寝物語と約束
公爵邸に着いたアリエルとエドモンは、そのまま客室へ入る。晩酌の用意だけをさせて人払いをした部屋で、二人はどちらからともなくソファへと腰かけた。
「エドモン様はどのような幼少期を過ごされたのですか」
エドモンの手にはワイングラスがある。さっそく聞いてみたかったことを尋ねたアリエルに、彼は香り高いワインを傾けながら、あまり面白くはないぞと前置きをして話してくれた。
「幼い頃の私はそれなりにやんちゃだったんだ。剣の稽古が特に好きで、兄が王位を継ぐのは分かっていたから真っ直ぐに騎士を目指した」
幼いエドモンが一所懸命に剣の稽古をしている姿を想像し、アリエルの頬がゆるむ。きっと微笑ましかったんだろうなと思っていると、エドモンはさくさくと話を進めた。
「ある時、私にも王族として縁談が持ち上がった。隣国の第八王女との婚約だ。同盟強化のための政略結婚で、私も王女も文句はなく、とんとん拍子に婚約が整った」
第八王女とは別に仲が悪いということはなかったらしい。その頃から既に同年代の少年よりは一回りくらい体格が大きく育ち始めていたエドモンだったけれど、さばさばとしていた第八王女はエドモンに物怖じすることはなかった。
国のためにと二人は交友を深め、そのうちに段々と仲間意識のようなものが生まれた。恋ではなかった。ただ国のための利益を追求するだけの同志としてお互いに認識していた。
「婚約から数年経ち、適齢期に入ると私も彼女も社交界にデビューした。……その年のことだ。夜会の途中で体調を崩した彼女を休憩室に連れて行こうとして……ドアノブを引きちぎった」
「え?」
それまでエドモンの話にゆったりとした心地で耳を傾けていたアリエルが、顔を上げた。気まずそうにエドモンは目をそらしている。
パチパチとワインでまわったかもしれない酔いをさまそうと瞬きを繰り返したアリエルに、エドモンはつけ加えた。
「言い訳をするとだな、緊急事態だったために焦ってたんだ。鍵のかかってた部屋だったんだが、建てつけが悪いのかと力を込めてしまったんだ」
「それは……エドモン様はそんな頃から逞しくあられたんですね」
「貴女はそう思ってくれるのか。王女には『ドアノブを引きちぎる人とダンスなんて踊れない』と言われた。……私はそれ以来、女性に触れるのが恐ろしくてダンスを避けた。婚約も、解消した」
エドモンがダンスを避けてきた理由を知り、ようやくアリエルは合点した。あれほど歪なダンスになっていたのは、女性に気を遣わないとと思うあまりに力が入りすぎていたせいなのかもしれない。
「エドモン様はお優しいのですね」
「自分の力をコントロールできない未熟者なだけだ」
苦い思い出だからか、自嘲するようにエドモンは笑う。アリエルはエドモンがそんな表情をするのが嫌で、言葉を重ねた。
「お優しいと思います。他者が傷つかないように慮れる心は、優しさと呼ぶのですから」
他者を傷つけることは簡単だ。世の中には理由なく相手を傷つける人間だっている。だからこそ、相手を傷つけてしまうことを恐ろしいと感じられる心はとても尊い。
アリエルが瞼を閉じると、チャールズの姿が思い浮かぶ。あの人は人の痛みに鈍かった。大切なものが極端に少なくて、自分以外という他人を信用していなかった。そういう人は、ひどく攻撃的になることをアリエルはよく知っていた。
「それを言うなら貴女こそ優しい人だ。……いや、優しいなんて生ぬるいな。時折、聖人かと思うほどの懐の広さを見せる時があるから」
「買いかぶりすぎですよ」
「いいや。そうでなくては、あれほどの仕打ちをされて、伯爵を訴えずにはいられないだろう」
アリエルを思うあまりに激高していたクララやマテューの顔が浮かんだ。彼らはチャールズの仕打ちを怒って、嘆いて、アリエルを諭してくれていた。
アリエルの表情が曇る。
「……私は、彼らの思いを踏みにじってしまったでしょうか」
「彼らとは……ああ、貴女のために訴え出たクララとマテューか」
あの現場にいた二人のことをエドモンはよく覚えていたらしい。名前まで覚えていてくれたようで、アリエルは淡く微笑んだ。
でもそれも、すぐにまた翳ってしまって。
「彼女たちはずっと私に言っていたんです。チャールズ様を見限るようにと。取り返しがつかなくなる前にと。でも私は……」
いつもニコラのことがよぎってしまって、踏ん切りがつかずにいた。
今でもチャールズのことは、これで本当に良かったのかと後悔してしまう。ミクリのことがあり、さらなる絶望に突き落とされているのではないだろうかと、気にかかってしまう。
言葉を続かなくなったアリエルに、エドモンはワインを傾けるのをやめた。
