軍神公爵の怒り
にわかに騒がしくなった邸内の気配に、書斎にこもっていたエドモンは顔をあげる。
ここ数日で怪我の治癒が驚くほど快調に進んで、首から吊り下げていた腕も包帯で固定はしているものの、もう吊り下げなくていいほどには回復していた。
そんな状況下で今日は客人の応対し、それから執務を進めていたエドモンだが、見過ごせないほどに邸内がざわついている。家令のセルジオに視線を向ければ、確認しますと言って書斎を出ていった。それからしばらくしないうちに戻ってくると、険しい顔でことの子細をエドモンに報告する。
「アリエル様が全身を濡らしてお戻りになられたようです」
「なに?」
エドモンの眉が訝しげに顰められる。思わず椅子から立ち上がったエドモンに、セルジオが重ねて報告した。
「急ぎ湯の支度をさせていますが、だいぶ顔色が悪いようにお見受けいたしました。医師の手配をしても?」
「もちろんだ。待機させておくように」
エドモンはセルジオにそう言いつけると、そのまま執務室を横断する。
「アリエルは風呂か?」
「湯が湧くまでは客室に。先程までお客様がいらしていたので、暖炉の火がまだ燻っておりましたから」
不幸中の幸いか。書斎には紙や書籍が多いので暖炉の火は最低限しかいれないから、ここは寒い。都合よく客間が温まっていたのは僥倖だった。
エドモンは書斎を出ると、まっすぐに客間を目指した。道中、着いてこようとしたセルジオには医師の手配を優先させて別れる。
客間を開けると、数人のメイドが暖炉の前を囲っているのが見えた。
「アリエル様、お気をたしかに」
「随分と冷えられています。もう少し毛布を」
「生姜湯です。芯から温めませんと」
わらわらと集まるメイドたちの中心にいるのは毛布にくるまったアリエルだった。黄金の麦穂色の髪はしっとりと濡れ、その表情は気だるげ。唇も青く、その身体は寒さに震えていた。
「アリエル」
「……エドモン様」
エドモンがメイドの合間を抜けてアリエルの傍らに膝をついた。ちょっと焦点が怪しい気もするけれど、アリエルはそっとエドモンを見つめ返す。
「何があった」
「申し訳ないです。私の不注意です。お気になさるようなことでは……」
「たわけもの。王城に行って何事もなかったのであればこんなことにはならない。貴女がこんな状態なのに先触れがこないのもおかしい。隠し立てはするな」
アリエルが困ったように微笑む。その唇はすっかり冷え切っていてるのか薄らと青いし、体は寒さが和らがないのかずっと震えている。どう考えても尋常ではないというのに、アリエルが真実を話そうとしない様子に、エドモンの声は自然と厳しいものになる。
「……クララ。話せ。命令だ」
「恐れながら」
アリエルが気まずそうに視線を伏せた。ずっとアリエルに付き添っていたクララは、エドモンに命じられるまま、ことの次第をすっかりと話してくれた。
「王女殿下の侍女たちによる嫌がらせがエスカレートしております。陰口だけではなく、お嬢様の紅茶に塩や胡椒をいれられたり、案内のときにわざと遠回りをしてわざわざ寒い庭を通ったり……今日はとうとう、故意的に噴水に突き飛ばされました」
クララの話す出来事に、エドモンのルビーの瞳が徐々に剣呑なものへと変わっていく。
「王女はそれを知らないのか?」
「知っているとは思います。噴水に突き飛ばされたときは王女殿下の御前でしたが、突き飛ばした侍女に対してのお咎めはございませんでした」
明らかに作為的なそれにエドモンは舌打ちをしたくなる。
「アリエル。この件は私の方から兄上に重々に抗議しておく。すまなかった。王女との茶会はもう行かなくていい」
