秋晴れの墓前
秋のコールソン子爵領は蓄えの季節だ。
小麦の種まきを始め、牛たちの飼料の最後の収穫をする。
去年のように、アリエルは今年も領民たちのお手伝いに回った。来年にはまた領地を出てしまうのを思うと、ついつい張りきって領地を駆け巡ってしまった。
コールソン子爵領の領民は嬉しいことに、アリエルに親しみを持ってくれている。自分の牧場や畑に来てほしくて手招きしてくれる。アリエルも人に頼られることが嬉しいからついつい予定を詰め込みがちになってしまったけれど、ようやく丸一日、ぽっかりと何も予定のない日を迎えた。
エドモンとの初めてのデートからしばらく経ってしまったけれど、アリエルは彼に宣言したことを忘れてはいなかった。
「お嬢様、こちらです」
秋晴れの空の下、クララの案内で、墓守から教えてもらったシーキントン伯爵家の墓の前へと歩み寄る。そのアリエルの足元を、スピナが鳥の羽のような耳をパタパタさせ、ぴょこぴょこ跳ねながらついてきた。
アリエルが足を止めた墓前に刻まれているのは、ニコラ・シーキントンの名前。
十年前に失くなった、子供の名前だった。
「久しぶりね、ニコラ」
涼やかな風が吹く。アリエルの黄金の麦穂の色をした髪が風になびく。クララはアリエルから少し離れたところでスピナを抱き上げ、その様子を見守ってくれた。
「本当は春に来るべきなのかもしれないわね。この季節では貴方に手向ける花が少なくて、寂しいわ」
墓前の前には萎れた花が供えられている。数日前に誰かが訪れたらしい。
既に供えられていた花と同じように青色の竜胆を供えて、アリエルは墓前に死者への祈りを捧げた。
「……聞いて頂戴、ニコラ。私、再婚するの。チャールズとは、終わっちゃったわ」
祈りを捧げたアリエルは、墓前の前でしゃがみこんだまま、穏やかに微笑んだ。
「貴方の代わりにシーキントン伯爵家を支えようと頑張ったけれど、駄目だったの。私、チャールズにとって良い奥さんにはなれなかった」
目の前の墓石は何も反応を返してはくれない。当たり前だけれど、でもアリエルは一人で話しかけ続ける。
「貴方が遺したものを私が背負わなくちゃって思っていたの。でも、違ったのね。私が全て背負おうとしたせいで、私もチャールズも成長できなかった。……大人に、なれてなかったの」
アリエルとチャールズの関係は、初めからガタガタだった。形だけでもと整えようとして、夫を様付けで呼びかけ、伯爵夫人としての振る舞いを完璧にした。夫が潰れる前にアリエルがその仕事をすべて肩代わりした。
でもそれは、二人の距離を縮めることはなくて、溝を深めるばかりだったと気がついたのは、終わってしまってからだった。
「私、貴方に顔向けできないと思っていたわ。だってこんな不甲斐ない私じゃ、貴方に報えないと……でもね、そうじゃなかったのね。こうして後ろ向きになっていることこそ良くないことだと、諭してくださった方がいたの」
そよそよと前髪と横髪が、風に煽られて揺らぐ。
チャールズに言われるまま、髪色を染めていたあの頃。
あの頃に、もっときちんと、チャールズと向き合えていたら。
「その人に言われたわ。貴方の勇気を尊ぶようにと。囚われすぎるなと」
アリエルは風で煽がれていた横髪を手櫛でなおす。
微笑んで、立ち上がった。
「ありがとう、ニコラ。私達を助けてくれて。貴方の勇気に、心からの感謝を」
背筋を凛と伸ばし、優雅に指先とつま先を捌いて、腰を落とす。
美しいカーテシーは、アリエルがニコラへ贈る気持ちだ。
「私は前に進みます。もう偽らない。後悔のないように生きたいの。貴方は応援してくれるかしら」
ひときわ強い、秋の風が吹く。
アリエルの麦穂色の髪を煽り、ドレスの裾を巻き上げ、落ち葉が舞う。
墓石は相変わらずだんまりだ。でもそれでいい。自分の気持ちに区切りをつけたかっただけだから。
アリエルは微笑みながら墓前を去ろうと踵を返す。
不意に聞こえた。
「……君は馬鹿だな」
よく知る声に驚いて、アリエルは声がかけられた方を見た。
クララがスピナを抱いたまま、威嚇するようにそちらを睨んでいる。
声の主を見れば、彼は居心地が悪そうにアリエルから視線をそらした。
「チャールズ……様」
「いいよ、もう。昔のようにチャールズで。敬語もいらない。君にそうされる理由は、もうない」
