軍神公爵のダンスレッスン
ダンスレッスンが始まって六日目。
三回目のダンスレッスンのこの日、エドモンは講師であるアリエルの顔色が少しだけ悪いような気がした。
エドモンはアリエルの顔色が悪いことを気にして、レッスンが始まる前にアリエルに声をかけた。けれどもアリエルはエドモンの心配をよそに、毅然と背筋を伸ばしたまま、ワインレッドの縁取りがされた眼鏡をくいっと持ち上げ、微笑を浮かべてなんでもないと言う。
「約束の日までもうすぐ一週間です。閣下もお忙しい身でしょうから、貴重なお時間を無為にはできません」
心配することはないと本人が主張するので、エドモンはアリエルの顔色をつぶさに観察しがらレッスンを受けた。
エドモンからみたアリエル・シーキントンという女性は、毅然と立ち、一本の百合の花のように、清楚で気高い女性だった。
少しのほつれもない茶髪のシニヨンも、トレードマークのようなワインレッドの縁取りがされた眼鏡も、彼女の生真面目さをよく体現している。
ふわふわして触れれば壊しかねない砂糖菓子のようなご令嬢や、エドモンにねっとりと絡みつくような秋波を送ってくる熟したご夫人方とは違う。そんな女性たちを避けてきたエドモンにとって、なんのてらいもなくまっすぐと見つめ返してくれるアリエルの空色の瞳は、吸い込まれそうなほどに美しく感じられた。
正直に言って、エドモンは女性経験がほとんどない。
十年前に婚約破棄を経験し、たとえ再び婚約しても、子供ができれば余計な王位争いを生み兼ねないと思い、それからは女性に見向きもしなかった。ただひたすら鍛練に打ち込み、国のため兄のため、国中のあちこちに湧き出る瘴気から生まれる魔獣を倒すことに専念してきた。
そのせいだろうか。ダンスレッスンのためにアリエルと手をつなぐと、その柔らかな繊手に少年のように胸が高鳴る。二十八にもなってこんな気持ちを人妻に持つとは、なんとも背徳的で、もっと言えば絶対に手に入らない目の前の女性に強く憧れていた。
特に今日のアリエルはなんだか気怠げで、空色の瞳が疲労のせいか伏せめがち。立ち振る舞いも、前回、前々回のような芯の強さはなくて、ひどくゆったりとしていて、重心がブレているようだった。
普通の人なら気づかないその変化も、軍人として鍛えられたエドモンは目ざとく気づいた。講師として鍛えているというアリエルのように、他人の体幹を見ることくらい、軍人の長であるエドモンにもできる。
腰を患っているのか、足を患っているのかは分からないけれど、歩き方におかしな力が入っているのは、エドモンもすぐに理解した。それでも本人が平気だと言うので、何も言わずにレッスンを受けていたけれど。
「いち、に、さん。いち、に、さん」
「……」
「だいぶ足運びがなめらかになってきましたね。この調子ならば、あと一週間で形になるでしょう」
「……」
前回、長時間のダンスレッスンでも、アリエルは息一つ乱すことなく、エドモンと対等にダンスを踊りきっていた。軍人として体力が人の倍はあることを自負しているエドモンだけれど、そのエドモンについてくるアリエルも、女性にしてはかなり体力がついているようだと気づいていた。
そのアリエルが、ダンスを数回踊っただけで息を乱している。上に立つ者として人を見る目を培ってきたエドモンには、それが異常である事が一目瞭然だった。
「シーキントン夫人。やはり体調が悪いように見受けられる。今日はここまでにしよう」
「いえ、平気です。これしきのこと」
「私のためにも休んでくれ。君が倒れないかと心配で、レッスンに集中できない」
食い下がろうとしたアリエルに、エドモンがきっぱりと言い切ると、アリエルはひどく申し訳無さそうに瞼を伏せた。
「自己管理もできない不甲斐なさで、申し訳ありません。以降、気をつけます」
「そうしてくれ」
「かしこまりました」
アリエルが食い下がるのをやめた。退出の言葉を述べ、綺麗にカーテシーをして部屋を出ようとする。
