子爵令嬢の苦手なもの
翌日、改めてアリエルはジラルディエール公爵邸を訪れた。
王都の冬はコールソン子爵領とは違い、雪で身動きが取れなくなるということはない。ドレスの上に温かい外套を着込み、編みかけのショールを籠に入れてやってきたアリエルを出迎えたのは、前日に顔をちらりと合わせた女性だった。
「ねぇ、これはアリエルが持ってきたって本当?」
「は、はい」
「はぁ、いいわねぇ。これはいいわ!」
いいわ、いいわ、とひとしきり繰り返しているのは、長い赤髪を縄のように編んだシャルロットだ。今日も元気に白衣をひらめかせている。
そのシャルロットの隣でユリウスがにこにこと笑っていた。
「これも貴女の領地の特産?」
「はい。……とはいってもここ一年ほどで新しく出回り始めたレシピですから、まだ知名度はそれほどありません」
「そうなのねぇ。これなら滋養も尽くし、いいチョイスだわ! でもワインが飲みたくなるわねぇ」
アリエルが昨日持ってきたお土産は、香草たっぷりの腸詰め肉とチーズだった。腸詰めには香草だけではなく薬草も練り込まれて精がつくし、チーズも少量をリゾットなどにすれば胃に負担をかけることなく美味しくいただける。病人で胃が弱ってるわけではないエドモンにはありがたいお土産なのだけれど。
エドモンの寝室にテーブルと椅子を運び込み、おしゃべりをしながら、シャルロットがまた一つ、ピックに刺さった腸詰め肉に手を伸ばす。エドモンがじろりとシャルロットを睨みつけた。
「シャルロット……これはアリエルが私のためにと持ってきたものだぞ」
「こんなに美味しいもの、独り占めする気? 少しくらいいいじゃないの」
「エドモン様、足りなかったらまた領地から取り寄せますし、腸詰めのレシピは私も知ってますから」
「えっ、貴女、腸詰めを作れるの!?」
シャルロットが驚いたと言わんばかりに目を見開く。そんなシャルロットを、隣りに座っていた夫のユリウスがよしよしと頭を撫でた。アリエルはそんな二人の距離感になんとも言えない気持ちになりながら「はい」とうなずく。
「この香草と薬草のレシピを考案したのは私とマテュー……うちの庭師ですから」
「えっ? 庭師?」
「はい」
マテューはこういったハーブに精通していて、よくヘアオイルや石鹸とかを作ってくれている。これもその延長線で、領地の特産を増やしたいと考えていたときに「それならー」とマテューが香草と一緒に薬効効果の高いハーブを練り込むのはどうかと教えてくれたのだ。……庭に植えられたハーブの間引きをしながら。
そこから試行錯誤したものの、美味しくて滋養効果の高い腸詰めのレシピができて、一時期子爵家ではこの腸詰めレシピが流行ったくらいだった。
「貴女は本当になんでもするな。苦手なことはないのか?」
「苦手なこと、ですか?」
エドモンに何気なく尋ねられて、アリエルは目を瞬く。
それから視線を泳がせて、少しだけ視線を下へと落とした。
その反応に、シャルロットがにんまりと笑う。
「何かありそうね?」
「あの……ええと」
「ふふ、言いにくいことかしら? 私達がお邪魔ならそっと彼に耳打ちするとかでもいいのよ?」
しれっとこのまま寝室でお茶会もどきを続ける気満々なシャルロットに、エドモンがむっとする。
「そこは気を遣って出ていけ。何度も言うが、いつまでうちに居座るつもりなんだ」
「貴方の怪我が癒えるまでって言ってるじゃない」
「そんなこと言ったら春になるぞ……」
げんなりと言ったエドモンに、シャルロットは飄々と言い切る。
「貴方ねぇ。かるーく考えているでしょうけど、貴方の怪我って相当なものよ? 瘴気の中に右半身全部突っ込んでおいて、ここまで回復したのは誰のおかげだと思っているの?」