「不思議だったが、なぜ貴女は彼にそこまで心を砕くんだ。彼から受けた仕打ちは愛想を尽かすどころのものではなかっただろう」
もっともなエドモンの言葉にアリエルは困ったように微笑んだ。皆そう言う。皆がそう言うけれど。
「誰もがチャールズ様を否定します。全てあの人のせいだと。あの人を守る人はいません。唯一彼の理解者だったあの人を……私が奪ってしまいましたから」
アリエルは深く息を吐き出す。
もしこれを話したら、エドモンこそアリエルへ愛想を尽かすかも知らない。こんな後悔だらけの女に嫌気が差すかもしれない。
それでも言わずにはいられなかった。
「エドモン様は十年前、あのアモフィックスのいた森の湖で魔獣が発生した事件をご存知でしょうか」
「ああ。シーキントン伯爵家の長子が失くなった事件の……そういえばあの時、現場にいたのは」
エドモンが知っているのなら話は早かった。
アリエルはずっと胸の奥でわだかまっていた物を吐き出すかのように、ぽつぽつと話していく。
「あの時、あの湖にいたのは私とチャールズ様の他に、ニコラ……チャールズ様の兄で、かつての私の婚約者だった人がいました」
エドモンが目を丸くする。
「ニコラ・シーキントン……伯爵の兄だとは知っていたが、貴女の婚約者だったのか?」
「はい。ですがニコラはあの事件で亡くなり……私は視力を失いました。その責任を取る形で、悪戯に私達を湖へ誘ったチャールズ様が私の婚約者となりました」
なるほど、とエドモンが呟く。
アリエルとチャールズの関係はその言葉だけでも十分わかる。
そんな昔からの確執がありながら、でも、アリエルは。
「皆がチャールズ様を悪いと言います。ですが本当は……ニコラが死んだのは私のせいなのです。私が、悪いのです。だから少しでも、チャールズ様の負担を減らしたくて……」
完璧な淑女を目指した。非の打ち所がない淑女となって、チャールズを支えようと思った。
だけど、どんなに頑張っても、結局はチャールズとの距離は縮まらなくて。
「……貴女が伯爵に負い目を感じているのは分かった。だが、一つわからないことがある。ニコラ・シーキントンが死んだのは貴女のせいだと言うのは一体?」
「彼が死んだのは……一度、チャールズ様と逃げた私が、その場にもう一度戻ってしまったからです。一人で魔獣に立ち向かうニコラに、私が、声を」
幼いニコラが一人で魔獣に対峙するのは荷が重すぎた。
全身全霊で集中していたのを、戻ってきてしまったアリエルが、一緒に逃げようと声をかけてしまって。
当時のことを思い出してしまったアリエルは、あまりにも悲惨な記憶に耐えきれず、顔をうつむかせた。もう十年経つというのに、本当に嫌な記憶というものは薄れてはくれないらしい。
ニコラのことを思い出すと、本当に幸せになってもいいのかとまた振り出しに戻ってしまう。そう、昼に見た観劇から既にこのことがちらちらと脳裏にかすめていたから、余計に。
「アリエル」
お腹に響くエドモンの低い声が、アリエルの名前を呼ぶ。
エドモンの方へと視線を上げれば、力強いルビーの瞳がアリエルを見つめていた。
「貴女が背負うことはない。騎士と同じだ。ニコラ・シーキントンは騎士のように貴女たちを守ったんだ。その勇気を尊ぶことこそすれ、その死に囚われすぎてはいけない」
エドモンの言葉はアリエルの中で滞っていたものを、ゆっくりと押し出していく。
その死に囚われすぎてはいけない―――その勇気を尊ぶべき。
皆がアリエルのせいではないと言ってくれた。
視力を失いかけたアリエルを被害者だと皆が言った。
すべてをチャールズに押しつけることに罪悪感があった。
誰も、アリエルの本当の気持ちを理解してくれなかった。
だけどエドモンは。
「……やはりエドモン様は優しい方。そしてとても強いお方ですね」
「話が戻ったな」
「いいえ、本当にそう思うのです。……だからこんなにも惹かれてしまうのでしょうか。やはり、私にはもったいない方です」
アリエルが困ったように微笑むと、エドモンがくつくつと喉を震わせて笑った。
「貴女は変わっているな。普通なら私との婚約を喜びこそすれ、ずっとそうして遠慮ばかりしている」
「本当のことですから」
アリエルが言葉を重ねれば、エドモンがワイングラスをテーブルに置き、彼女の手をすくい取る。
「そういう所を含めて、私は貴女が好きだ。愛してるは……まだ早いか?」
彼はそう言ってルビーの瞳をとろけさせ、アリエルの手の甲へと口づける。突然のことに、アリエルの体が震えた。
「きゅ、急に何を……!?」
「嫉妬してしまったよ。貴女に思われるシーキントン伯爵と、ニコラ・シーキントンに」