家令が扉を開けて、アリエルが廊下へ出ようとした瞬間、アリエルの足がかくんと崩れて、そのまま転倒しかけた。
「大丈夫か!」
「っ、だい、じょうぶです」
家令よりも素早く動き、咄嗟にアリエルの体を支えたエドモンに、彼女は震えながら礼を言う。
貧血だろうか。青ざめて、どう見ても大丈夫ではないその姿に、エドモンは眉をしかめた。切れ長のルビーの瞳が剣呑に輝く。
「部屋を用意させる。歩けないほどだと、馬車に乗るのもつらいだろう。伯爵家には遣いを出すから、少し休みなさい」
「い、いえ! それにはおよびません!」
頑なにエドモンの好意を拒もうとするアリエルに、エドモンはため息をつくと、眼鏡の向こうにある空色の瞳をじっと見つめた。
「お願いだから休んでくれ。意地を張ってくれるな。ここで無理をして、次のレッスンに影響が出ても困る」
「……承知、しました」
エドモンが淡々と説くように言いつのれば、アリエルは項垂れた。出会ってから常に毅然とした態度だった彼女のしおらしい姿に、エドモンはふっと笑みをこぼす。
凛として己の芯を真っ直ぐに持ち、頑なでも、こうしてきちんと説けば素直になるアリエルは、人として大変好ましい。エドモンは、こんな彼女の夫であるシーキントン伯爵が羨ましく思えた。
家令に部屋を用意させると、エドモンは自らアリエルを横抱きにし、用意させた客室へとアリエルを運んで、寝台へと横たえた。恐縮するばかりのアリエルをよそに、メイドにアリエルの世話を申しつけると、エドモンは客室を出て執務室に向かう。
体調を崩したアリエルの様子を見て、落ち着き次第伯爵家には帰らせる旨をしたためると、エドモンはシーキントン伯爵家へと使者を送らせた。
一筆したためた彼は、家令に文を預けて使者を立たせると、ふうと息をつく。
おそらくアリエルは、本調子に戻れば今日のレッスンの穴を埋めるべくどこかで追加のレッスンを希望するだろう。エドモンがダンスに自信を持てれば穴埋めも必要ではないけれど、未だどこか覚束ない自分のダンスを完璧にするには、レッスンを受けておいて損はない。となると、やはりダンス初日に決めていたダンスレッスンのスケジュールとは別でもう一日、時間を空けた方がいいと結論づけた。
そうなると、王立組織として所属する騎士団の仕事は削れないので、公爵としての仕事を前倒しでするしかない。領地経営の書類を家令に持ってこさせると、エドモンはさくさくと書類の束をさばき始めた。
「旦那様、よろしいでしょうか」
「なんだ?」
仕事を始めて四半刻ほどだろうか。
アリエルに付けていたはずのメイドが、執務室へと入ってきた。
戸惑ったような、躊躇うような面持ちのメイドに、エドモンは眉をひそめる。
「どうした。何かあったのか。シーキントン夫人の体調が悪化したのか? 体調が悪いようなら、うちの医師を呼んで、指示を仰げ」
「い、いえ……いいえ、医師を呼ぶべきとは思うのですが、その……」
煮えきらない態度のメイドに、エドモンがじっと話を促すように見据えると、メイドは意を決した様子で背筋を伸ばした。
「ご報告いたします。旦那様が部屋を出られたあと、シーキントン夫人はひどくお疲れのようでしたので、すぐにお眠りになりました。寝苦しそうにされていたので、髪をほどき、不躾ながら襟のボタンを外させていただいたのですが……その、痣が」
「痣?」
メイドの言葉に、エドモンは眉をしかめた。
痣とはなんとも不穏な言葉だ。もしかして彼女は何か大きな病でも患っていて、今回の体調不良よそれからくるものだったのかと思考を巡らせる。
けれど、メイドが続けた言葉には、さすがのエドモンも顔を強張らせた。
「見間違いかとも思いましたが……なんらかの病気のように首をぐるりと一周するように痣があるのです」
「何……?」
一瞬、メイドの言葉を疑った。けれど、メイドがたった一時のダンス講師の女性に対しておかしなことを言い出す理由もない。特に彼女とは長い付き合いで、今のメイド長の後継だ。ということは本当に偶然の発見で、心配ゆえの進言に違いなかった。