「エドモン様……?」
シャルロットの言葉に、アリエルは瞠目した。信じられない思いでエドモンを見やれば、彼はばつが悪そうに眉をひそめている。
「おい、シャルロット」
「アリエルからも言ってあげてくれないかしら。彼の怪我、私が瘴気治療法に特化してなかったら今頃死んでいたのかもしれないのよ?」
シャルロットの曝露にエドモンが慌てた。シャルロットの口を止めようとベッドから身を乗り出そうとするけれど、彼女から視線を一つ投げかけられたユリウスが、心得たかのようにエドモンをやんわりと遮る。
エドモンが鋭い眼光でユリウスを睨みつけたけれど、彼はにこやかな笑みを浮かべたままだった。
「シャルロット様、エドモン様はどうしてそんな危険なことに」
「うちの愚図をかばったせいですよ」
柔らかな声音でありながらも、棘を含むような台詞を吐いたのはユリウスだ。相変わらず笑顔を浮かべているけらど、シャルロットがその言い方をたしなめるようにユリウス、と呼ぶ。
ユリウスはたしなめられたものの、顔色一つ変えやしない。
「本当のことです。うちの騎士が魔獣に瘴気地帯へと追い込まれたのを庇ったのは事実ですし、大型魔獣の突進力に耐えきれずにジラルディエール閣下がふっ飛ばされたのも事実です」
アリエルの表情が曇る。けれどエドモンと視線が交わって、彼も困ったような表情をしているのを見てしまえば、アリエルが何かを言うこともできなくて。
本当は危ないことをしてほしくない。怪我をしないでほしい。けれどそれは、騎士であるエドモンを否定することになると気づいているアリエルは、微笑んだ。
「どうか無茶はしないでください。御身に何かあれば、私はこうして心配するのだということを、忘れないで」
約束はしない。約束したところで、エドモンの身体はアリエル一人のものではないのだから、また同じようなことはあり得るだろう。
何よりアリエルの脳裏には、アモフィックスに立ち向かっていくエドモンの姿が焼きついていた。あの雄々しい姿こそ、彼の本来の姿なのだと思う。だからこそ、アリエルの我がままで彼を煩わせたくなかった。
せめてもの思いでその気持ちを伝えれば、エドモンがぐっと言葉をつまらせる。
「……肝に銘じておこう」
神妙にうなずいたエドモンに、アリエルは困ったように眉を下げた。
「もちろん、一番は国の民のためとは存じております。やむを得ない場合もあるでしょう。そうしてまたお怪我されたら……何度でも私は看病に参ります。ですから、どうか今回のように隠されるようなことだけは、しないでくださいませ」
「分かった」
しっかりと頷いたエドモンが、それでもなお、不安げに表情を揺らすアリエルに微笑みかける。
「貴女を心配させてしまったのは十分に反省したよ。私は君の夫になるのだから、妻である君の気持ちにも応えたい。もう、無茶はしない」
エドモンはそのルビーの瞳を細め、ゆるりと口元をゆるめた。アリエルに寄り添ってくれるような優しい微笑が、胸の奥にくすぶっていた不安を少しずつ溶かしてくれる。
アリエルの表情がゆとりを思い出したかのように緩んだ。春の陽気のように柔らかな雰囲気をまとい始めたアリエルとエドモンの二人の周囲に、シャルロットがパタパタと手を振って風を送る。
「やだやだ、あの軍神公爵がこうもデレデレしているなんて。アリエルったらすごいわ」
「僕も可愛いお嫁さまにいつもメロメロだからね。気持ちがわかるな」
「ユリウスは自重して」
アリエルとエドモンの初々しいやりとりにあてられたシャルロットがぼやくようにつぶやけば、ユリウスが何に張り合おうとしたのかシャルロットの頬にキスをする。この空間一帯に、シロップの瓶詰めになってしまったような甘さが漂った。
