あなたといる空気が好き
本格的な寒波が王都を襲い、雪がちらちらと降りつもる。
真っ白な白化粧の街並みや、ほっそりとした枯れ木の街路樹、うっすらと馬車の轍が遺された石畳。すっかりと冬の精霊の息吹に凍てつく日々の中、アリエルはジラルディエール公爵邸であてがわれた客室の窓から、そっと外の景色を伺った。白い吐息が窓を少しだけ曇らせる。
王都に来て数日後には、毎日のように見舞いに通うアリエルを見かねて、エドモンは屋敷に泊まらないかと誘った。数日ならともかく、一冬ともなるとアリエルは硬く遠慮したけれど、寒さに冷え切る彼女の身体を慮ったエドモンは半ば押し切る形で、彼女をジラルディエール邸へと留めた。
アリエルは白く曇る窓を、ドレスの袖で擦る。
黄金の麦穂色をした髪はジラルディエール邸のメイドたちによって丁寧な手入れをされて、ますます美しく輝いた。子爵領でこしらえた荒れた肌だって、良質のオイルを塗り込まれて潤いと張りがある。空色の瞳はその奥の七色の虹彩がくっきりと見えるほどだ。
気のせいだとよいのだけれど、だんだんとこの虹彩の色が増している気がした。
いつからと言われたら、たぶんスピナと出会ってからか、はたまたアモフィックスを聖獣に変えた時か。これまで気にはしていなかったけれど、エドモンと同じひとつ屋根の下で長く過ごし始めて、鏡越しの自分に違和感を覚えるくらいには虹彩の色が鮮やかに浮かび上がってきているように見える。
アリエルはため息をついた。
心に差す影はきっと、エドモンが婚約と引き換えになかったことにしてくれた聖女の話。
この色の増す虹彩が何かの符牒ではないことを切に願う。
「お嬢様。そろそろ公爵閣下の元に参りますか?」
「そうね、行きましょうか」
くぅん、とスピナが寄ってくる。アリエルは小さな聖獣を抱き上げた。
公爵邸での細々としたアリエルの身の回りの世話はクララがしてくれるし、スピナも一緒だ。長期滞在になるので気心の知れる者を連れてくるといいといった、エドモンの優しいはからいだった。
アリエルが甘えるスピナをあやすのを横目に、彼女の髪を結った櫛や取りだされていたリボン、化粧品の類を、クララが化粧箱にしまっていく。
「このお化粧箱もそろそろ買い替えたほうがよろしいかもしれませんね」
「そうかしら。まだ使えるわよ」
「伯爵家への花嫁道具として誂えたものですよ。縁起が悪いです」
クララが目元を険しくさせてぼやくので、アリエルは苦笑して窓から離れた。子爵家で使うには不要と思って伯爵家に持ち込んだ花嫁道具の幾つかは売ってしまったけれど、化粧箱などは日頃から使っていたものだったのでそのままだった。
縁起が悪いというクララの言葉も一理ある。別の人の元に嫁ぐのであれば、これも処分した方が良いのかしら。でも公爵家に嫁ぐのに相応しい家財を一式揃えるには、コールソン子爵家では少々身の丈を越えている。
「物入りになるわね」
「大丈夫ですよ。お嬢様の蓄えならある程度揃えられますし、身分の差を埋めるべく、公爵閣下からもある程度の助成の申し出が来てますから。公爵夫人に相応しい良いものを沢山ご用意しましょう!」
さっきまでむっとしていたのに、手のひらを返したようにうきうきとし出したクララに、アリエルは微笑んだ。
クララは自分の主人であるアリエルを着飾るのが好きだった。今まで元夫のせいで地味にしていたのもそうだし、領地で駆け回れるように村娘の姿をしていたアリエルの、女性らしい魅力を引き出すのが楽しくてたまらないらしい。
今日もそんなクララによって、アリエルは綺麗に仕立てられていた。
麦穂色の髪はシルバーの細いリボンと共に複雑に編み込まれていて、まるで古樹に絡む銀の蔓のよう。薄らと水面に張る氷を連想させる薄氷色のドレスには、さりげなく刺繍がほどこされていて上品だ。
