいエドモンと挨拶を交わすと、さっさと公爵邸を後にするべく、アリエルを馬車に押し込んだ。アリエルはこの馬車にチャールズと二人きりにさせられることを思うと憂鬱になる。……この後、まず間違いなく、彼の折檻が待っているから。


 心配そうな眼差しのエドモンとの挨拶もそこそこに、馬車が走り出した。

 公爵家の敷地を出ていく。

 シーキントン伯爵家のタウンハウスは、公爵邸から馬車で四半刻ほどのところにある。

 その時間、アリエルはチャールズと二人で並んで座っていたのだけれど。


「アリエル」


 不意にチャールズがアリエルの名前を呼んだ。

 きた、と思ったアリエルは、何がきてもいいように身構える。


「君の夫は誰だ」

「チャールズ様です」

「そうだね。そうだったよね? ―――なのに何故、あいつの名前を呼んだんだッ!!」


 それまで前を向いていたチャールズが、突如、アリエルの首に腕を伸ばして、その首を絞めた。

 ぐっと喉を握られたアリエルは、何も考えないで、ただただ、チャールズの暴力が過ぎ去るのを待つ。伯爵邸まで、彼の怒りは我慢ができなかったらしい。


「そんなにも兄さんがいいのか!? 僕があの時死ねば良かったと!? 別に僕だって一人で逃げられたんだ!! それなのに兄さんもお前も勝手に助けたつもりになって、勝手に恩を着せたつもりになって、あまつさえ僕の人生をめちゃくちゃにして……ッ!!」


 ギラギラと憎悪を込めた榛の瞳は澱んでいた。

 アリエルが好きだった榛の色とは違うことを見せつけられながら、アリエルの視界が赤く明滅する。

 もう少しで意識が落ちる、と思ったところで、チャールズの手が離れた。


「か、はッ」

「気に食わない」


 チャールズが自分と同じ色をしたアリエルの髪を力任せに引っ張ると、座席から馬車の床へとなぎ倒す。アリエルはガツンと身体のあちこちをぶつけて、頭皮には引き攣れたような痛みが走る。ワインレッドの眼鏡はその衝撃で床に転がった。


 チャールズはさらに能面のような無表情でワインレッドの眼鏡を踏み潰す。カチャンとガラスと金属特有の音を響かせて眼鏡が割れた。

 また眼鏡を壊された。これで何個目だろうか、スペアの眼鏡はあっただろうか。それとも視力検査を兼ねて作ったほうがいいだろうか。そんな現実逃避をするアリエルの目前で、チャールズは心ない罵声を浴びせてくる。


 鼻持ちならない女だの。

 でしゃばりな女だの。

 挙句の果てには、公爵家に出入りする売女、阿婆擦れだの。


 貴族街とはいえ、通りすがりの人がいないとは言い切れない。外に聞こえないよう、アリエルの耳元でチャールズは忌々しげに囁き続ける。

 それにも飽きると、彼はアリエルのドレスを掴み、暴力を奮い始める。


「お前さえ、お前さえいなければ!」


 憎しみに満ちたチャールズの怨嗟を、アリエルはその身に受け止める。

 アリエルが悪い。

 全て私が悪かったと、アリエルはチャールズに伝え、チャールズの暴力に甘んじる。

 アリエルがチャールズの思い通りにならなければ、彼の怒りは収まらないのは知っていた。そしてチャールズの癇癪が収まらなければ、その被害が使用人に向くのも。


 アリエルは自分に言い聞かせた。

 いつか、いつかチャールズも気づく時が来る。こんなことをしても何もならないと。もう自分が子供ではなくて、大人になったのだと。伯爵としての自覚を持って、立派に務めを果たしてくれる日が来ると。

 だって彼はニコラの弟だから。

 優しかったニコラの弟だから。

 奥歯を噛んで耐えるアリエルを、チャールズはハッと鼻で笑い、侮蔑の表情で見下ろした。


「滑稽だな。兄さんもこんなお前の姿を見たら幻滅するよ」


 チャールズはアリエルを狭い床に押し倒す。再び体勢を崩したアリエルが、馬車の床に後頭部を打ちつける。


「い、たっ!!」

「うるさい」


 痛みに呻いたアリエルの首を、チャールズは再び絞める。

 はくはくとアリエルが酸素を求めるけれど、チャールズはお構いなく力を込め続けた。

 アリエルの瞳がだんだんと虚ろになっていく。

 意識が落ちるだろう寸前を見計らったチャールズは首から手を離すと、アリエルの頬を平手打ちした。


「落ちたら分かっているな? クララを犯してやろうか。それともこの間粗相をしたメイドがいいか?」

「っ、や、やめて、やめてちょうだいっ!」

「ならお前が!!」


 アリエルは耐えた。

 いつものことだ。自分が悪い。彼をここまで狂わせてしまったのは自分のせいだという自覚があった。

 だから彼の折檻は甘んじて受けなければならない。


 二人きりの馬車の中、アリエルは衝動にまかせたチャールズの暴力をその身で受け止める。


 伯爵家に着く頃には、アリエルは自力で馬車を降りれないほどぐったりとしていた。それでもチャールズの苛立ちは収まらず、馬車を引きずり降ろされて寝室に閉じ込められる。


 夕餉の時間を越えてチャールズが夫婦の寝室を出てきた頃には、アリエルの身体中におびただしいほどの暴力の跡が残り、彼女はこと切れた人形のように意識を落としていた。



ダイジェストあらすじ


公爵家で倒れたアリエルは、目が覚めたとき迎えに来た夫チャールズのことを、彼の兄ニコラと呼びかけてしまう。そのことに苛立ったチャールズによって、馬車の中で折檻を受け、伯爵邸に戻ってもなお、チャールズの怒りは収まらなかった。

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