「酔っているのですかっ?」
「そうかもしれない。素面ならば、こんなことはできんな」
そう言って笑ったエドモンに、アリエルはちょっとだけ拗ねたように唇を引き結んだ。
「心臓に悪い悪戯はお止めください」
「悪戯ではないよ。貴女に構ってほしい私のアピールだ」
「お話しているではありませんか?」
「そうだな。だが私は、もう少しだけ貴女へ近づきたい」
そう言ったエドモンが、アリエルの手からもワイングラスを奪い取ってしまった。
アリエルがテーブルに置かれるワイングラスを視線で追っていると、ふわりと手が持ち上がる。
引かれるように自分の手を見れば、エドモンがアリエルの指と自分の指を絡めた。
大きな指が、するりとアリエルの指の隙間に入り込む。
その仕草が恥ずかしくて、アリエルの頬はぽっと赤く熟れてしまった。
「え、エドモン様?」
「貴女の手は小さいな」
大きな指でぎゅっとにぎられると、アリエルはどうしていいのか分からなくなる。エドモンの瞳を、じっと見つめ返すしかできなくて。
「アリエル」
「は、はい」
「私は国の血を引く人間であり、騎士だ。きっと様々なしがらみにとらわれることもあるし、任務の最中、危険を犯すこともある」
「……はい」
「だが約束しよう。私は貴女を守る。この命が尽きるときまで貴女に寄り添い続ける。だからそんな寂しそうな顔をしないでくれ」
エドモンの真摯な言葉が、胸の内側に染み込んでいく。
アリエルは視線を伏せた。
本当に、この公爵様には敵わない。
「……私は、未練がましい女です」
「そうだな」
「チャールズ様には常々ニコラのことは忘れろと言われ続けてきました。ですが私は忘れることもできず……今もエドモン様と婚約を交わしたというのに、ニコラと、チャールズ様のことばかり」
アリエルの懺悔に、エドモンが目元を緩めた。
「それでいい。この婚約は急なもので、貴女の気持ちが追いつかないのも分かっていたんだ。私が根気よく貴女を口説いていくだけのこと。結婚式までに昔の男など忘れさせてやる。それが男の甲斐性というものだろう」
「エドモン様は面白い方ですね」
「おっと。貴女から優しい以外の評価がでたな」
くつくつと喉を鳴らすエドモン。
アリエルもつられて笑ってしまった。
エドモンは本当に不思議な人だ。
力強くて、たくましくて、傍にいると安心できる。
アリエルの悪いところを告白したのに、笑って受け止めて、さらには守ってくれるともいう。未練がましくても、昔の人を忘れるくらい口説くとか言ってしまうような人。
この人と婚約してよかったと思う。
この人と幸せになりたいと思う。
だからこそ。
「エドモン様」
「ん?」
「領地に戻りましたら、ニコラの墓へと行こうと思います」
葬式以来、本当の意味でニコラの死を受け入れているとは言えなかった。骨となり、石の姿となったニコラを直視なんてできなくて、お墓参りなんて行けなかった。
もし行くとしたならば、シーキントン伯爵家に尽くし、その隣りに骨を埋める時だと思っていた。
だけど。
「ニコラに宣言してまいります。もう過去にとらわれないと。そして感謝を伝えてまいります。あの時、私とチャールズを守るために魔獣に立ち向かってくれたことを」
謝罪は述べない。
この十年、後悔と謝罪を繰り返してきたから。
空色の瞳に強い意志を灯して宣言したアリエルに、エドモンは微笑んだ。
「欲を言うのなら、私もその場に同伴したいものだが」
「エドモン様には遠征がございます。これは私なりの覚悟のようなもの。……過去を全てすすいで、晴れやかな気持ちで貴方のもとに嫁ぎたく思うのです」
「そうか……それならば、貴女の意思を尊重するしかないな」
エドモンがアリエルの意思を尊重してくれるのが嬉しい。
アリエルは微笑むと、そっとエドモンへと身体を寄せる。
エドモンのたくましい肩がアリエルの肩と触れる。
家族以外の誰かとこんな距離にいられるなんて、いつぶりだろうか。
社交のためのダンスとは違う距離感。体と心がすごく近いと感じられる距離。
甘くて苦いジュニパーの香りが鼻をくすぐる。
明日にはまたしばし、この距離とお別れだ。
やっぱり離れてしまうのを寂しいと思ってしまう。
「エドモン様、どうかお体にお気をつけくださいね」
「もちろんだとも。冬になる前には帰る。結婚式の準備も進めないといけないからな」
エドモンのお腹に響くような声が耳に心地いい。
本当に不思議な人だ。
頭ごなしにアリエルを否定しない。アリエルがニコラを想っても許してくれる。むしろアリエルの気持ちを振り向かせようとまで言ってくれる、頼もしい人。
この人と出会えたことに、感謝した。