アリエルと同じように墓前の花を供えに来たのか、チャールズの手には小さな花束があった。
「貴方もニコラに?」
「……悪いかい? 仮にも兄だ」
「悪くないわ。……でも、意外だったから」
「僕だって驚いているよ。似合わないことをしてる自覚はある」
ぶすっと憮然とした表情でチャールズが言う。
彼がニコラの墓の前まで近づこうとしたのをクララが遮ろうとしたので、アリエルはそれを視線だけで制した。クララは信用ができないとでも言いたげに、チャールズを睨みつけている。
「……僕は謝らないからな」
「え?」
チャールズが墓前にまで歩み出て、花を供えた。
祈りの手を組み、しばらくしてぽそりと聞こえた言葉に、アリエルは聞き返す。
自分に向けられた言葉だったのか判断がつかなくて、チャールズの背中を見つめた。
「……君に酷いことをしたとは思ってる。単なる八つ当たりだったのも認める。だけどそれを、僕は謝らない」
「っ、なんですって……!?」
「クララっ」
クララが怒りをにじませて、低い声で唸った。それに気づいたアリエルが慌てて彼女に呼びかける。クララに抱かれていたスピナがじたばたと暴れて、腸が煮えくり返るような状態のクララに抱かれるのを嫌がった。
「……謝ったら、君はそれを許してしまうだろう。それじゃ、駄目だ」
そんなクララのことなどつゆ知らず、チャールズが祈るのをやめた。その視線はニコラの墓石を見つめたままだ。
「僕は君が気に食わなかった。勝手に僕の婚約者になるし、男の僕より要領が良くて、仕事もできて……本当に嫌な女だった」
改めてチャールズが自分をどう思っていたのかがわかって、アリエルは視線を落とした。わかってはいたけれど、改めて言われると堪えるものだなと心の中に苦い思いが湧き出てくる。
「だけど、君に守られていたってことはよく分かったよ。ミクリに裏切られて、使用人に追い詰められて……そんな中、君だけが相変わらず僕と息子のことを守ろうとしてくれた。……君、馬鹿にもほどがあるだろう」
はぁ、と深いチャールズのため息が聞こえて、アリエルが視線を上げれば、ちょうどチャールズは立ち上がるところだった。
「このお人好し」
「それは、褒め言葉かしら」
「本当におめでたいやつだな、君は」
罵倒しているような、されていないような、よくわからないチャールズの言葉の意図を汲み取るのは難解だ。これまでもチャールズときちんとした意思疎通がはかれていたとは決して言えなかったアリエルなので、余計に戸惑ってしまう。
そんなアリエルを振り返り、チャールズはその榛の瞳に穏やかな色を浮かべていた。
「謝らないけれど、感謝はしている。一人遺されるかもしれなかった息子のことを思って、ようやく君の優しさを素直に受け止められたよ。十年かかったなんて、兄上に怒られそうだけどさ」
チャールズの表情は、まるで一皮むけたようにスッキリとしていた。それでも疲れたような目元の隈は明るい太陽のもとではよく目立ったし、心なしか着ている服もどこかよれている。
一気に老け込んだようにも見える彼に、アリエルは心配になった。
「チャールズ、貴方、ちゃんと寝ている? 食事食べれている?」
「……本当、君のそういうところは嫌いだ」
「申し訳ありませ―――」
条件反射だった。
謝ろうとしたアリエルの前に手を差し出し、その言葉を止めさせる。
「君が謝るのはおかしいだろ。そういうところ、治したほうがいい……ああ、いや、僕がそうさせてきたのか」
小言を言おうとしたチャールズが、バツが悪そうに視線をそらして嘆息した。アリエルがどう受け止めればいいのかわからずに目を瞬かせていると、チャールズは頭を振った。
「まったく、君がここに来るって知っているならここに来なかったのに。誤算だった。僕はもう二度とここに来ないよ」
「え、どうして」
「君との接近禁止命令、君が出したんだろう? 僕の領地とはいえ、ここが君の行動範囲なら、僕は二度と来ないさ」
チャールズに言われて思い出した。確かに自分はチャールズと二度と関わらないことを条件に過去のことを水に流したのだった。
あの件以来、何も音沙汰がなかったけれど、チャールズにはきちんと通達がされていたらしい。
「チャールズ、待って頂戴」
立ち去ろうとしたチャールズを慌てて引き止める。