「いいえ、そんな。私が至らないせいで王女殿下がご不満に思うのも仕方のないことなのです」
「貴女に落ち度などない。王女のこれは彼女の責だ。上に立つ者としての振る舞いではない」
きっぱりとエドモンが言い切れば、アリエルは視線を落としてしまう。気丈な彼女の項垂れるようなその姿に、どうしようもないほど心臓がぐっと掴まれてしまう。エドモンはそんな心臓をなだめながら、彼女の頭をそっと撫でた。
「私では頼りないか」
「……違うのです。私が、ふさわしくないのです……」
「そんなことはない。私が貴女を選んだんだ」
「それは、私が聖女の資格を持つかもしれないからでしょう……?」
久しぶりに聞いたその一言に、エドモンの眉間にぐっと皺が寄る。
「違う。私はちゃんと貴女に伝えたはずだ。それらは全て建前で、私は貴女自身を好ましく思っていると」
「ですが、私が公爵であるエドモン様と婚姻するには聖女の資格を求められているのです。それなのにそんな力、あるかどうかも定かではない私が、こうして婚約者の立場でいるなど、身分不相応なのです」
「貴女は私の愛を疑うのか?」
うつむき、言い募るアリエルに、ついエドモンの声が尖る。
ぴくりと肩を震わせたアリエルは、うつむいたままそっと顔を覆ってしまった。
「覚悟はしておりました。出戻りの私がエドモン様と婚約するのは憶測を呼ぶことだと。……やはり私は、どうやら公爵夫人たりうる資格がないようです」
「ふざけたことを言うな」
細々と囁かれた言葉に、エドモンはとっさに彼女の肩を掴む。
「貴女が忘れてしまったというのなら、何度でも言おう。地位なんて関係ない。私はありのままの貴女を望んだんだ。建前ばかりを見るのではなく、私の本音を信じてくれ」
「ですが……っ」
アリエルが顔を上げた。
空色の瞳は熱に潤んでいて。
「皆が言うのです。伯爵から公爵へと乗り換えた、はしたない娼婦だと。王女殿下にも相応しくないと言われたのです。私は、エドモン様に相応しく―――」
「黙れ」
短い言葉とともに、エドモンはアリエルの顎をぐっと掴むと、無理矢理に上向ける。
そのまま彼女へ、本能の赴くまま唇を重ねた。
口腔を蹂躙するように、アリエルが紡ぐくだらない言葉を飲み込むように、潤んでいた彼女の空色の瞳から涙がこぼれてしまうほど激しく唇を貪った。
「っ、」
「私の愛を疑ってくれるな。貴女はただ私に愛されていればいい。そのようなくだらない戯言、すべて私が掃討してやる。私の愛しい人を侮辱するような輩を許すはずもない」
「エドモン、さま……?」
「アリエル、私はそんなに頼りないか? 何かあったら言ってほしいといっただろう。なぜ頼ってくれない」
エドモンがアリエルの顔を自分の方へと上向けさせたまま詰問すれば、アリエルは瞳を閉じて瞼を震わせた。
「……申し訳ありません」
「謝罪が聞きたいわけじゃないんだ」
アリエルがそっと瞼を上げた。
彼女の中で何か葛藤があるようで、唇がきゅっと噛み締められた。痕になるとよくないと、エドモンが唇を何度も優しく親指でなぞってやれば、とうとう観念したように力が抜けた。
潤んだ瞳をそろりとそよがせて、アリエルが小さく口を開く。
その様子は、まるで迷子の子供のように頼りなさげで。
「……わからないのです」
「分からない?」
「どこまで頼っていいのか、許されるのか……呆れられるのも怖くて、こんなことすら一人でできないのかと言われるのも、つらくて」
「アリエル……」
「私ががんばらないとって、私が折れたら他の人に迷惑がかかるって、私、だから」
「アリエル、もういい」