「持病があるとは聞いていないが……セルジオ、念の為に医師を呼べるように手配を」
「かしこまりました」
家令のセルジオに指示を飛ばし、メイドには引き続きアリエルの世話を頼んだ。
確かシーキントン伯爵はまだ領地にいると聞いている。アリエルが襟の高い服を着ていたのは初めて会った時からだったので、もしかしたらその時には既に痣があったのだろうか。シーキントン伯爵はこのことを知っているのだろうか。
シーキントン伯爵とは直接の面識はないけれど、穏やかで人当たりのいい好青年だと聞き及んでいる。アリエルは頑迷なところがあるので、そんな彼を心配させまいと痣のことを隠している可能性は高い気がした。
とりあえず急ぎで伯爵家に追加で使者を立てる。
それからさらに四半刻が経った頃、家令が訪問客の訪れを告げた。
「ジラルディエール公爵、お初にお目にかかります。私はチャールズ・シーキントンと申します。妻がどうやらご迷惑をおかけしたようで、馳せ参じました」
「わざわざご足労いただき感謝する。まだ領地にいると聞いていたのだが、王都に到着していたのか」
「お陰様で。とはいえ着いたばかりでして、まだ挨拶回りも何もできてはおらず」
噂のように温厚そうな青年が、倒れた奥方を気遣って迎えに来た。
シーキントン伯爵は茶色の髪に榛の瞳を持っていて、よく言って穏やか、悪く言えば平凡な男だった。そんな伯爵が少しだけ困ったような表情でエドモンに挨拶をする。
エドモンは挨拶をそこそこに、アリエルを寝かせた客室へと彼を案内した。
「夫人には大変世話になっている。今日も無理を押して私のレッスンに付き合わせてしまった。責任感の強いことは好ましいが、どうか貴方からも無茶をしないように言い含めてやってくれ」
「もちろんです。彼女は大切な人ですから」
「そうか」
噂に違わず、夫婦仲は円満そうだ。
愛されているらしいアリエルに、ちょっとだけ寂しさが胸の内をかすめたけれど、エドモンはその感情にそっと蓋をした。あまり喜ばれることではない感情は、隠してしまうほかない。
歩きながらシーキントン伯爵にアリエルが持病を持っていないかを聞いてみるけれど、彼は不思議そうに首を傾げて否と答えた。やっぱりと思ったエドモンがアリエルの状態をシーキントン伯爵に話すと、彼は不愉快そうに眉をしかめた。
なぜそんな顔をするのかと訝しげに思ったけれど、はたと思い直す。エドモンはメイドの話を元に話しをしたけれど、これではまるで彼自身が直接見聞きしたかのような状況の話だったかもしれない。それに気がついてエドモンはシーキントン伯爵に謝罪した。伯爵はやんわりと微笑んで謝罪を受け入れてくれた。
客室に着くと、アリエルの様子を見ていたメイドが応対に出た。
シーキントン伯爵を連れて、メイドが中へと入っていく。
さすがのエドモンも自分の家とはいえ、人妻の眠る部屋に入るような礼儀知らずなことはしない。
しばらくしてシーキントン伯爵がアリエルに腕を貸して部屋を出てきた。こうしてみると、シーキントン伯爵とアリエルの身長はそう変わらないように見えた。
「シーキントン夫人、お加減はどうだ」
「ありがとうございます。少し、よくなりました」
アリエルはぎこちなく微笑を返した。
まだ本調子ではないのだろうか、客室に寝かせた時よりも顔色が悪いような気がする。
「無理はするな。私のことは気にしなくてもいい。本調子に戻らないようならば、今後のレッスンはキャンセルしてもらって構わない」
「いえ、大丈夫です。一時的なことですから。閣下にご迷惑おかけすることはできません」
「そうか。ならばまた、二日後に。シーキントン伯爵、まだしばし奥方を借りることになると思うが、許してほしい」
「いえ、妻がお役に立てるのでしたら喜んで」
穏やかに微笑んだシーキントン伯爵が、アリエルの腕を引いて、公爵家を後にする。
エドモンは馬車に乗ったシーキントン夫妻を玄関ポーチで見送った。
馬車に乗り込む時の、アリエルの後悔したかのような表情が、エドモンの目にひどく焼きついていた。