それぞれの準備期間
王城での噴水の一件はまたたく間に侍女や騎士、衛兵たちの間で話が広まり、都合よくアリエルとエドモンは恋愛結婚だという認識へとすり替わっていった、らしい。
というのも、これは友人であるルノアール侯爵夫人であるベリンダから教えてもらった話だからだ。
これが良いことか悪いことなのかは、アリエルにも判断がつかない。聖女云々の話も決着がついていないのに良いのだろうかと不安に駆られもするけれど、そのたびにエドモンが「もう貴女以外と結婚なんて考えられないんだ」と言うものだから、アリエルも絆されてしまっている。
だって、アリエルがエドモンに恋してしまったのは本当のことだったから。
エドモンには未だ気恥ずかしくて直接話したことはないけれど、ケーナにこっそりと教えた自分の気持ちに偽りはなかった。ようやくこの結婚にアリエルの気持ちも伴ってきている証だったが、改めてエドモンに恋していますなんて宣言するのは恥ずかしい。
聖なる力と、政略と、恋愛。
複雑に絡まったこの結婚が、どんどんと現実味を帯びてきている。
雪が溶けきるより早く、エドモンの怪我はすっかりと治り、騎士団に復帰した。
本来なら春風が吹く頃にようやくギプスが取れはずだったと、医者はその脅威の回復力に驚いていた。
これはアリエルとエドモンだけの秘密だけれど、不思議と七色にきらめいていたアリエルの瞳の虹彩が、エドモンの怪我が完治した日にすっかりと彩度を落としている。
気づいたのはエドモンで、おそらくアモフィックスにかけた治癒能力のようなものがエドモンにも働いていたのではないかと考えている。けれど実際にそうだとも言い切れず、アモフィックスのように目に見えた変化というものもなかったので、ダビデとロビンに報告はしたものの、このことはやはり内々に留めておくことになった。こんな効力があるのかないのかという力、アリエルにしろ国にしろ、持て余すだけだから。
そうして春を迎えれば、いよいよ結婚への日が近づいてくる。
エドモンの休みの日をねらってあいさつ回りと言うなの根回しを進め、結婚式の調整をし、アリエルが嫁入りするための公爵夫人教育も佳境に入ってきた。
本格的な結婚準備をするには色々と都合も良かったので、冬からずるずるとアリエルはジラルディエール公爵邸で過ごしている。ジラルディエール公爵邸の使用人たちは温かく、アリエルは徐々に夫人としての意識を培っていった。
そんな、結婚式直前のある日のこと。
注文していた、アリエルのドレスが仕上がってきた。
一着は純白のウェディングドレスで、細身でぴったりと身体にそうマーメイドドレスだった。首周りや袖は繊細なレースで肌を隠し、裾で襞を作るドレープには真珠が散りばめられている。
もう一着はお披露目の夜会用のホワイトグレーのドレスで、銀の刺繍が施され、胸元には赤い薔薇の造花が差し込まれている。ダンスを踊るときに映えるように裾が軽いAラインの型のドレスだ。
どちらもエドモンがアリエルのために作らせたドレスで、エドモンもこの二着と揃いの衣装を着る予定だ。
そのドレスを前に、アリエルはほぅと息をつく。
「なんだか実感がわかないわ……」
「まぁ。何を言ってるんですかお嬢様! 結婚式はもうすぐなんですよ」
「そうなのだけれど、なんだかこの一年、夢のようだったと思って」
ドレスを見つめて感慨にふけっているアリエルに、クララが笑った。
「普通の方では体験できないことが目白押しでしたからね! 魔獣に連れ去られて、スピナが聖獣だって分かって、あれよあれよのうちに公爵様の婚約者ですから」
「そうね」
言葉にするとなかなかに尋常ではない一年だったなと思う。つい最近では嫉妬にかられた王女殿下に目の敵にされていた。あの後、王女殿下から謝罪の手紙が贈られたし、そんな彼女もめでたく今年の社交界で婚約発表をすることが決まったらしい。
またチャールズのように誰かの最愛を奪ってしまったのかと一時期は落ち込んだけれど、エドモンがアリエルに毎日のように甘い睦言を囁いてくれるので、徐々にその気持ちも薄れていた。今は純粋に王女殿下の幸せを願っている。
そうして長い時間物思いにふけっていると、クララがとうとうドレスに埃よけをかぶせてしまった。
「お嬢様、ドレスを眺めていたいのは分かりますが、今日も忙しいんですからこれくらいにしておきましょう」
「そうね。招待状、まだたくさん書かないといけないもの」
「そうですよ! さすが公爵様、伯爵家の結婚式とは規模が違いすぎます。こんなに招待客を呼んで、お披露目には王城のダンスホールを借りるんですから」
「ふふ、そうね」
呆れたようなクララの物言いに、アリエルはついつい笑ってしまう。