はらはらと涙をこぼしながらぽつぽつと話すアリエルに、エドモンは後悔した。
そうだった、アリエル・コールソンという女性はこういう人だった。
誰かを気にして、自分のことをたやすく犠牲にする人。
それがあまりにもいじらしくて、エドモンはその手をすくい取ってやりたいと思っていたのに。
エドモンの胸が、先程から引き絞られたかのようにぎゅっと痛んでいる。
「悪かった。私が言い過ぎた。泣かないでほしい。心配のあまり、厳しいことを言ってしまった」
「エドモン様……っ」
「おいで。まずは体を温めよう」
エドモンは毛布にくるまったアリエルを抱きしめた。濡れたドレスはひとまず着替えているようだが、アリエルの身体は未だに冷え切っている。
そのアリエルの身体を覆うように抱きしめる。そうだ、と思ってセルジオにお気に入りのショールを持ってくるように頼んだ。
アリエルが手ずから編んでくれた羊毛のショールは、そこらのショールに比べて随分と防寒性に優れている。火気厳禁の書斎で重宝するくらいに温かいので、エドモンはそのショールを広げると、自分とアリエルをまるごと包むようにくるんだ。
アリエルの涙腺は壊れたかのようにはらはらと涙を流し続けている。エドモンがその眦に浮かぶ涙を唇ですくって舐めとれば、アリエルは恥ずかしそうに瞼を閉じてしまった。
「貴女を愛しているんだ、アリエル」
そっと耳元で囁けば、アリエルがきゅっとエドモンの服を握る。
そのいじらしい姿に、エドモンはますます愛しさが募っていくばかり。
それと同時に、アリエルをこんな目に合わせた者を許しはしないと、紅いルビーの瞳の奥に怒りの炎を燻ぶらせた。
◇ ◇ ◇
湯が沸いたと呼びに来たメイドにアリエルを任せ、エドモンは外套を羽織る。クララには医師の手配をしていることを伝え、エドモンは待ちきれないと言わんばかりに早馬を飛ばすと同時に、馬車へと乗り込んだ。
雪道の中、早馬を追うように馬車を走らせ登城する。
堂々と目指すのは兄であるダビデ王の執務室だった。
「失礼する。エドモン・ジラルディエールだ。今しがた飛ばした早馬の件で陛下にお目通りしたい」
「通せ」
執務室の前で用件を伝えれば、中からダビデの入室許可の声が挙がる。エドモンは護衛の騎士たちに労いの声をかけると、さっさと入室した。
執務室では疲れたようにダビデが天井を仰ぎ、ロビンも呆れたように眉間の皺を指で揉みほぐしているところだった。
「兄上、何か言い訳は」
「……一応、不敬ですよ、エドモン様」
「いや、いい。仕方ない。エドモンが怒るのも分かる。我が娘ながら、ほんと馬鹿なことしたもんだ……」
はぁぁぁあと特大のため息を吐いて、ダビデが姿勢を戻した。天井を向いていた紅い瞳がエドモンを見据える。
「今、裏づけを取らせている。少し待て」
「……」
むすっと不機嫌な表情を隠さないまま、エドモンは律儀にその場で直立する。ロビンにソファを勧められたけれど、断った。
四半刻ほど待つと、ようやく報告が上がってきた。
それも、実行犯付きで。
「し、失礼いたします……っ、ケーナ・ドリーブでございます……! この度は大変申し訳ございませんでした……っ! こ、この身にかけられる罰は、いかようにもお受けいたします……っ」
騎士と共に連行されるようにやってきたのは、ひょろりと背の高くうつむきがちな、猫背の侍女だった。連行してきた騎士が裏付けのとれた噴水の件について事の次第を報告すると、猫背の侍女ケーナがその場で平身低頭した。
「ドリーブ伯爵家の者か」
「っ、は、はい……ドリーブ伯爵が三女でございます……! ち、父はこの件に関わっておりません……っ、ば、罰は私のみに何卒……!」