「話を戻そうか。貴方の苦手なものを教えてほしい」
こほん、とエドモンが咳払いする。アリエルもさりげなくシャルロットやユリウスから視線をそらした。シャルロットやユリウスのような鴛鴦夫婦になる道は、二人にはまだ遠い。
「あまり披露する機会がないので話すほどでもありませんが……一つだけ、苦手なものがありますよ」
「そうか。聞いても?」
エドモンの追及に、それまで控えめだった様子のアリエルはすっと姿勢をただした。
「お恥ずかしながら……水遊びが苦手でして。泳ぐのはもちろんですけれど、さすがに人前で服を脱ぐということ自体が、どうしても抵抗がありまして」
「待て、素肌を見せ……!?」
アリエルの真面目な表情での告白に、声がひっくり返ったのはエドモンの方だった。急に挙動不審になり、顔を赤くし、絶句している。
さすがにはしたない女性だと思われたのだろうか。
とはいえ、苦手なことを話しているだけなので、もう少しだけ弁明をしておく。エドモンが顔を赤くして怒り狂う要素はないのだと、諭すように言葉を繋げた。
「孤児院の子供たちに誘われるのです。ですが私は子供たちに混ざれないので、いつもは監督役として川辺の荷物番ですよ」
「そ、そうか……」
ちょっとまだ不自然な話し方だ。それでも二度ほど咳払いしたエドモンは、真面目な顔つきになると、微妙にアリエルから視線をそらしながら彼女に言い含める。
「子供の前とはいえ、外で肌を見せるのはあまりよろしくないからな……に、苦手なままでいいと思う」
「はい」
アリエルもエドモンの意見に全面的に賛成だ。なのでアリエルがこの苦手を克服することは一生ないと思う。
エドモンを動揺させたアリエルに、ようやくユリウスの魔の手から逃れたらしいシャルロットが冷やかした。
「すごいわ、アリエル。この鉄面皮を百面相させるなんて」
「おい、どういう意味だ」
「そのままの通りよ。いっつもしかめっ面している貴方が表情をこうもころころ変えるだけで、彼女が得難い人物だってことが伝わるって言ってるの。アリエル、愛されてるわねぇ」
愛、という言葉にアリエルの頬が熟れた。恥ずかしげに空色の瞳を伏せた彼女に、シャルロットが楽しそうに言葉を重ねていく。少女のように照れるアリエルをちょいちょいとつつくだけじゃなくて、エドモンに対しても含みを持たせているのは当然、わざとだ。
「貴女も満更でもなさそうね。ところで気になるのだけれど、婚約するにあたって、アリエルはこの筋肉達磨の握力とかって気にならないのかしら?」
「シャルロット!」
「真面目な話、閨で抱きしめられたら圧死しそうじゃない? この筋肉」
エドモンの静止も振り切ってあけすけなことを言うシャルロットに、アリエルの頬がますます紅潮する。頬どころか全身が火照って熱いくらい。
臥せ目がちにアリエルはエドモンを見た。シャルロットの言うとおり、エドモンは体格がとてもいい。それを恐ろしいと思う人が少なくないというのは、社交界では公然の秘密のようなものだった。
でも、アリエルはそんなこと、思ったことなんてなくて。
「……エドモン様のお体が逞しいのは、騎士としての証だと思いますから。その腕で助けられた身としては、とても安心できるものですよ」
アリエルが照れを交えたままやんわりとその胸中を語れば、エドモンが撃沈した。
エドモンは寝台の上でシーツごと膝を抱えて顔を伏せている。シャルロットはそれを見てにんまりと笑い、ユリウスはそんなシャルロットの赤毛頭を嬉しそうに笑顔で撫でた。
「素晴らしい嫁を貰えそうでよかったわね?」
「……」
シャルロットのからかいにアリエルの頬が更に色づく。恥ずかしくてエドモンの方を見れずにうつむけば、そのアリエルの見えないところで、彼は小さく頷いた。