公爵であるエドモンの人脈は本当に広かった。この国の貴族だけではなく、他国の王侯貴族にまで招待状や結婚報告の手紙を書いているので、その数は膨大だった。アリエル側の招待客は家族や教え子、それから数人の友人程度なので、それに比べたら比較にもならないくらいの人数になっている。
ご挨拶も含めて、結婚式の招待状はアリエルが直接筆を執っていた。遠方でなかなか来られないような方にも丁寧に文をしたためる。これが最近のアリエルの日課だった。
「ではお部屋に戻りましょうか」
「ええ」
クララが扉を開けてくれて、廊下に出る。
ドレスが安置された衣装部屋の前には、白くて小さなもふもふがちょこんとお行儀よくお座りしていた。
「あら、スピナ。こんなところでどうしたの」
「アリエル様にお会いしたそうにしていらっしゃったのでお連れいたしました」
「セルジオさん。ありがとうございます」
「アリエル様、どうか私のことは呼び捨てになさってくださいませ」
「まぁ……ごめんなさい、またくせで」
「よろしゅうございます。お嫁入りされるまでに慣れてくだされば」
スピナを連れてきてくれたらしいセルジオに咎められてしまったけれど、そんなセルジオの視線は柔らかい。彼もアリエルをこの公爵邸の女主人として認めてくれているからこその言葉だった。
「スピナ、遊びたいの?」
「くぅん、くん」
「少しだけ、お庭に行きましょうか。花壇がそろそろ見頃ですもの。クララ、書き物はお庭のテラスでするわ」
「かしこまりました」
アリエルはそっとしゃがむと、スピナを抱き上げた。スピナは一年前よりひとまわり大きくなった。来年には抱き上げるのも難しくなるかもしれない。カーバンクルという種族が最終的にどれくらいの大きさになるのかはわからないけれど、こうして抱いてあげられる間はめいっぱい甘やかしてあげるつもりだった。
◇ ◇ ◇
ところ変わって、王城のダビデの執務室。
ここでもまた、男三人でエドモンの結婚式について話題が上がっていた。
「順調に準備が進んでいるようで何よりですね。今のところ、騎士団や国の催事の日程の調整も問題ありませんし」
「はぁ〜〜〜、ようやくお前も結婚かぁ。兄としてはなんだか感慨深いな」
ロビンの日程調整の報告の直後に、ダビデが椅子に深く腰掛けて天井を仰いだ。
エドモンはそんな二人の様子を眺めながら、ふっと笑みを浮かべている。
「私も感慨深いです。婚約破棄した頃からずっと、一生結婚できる身ではないと思っていましたから」
「お、その表情いいな。柔らかい。いつもそれくらい良い顔をしていれば、侍女に失神されたりなんかしなかったんじゃないか?」
「……善処します。それとあの侍女とは和解しました」
そろっと視線を外して気まずそうな顔をしたエドモンに、ロビンがズレかけたモノクルをそっと指で直しながら視線を向けてくる。
「あの一件以来、良い方向へと噂が振られましたからね。恋愛結婚、上等じゃないですか。聖女の話もこのスキャンダルの影にあっという間に隠れましたからね。国としてはまあまあ良い落としどころです」
「結局あれからはっきりとした力の発現のようなものもなかったんだろう? カーバンクルも大人しいし、アモフィックスは役立っている。聖女の件はもうなかったことにしてもいいくらいだ」
エドモンはダビデの言葉にうなずきでもって返した。それっぽい現象はなかったとは言い切れないが、アリエルが自分の元で穏やかに過ごせるのなら何でもいい。
「そうだエドモン様。結婚祝いは何がいいです?」
「気が早いな。まだひと月は先だぞ」
「むしろもうひと月しかないんですよ。妻が贈り物選びに夢中になっていまして、こっそり聞いてこいと」
「ふははははっ! 堂々と聞くなお前!」
ロビンがしれっと白状すれば、ダビデが大きな声で笑い声をあげた。今日の護衛はダビデの爆笑に慣れているベテランのようで、扉の外の気配が動揺する様子はない。
エドモンはちらりと扉の方に向けた視線をロビンに引き戻すと、結婚祝いか、とつぶやいた。
「なんでもいいが……そうだ、ルノアール侯爵領の特選ジャムを贈ってくれ」
「そんなものでよろしいので?」
エドモンの安い結婚祝いに、ロビンが首を傾げる。
ルノアール侯爵領は温暖で果樹園の経営が盛んな領地だ。傷みやすい果物などはジャムとして加工されて出荷されるが、さらに生育が難しい希少な果物となると市場に出にくい。
確かに珍しいジャムばかり集めればそれなりにはなるけれど、公爵家への結婚祝いにするには安すぎる代物だ。
けれどエドモンは「それがいい」と頷く。
「彼女は菓子を作るのが得意なんだ。ジャム入りのパウンドケーキやビスケット、バターサンドクッキーが美味しい」
「はぁ」
「コールソン子爵領は、高原地帯だから果物はあまり取れなかったらしいんだ。市場に出回るジャムの種類も少ないようで、この間商人に珍しいジャムを勧められていて気になっていたようだから」
「……いやもうそれ、普通に贈られては??」