がたがたと身体を震わせ、恐怖に顔を青褪めさせるケーナに、ダビデは眉をひそめ、ロビンは苦笑いだ。
どう考えても、ケーナには一人で誰かを陥れるようなことができそうな娘には思えない。特にロビンはドリーブ伯爵と夫妻共々懇意にしており、ケーナとも少なからず面識がある。だからこそ、彼女が人一倍どんくさく、とうてい悪事を企めるような娘ではないことを知っていた。
「ケーナ嬢。貴女が我が婚約者を噴水に突き飛ばしたのは先の報告に上がった通り真実ということで間違いないな」
「は、はい……っ、申し訳ございませ……っ」
「誰の指示で行った」
ひっ、とケーナは小さく悲鳴を上げる。
エドモンの表情は泣く子も黙るほどに眼力が強くなっているが、幸いケーナは低頭したままでその顔面を見ていない。それでも上がった悲鳴に、ダビデが大仰に嘆息した。
「隠さなくていい。うちの姫か」
「も、申し訳ございません……っ! ば、罰はわたくしに……っ」
「いや、罰は姫にもだ。諌めることもしないで看過したのは上に立つものとして相応しい姿ではない。今しがた聞いた噴水の件とは別口からも、報告が上がってきている。其方も含め、姫付きの者たちは一律解雇になるだろうこと、覚悟しておけ。噂で惑わされるような者を機密の多い城に置いておくわけにはいかない」
ダビデの厳しい判断に、ケーナが震える。城勤めの侍女は、行儀見習いの令嬢にとってのステータスになる。そのステータスを剥奪される形となれば、社交界での評判は間違いなく下がり、婚約者探しをするような令嬢にとってはかなりの痛手になる。
それは勿論、ケーナにも当てはまった。ただ、その背の高さに見合わず気の小さいケーナにこれ以上詰問すると倒れかねない。見かねたロビンが咳払いをした。
「ケーナ。貴女はこちらから指示があるまでひとまず謹慎です。先程の騎士を見張りをつけます。いいですね?」
「い、いかようにも……っ」
「ではこの話はここまでだ。最後になにかあるか?」
「あ、あのっ」
あんまりにも怯えるものだからさっさと退室していくだろうと思っていたのに、ケーナがここで声を上げる。
相変わらず震えて平身低頭のままではあるが、間違いなく今声を上げたのは彼女だった。
ダビデとロビンが意外そうに眉を跳ねる横で、エドモンだけが胡乱な目でケーナを見やる。
子猫のようにびくびくと震えるケーナは、それでもなお声を上げた。
「ひ、一つだけ、ご質問が……っ」
「なんだ? 申してみよ。というか顔を上げなさい。人と話すときは目を見て話すように」
至極真っ当なダビデの主張に、ケーナはおそるおそると顔を上げた。
その表情はもう蒼白といってもいいほどの顔色の悪さではあったけれど、彼女は死地へ向かう騎士のように意を決した様子で口を開いた。
「じ、ジラルディエール公爵閣下の婚約者様は、ほ、ほんとうにシーキントン元伯爵夫人なのでしょうか……」
「なに?」
「ひぅっ!」
ケーナが喉を引きつらせた。
思わぬケーナの問いに眼光鋭く睨みつけてしまったエドモンを、ダビデがたしなめるように視線で制する。
「ケーナ。どうしてそんなことを聞く?」
「わ、私はシーキントン元伯爵夫人とお会いしたことがあります。し、社交界でも挨拶させて頂いたことも、あります。その、その時のお姿とは、ぜんぜん、ちがっていて……」
「彼女は間違いなくアリエル・シーキントン元伯爵夫人だ。疑うなど、馬鹿馬鹿しい」
「わ、私も、そう、思いたいですっ! で、でも皆、あれは、元伯爵夫人の皮を被った、魔女だと……っ」
「なんだと……?」
ケーナはとうとうエドモンの眼力に射止められ、失神した。