チャールズは胡乱げな目つきでアリエルを見た。
「なんだい? 僕の顔なんて見たくないんだろう?」
「そうはいってないわ。ニコラの墓参りは、私の方こそもうこない。もうシーキントン家とは完全に縁を切るつもりでここに来たから」
「……そう。好きにするといいよ」
「ええ。だから、チャールズはニコラのお墓参り、ちゃんとしてあげてね」
アリエルの言葉にチャールズは肩をすくめた。
「……僕がしていいならね」
「もちろんよ。だってニコラの家族は貴方でしょう?」
アリエルの言葉に、チャールズが呆れたような顔になる。
「君は本当に人が良すぎる」
「そうかしら」
「そうだよ。……こんな馬鹿に八つ当たりしてた僕は屑だけど」
ぼそりと付け足された言葉はアリエルの耳には遠くて聞こえなかった。だけどそのチャールズの姿に哀愁が漂っていて、なんとなく、ほうっておけなくなる。
「ねぇ、チャールズ。私にできることはあるかしら?」
「君、懲りてないだろ」
うんざりしたようにチャールズはそう言って、歩き出してしまった。
アリエルがその背中に更に言葉をかけるより早く、背中越しにチャールズが声をはる。
「君は!」
アリエルの肩がびくりと震えた。
クララの目がいっそう据わる。
スピナがくてんと首を傾げた。
そしてチャールズは。
「君は、自由だ」
それだけ言い残すと、足早に去っていってしまった。
取り残されたアリエルたちは、去っていくチャールズの背を黙って見送る。
アリエルがゆっくりと瞬いてからクララを見ると、クララはメイドにあるまじきぶすくれた表情をしていた。
「クララ? お顔がとんでもないことになっているわ?」
「むしろならないでって言う方が難しいです。何様なんですかあの方は!! 全然反省していないのではありませんか!? お嬢様をあんなに罵倒して……!!」
クララはどうやらチャールズの言動が気に入らなかったらしい。確かに表面だけ見れば、チャールズの心根は変わってないように見えるだろう。だけどアリエルはチャールズがずいぶんと変わっていたことにちゃんと気づいていた。
『君は、自由だ』
最後の言葉は、アリエルとチャールズの訣別だ。
アリエルを縛り続けていたシーキントン伯爵家からの本当の解放だとも言える。
チャールズはずいぶんと天邪鬼な人間だった。それを理解できる人はほとんどいなくて、ひねくれて、アリエルのことも負担になっていた。
でもそれももう、おしまい。
感謝しながらも謝罪はしないと言い切ったチャールズは、これから一生自分と向き合い続けることになるだろう。自分がしたことを振り返り、自分の身に起きたことを振り返り、彼はそうして一生を費やしていく。
「ねぇ、クララ」
「なんですか、お嬢様」
未だ憤慨しているクララから、スピナを受け取る。スピナはようやく解放されたと言わんばかりに「くぅん……」とアリエルの胸に埋もれるようにして甘えてきた。
「私、チャールズが羨ましかったの」
「はいいい?」
クララが耳を疑うとでも言わんばかりに素っ頓狂な声を出す。アリエルは眩しそうにチャールズの去っていった方を見つめると、淡く微笑んだ。
「私と結婚しても、ミクリさんを諦めなかった。幼い頃からの恋心を大切にして……結果は喜ばれるものではなかったけれど、彼の一途さは本当に羨ましかったのよ」
私もああいうふうに愛されたかったし、誰かを愛したかった。
羨ましいと囁くアリエルに、クララはなんとも言えない気持ちになる。
またひときわ冷たい、秋の風が吹く。そろそろ冷えてきたから帰りましょうとアリエルが囁くと、クララも頷いた。
スピナを降ろし、歩き出すアリエル。彼女の足元を、行きと同様ちょろちょろ歩いている。
そんな主人の背中へ、クララが意を決したように声をかけた。
「……お嬢様も、やり直せます」
「クララ?」
「お嬢様だって幸せになれます。幸せになるって決められたんでしょう。私に言ってくれた言葉は忘れないですし、私も自分で宣言した言葉は忘れません」
あの日、アリエルがエドモンにプロポーズされた日。
アリエルが幸せになりたいと言って、クララはそれを応援すると言ってくれた。
アリエルはそんな姉のようで友人のような、優しいメイドを振り返る。
その表情は秋晴れのように澄み渡っていた。