わざわざ結婚祝いにしなくてもと本気で思ったロビンがお手上げだというように両手を上げた。
そのロビンの突っ込みに、ダビデが両手を打って笑った。
「エドモン、貰うならもっといいものを貰え! アリエル嬢の初夜のための扇情的な下着とかな!」
「しょやっ!?」
ダビデの明け透けな要望に、思わずエドモンの声がひっくり返った。
その顔が耳まで真っ赤になっている。
「初心か」
「初心ですね」
「まさか童て」
「だから不名誉な発言はやめていただきたい!」
いつかのようなやり取りに、エドモンが声を張り上げる。
エドモンも男なので三十路を前に全くの未経験というわけではない。そもそも王族だったからそういった閨教育のようなものがあったし、平の騎士の頃には先代騎士団長にそういう店に一度だけ連れて行かれたのだから、断じて違う。
そもそも。
こんな下卑た会話がこの国の最高峰の執務室で行われるだなんて度し難い。エドモンは赤らんだ顔を誤魔化すように咳払いしすると、話しの軌道修正を測った。
「結婚祝いに下着なんか贈ってくれるなよ。絶対にだぞ。ジャムを贈れ、ジャムを。いいか、侯爵家認定の特選果実のジャムだ。……お願いだからジャムにしてください、ロビン様」
「エドモン様が敬語になるほど嫌がっているので、お望み通りここはジャムを贈りましょう。さすがに私から下着を贈っても神経を疑われますし」
「そうしてくれ」
「残念だ」
「ざ、んねんではありません!」
「ちょっと言い淀んだな?」
「言い淀みましたね」
「やっぱり期待してるんじゃないか? このむっつりめ」
せっかくロビンが空気を読んでくれたのに、揚げ足を取るかのようにダビデにやにやと笑いながらエドモンを追い詰める。とうとうエドモンは撃沈し、顔を覆ってその場にしゃがみ込んでしまった。
「……勘弁してください、兄上……」
「ふはははは!!! 可愛い弟の初恋はからかい甲斐があるなぁ!!!」
大爆笑するダビデに、エドモンはもう何も言えなくなる。
ロビンはやれやれと言うように、横に避けていた書類を引き寄せ、ペンをインクに浸した。
「さて陛下、そろそろ休憩は終わりにしてください。エドモン様の結婚式に参列したいのなら、さくさく仕事を前倒しでやりましょう」
「そうだな。無骨で可愛い弟の晴れ舞台だからな。仕事でいけなくなるのは勿体ない」
ロビンがペンを動かすのを見て、ダビデも執務に戻ろうと居住まいを正す。エドモンもそろそろ騎士団の方へと思案していると、ロビンが自分の机の横にある書類の束をペンで指し示した。
「というわけでエドモン様。こちらの書類は騎士団に戻してくださって構いません。そのついでに財務省と法務省にそこの書類の山を返してきてくださると助かります」
「……文官を使えばいいだろう」
「恥を忍んで、妻が私を誘惑するために購入したという、ドスケベネグリジェのお裾分けをいたしましょうか」
「やめてくれ! アリエルが汚れる!」
「ふはははははっ!!! ロビンそれ詳しく頼む!!」
エドモンは慌てて書類の束を抱えるが、ダビデは爆笑してしまい仕事にならない。
ロビンといえば鼻をならして、エドモンを見た。
「ちなみに結婚祝いの返しは倍でお願いしますね」
「珍しいなお前がそういうことを言うのは」
「秋に妻の出産が控えているので」
「は?」
「ほう?」
ぽかんとしたエドモンとは真逆で、ダビデは爆笑をぴたりと引っ込める。
二人のロイヤル兄弟は一拍おいて、顔を見合わせた。
「出産……?」
「なんだおめでたか!! ロビン、そういうことは早めに報告するものだぞ!!」
「いえ、順序的にはエドモン様の慶事の方が早いでしょう。それにまだ安定期にも入っておりませんので」
「それでも祝わせろ! 出産祝いか、盛大に祝ってやるぞ! 男子なら未来の宰相かもしれないし、女子ならうちの長男の嫁になるかもしれないしな!」
「気が早すぎですよ、兄上」
「何をいうか。ちなみにエドモン、お前の子供ができた暁も良縁を斡旋してやるから覚悟しておけよ」
「いらないお節介ですし、これこそ気が早すぎます……」
ロビンの第一子誕生に執務室は沸く。
収拾がつかなくなりそうだったのを、当の本人であるロビンが仕事をしろとせっついたので、ようやくエドモンも書類を抱えて国王の執務室を退出した。
ロビンに頼まれた各部署へのお使いの途中、頭の中はぐるぐるといろんなことが駆け巡る。
(結婚……初夜……アリエルとの子供……そうか、子供ができるかもしれないのか……)
騎士団に身を置いてから、いつ死んでもいい心構えできた。結婚なんてするはずもなく、せっかく興したジラルディエール家も一代限りだと思っていた。
それが、未来に続くかもしれない。
なんだかそれを思うと感慨深い。
いよいよ結婚という実感が、エドモンの中にも根をしっかりとはやしてきた。