クララは満足そうに着飾ったアリエルを見た。そして用意してあった籘の籠をアリエルへと差し出す。
「さぁ、お嬢様。未来の旦那様と仲を深めてきてくださいませ」
「もう、クララったら」
アリエルの頬がじんわりと赤く染まる。
クララがスピナを引き取ると、とってもいい笑顔でアリエルを送り出した。
アリエルがエドモンのいる書斎へと入ると、彼は器用に左手で書類をさばきながら決裁の印を押していた。
「おはようございます。お早いですね」
「おはよう、アリエル。書類くらいは騎士団の方もやっておかないと滞るからな。冬は突発的な魔獣討伐の依頼はないから、随分と気が楽な方だ」
エドモンの傷も随分と癒えてきた。
剣は振れないし、まだ杖は手放せないけれど、絶対安静の寝たきりというのはなくなった。勝手知ったる公爵邸で日常生活を送るぶんには支障はなくなり、今日から仕事が解禁になった。
エドモンを看ていたシャルロットも、もういいでしょうと言って、昨日隣国へと帰っていった。雪もちらついていたので無事に帰れるのか気がかりだったけれど、シャルロットは道中の湯治場に泊まれる口実ができたわと笑っていた。
アリエルはエドモンに促され、書斎の隅に置かれたソファへと腰を下ろす。ベロア生地のボルドーのソファは座り心地が抜群だ。浅く腰かけたはずなのにアリエルの背中を支えられるよう、同じ生地のクッションが幾つも背もたれに置かれている。背筋をピンと伸ばして籠を膝の上に降ろすと、エドモンが楽しそうに目元を細めて微笑んだ。
「座り心地は大丈夫か? 貴女のためにクッションを増やさせたんだ」
アリエルは目を瞬く。
「私のために、ですか?」
「そうだ。貴女の姿勢は美しいけれど、私といるときくらいはリラックスしてほしい。遠慮なくもたれてやってくれ」
アリエルは背中のクッションを見た。椅子に深くもたれるのはだらしなく見える。だから美しい姿勢をキープするには背もたれから拳一つ分を開けるくらいがちょうどよく、アリエルは染みついた習慣から無意識にその姿勢をキープしていた。
「ええと……ありがとうございます?」
「ああ」
エドモンがくつくつと喉の奥を鳴らして笑った。何だか楽しそうな様子のエドモンにアリエルは首を傾げると、彼は穏やかに微笑んだ。
「寛いでほしい。貴女といる空気が好きなんだ。私は仕事にしばらく集中するが、貴女も好きに過ごすといい。……今日まで話相手ばかりさせて、貴女の手を止めてしまっていたからな」
エドモンの言葉に、アリエルも微笑む。
アリエルもエドモンといる空気が好きだ。穏やかで、ゆったりと時間が流れていくのが好きだ。ぽつぽつと話しをして、目が合うと微笑んで、ただそれだけの時間が愛おしい。
エドモンは不思議と包容力のある男性だった。
前の夫といると常に顔色ばかりを伺って、周囲に被害が及ばないことだけを考えていた。夫といることが苦痛だった。だけどエドモンは見た目こそ質実剛健でたくましいけれど、まとう空気は柔らかくて、いつまでも一緒にいたいと思っていしまう。
アリエルは気遣ってくれるエドモンに微笑みかけると、籐の籠から編みかけのショールを丁寧に取り出した。
「もうすぐできますよ。できたら肩へとお掛けしてもよろしいですか?」
「もちろんだ。楽しみにしていよう」
エドモンは笑い、やりかけの書類へと視線を戻した。
アリエルも穏やかな気持ちでかぎ針を持つと、羊毛の毛糸を器用に編み始める。
暖炉の火がパチパチと爆ぜる冬の書斎は、心地いい温かさに包まれる。
エドモンの書類を捲る音や、ペンが紙を掻く音。アリエルのかぎ針が時折かちりとぶつかる音。
お互いが干渉しすぎない。それでも存在を感じられる距離感というのは、とても安心ができて落ち着く。
アリエルもエドモンも、お互いに真面目なところがあるのは似た者同士なのかもしれない。コツコツとそれぞれのやるべきことを進めていると、あっという間に時間は過ぎ去っていく。
気がつくと羊毛のショールは最後のひと編みを終えて、アリエルは自然と頬をゆるめた。入念にほつれやおかしなところがないかを確認する。丁寧に仕上がって満足だ。かぎ針をそっと籠へと戻し、立ち上がる。
ふわっと動いた空気にエドモンが気がついて、視線を上げた。ルビーの瞳と視線が合う。アリエルは空色の瞳を嬉しそうに細めた。
「エドモン様、お肩をお借りしてもよろしいでしょうか」
「できたのか?」
「はい。念のため、丈の確認だけさせてくださいませ」
「もちろん」
エドモンがペンを置いて、姿勢をただした。
アリエルは出来上がったばかりのショールを手にエドモンの背後に回ると、そっとその広い背中へとショールを優しくかけた。
ワインレッドのショールがエドモンの背へとかけられる。銀灰色で浮かび上がる模様は、コールソン子爵領の伝統文様だ。牛や羊、山羊が、人と共に高原で穏やかに過ごす様子を象ったもので、アリエルはそこに描く動物を少しだけ変えていた。
「丁寧な編み目だ。それに暖かい。貴女の温もりが伝わるよ」
「大げさです」
「そんなことはない。……ん? この模様は」
エドモンがショールの模様に気がつく。ショールの両端に描かれた動物に目が止まったようで、目を丸くした。
「もしかしてアモフィックスとスピナだろうか?」
気がついてもらえたアリエルはますます表情を綻ばせる。
「はい。エドモン様のために編むならと思って」
「器用だな」
しみじみとつぶやいたエドモンの頬も、自然とゆるんでいた。
「丈はこれくらいで良さそうでしょうか」
アリエルがショールを肩にかけたエドモンの全身を眺めて、確認する。エドモンは大きくうなずいた。
「問題ない。ありがとう」
「私がしたくてしたことですから」
「私もお礼が言いたくて言っているんだ。貴女が私のためだけに編んでくれたのだと、強く伝わる。本当は抱きしめたいくらいなんだが」
残念ながら、エドモンの腕は骨折が完全に癒えていないので首から布で吊り下げられている。抱きしめられないとぼやくエドモンに、アリエルはくすくすと笑う。
「お怪我が治られましたら、お願いいたしますね」
「言ったな。私は本当に貴女を抱きしめるぞ?」
「婚約しているのですから、ハグくらいは大丈夫ですよ」
くすぐったそうに笑ったアリエルに、エドモンはすっと真顔になる。
「なら、今すぐ貴女に抱きしめられたいと言っても?」
アリエルは目を瞬く。
今一瞬、エドモンがなんて言ったのか聞き取れなかった。
よくよく反芻し、その意味を理解して。
「っ」
ぽふっ、と。
頬どころか、全身が茹だったように熱を持つ。
アリエルはそろそろとエドモンから視線を外すと、エドモンはくつくつと喉の奥を鳴らして笑った。
「冗談だ。そんなに赤くならないでほしい」
「あ、赤くなんて」
「鏡がないのが残念だな」
どうやら、からかわれていただけらしい。
アリエルはぽっぽっと熱くなった体を冷ますように、頬へと手をやった。ひんやりした自分の指が頬の熱で温まると、ちょっとだけ悪戯心が生まれてくる。
最初にからかったのはエドモンだ。
だからこのくらいは、許されるでしょう?
「……婚約者ですから」
小さな声で、正面から、アリエルは背中をかがめるようにして、椅子に座ったままのエドモンを軽く抱きしめる。
苦くて甘い、ジュニパーの香り。
エドモンが身じろぐ。
彼の体温が、服越しに伝わる。
「恥ずかしいので、誰もいない時だけですよ?」
そっと身を離して照れ笑いを浮かべると、エドモンが顔面を覆って天を仰いでしまった。