お茶会の後の嵐
公爵閣下との二回目のダンスレッスンがあった翌日、アリエルは侯爵夫人であるベリンダの個人的なお茶会に誘われた。
ベリンダの生家であるルノアール侯爵家のサロンで、ベリンダとアリエルの二人きりのお茶会。アリエルの好きな紅茶のクッキーでもてなされると、ついつい頬がゆるんでしまう。
ベリンダは艷やかでたっぷりとした金の巻毛を背中へ流し、フリルとレースをふんだんにあしらった菫色のドレスを着ており、いかにも高位貴族然とした女性だった。そんなベリンダとのお茶会は背筋が伸びる思いもするものの、長年の付き合いのおかげか、今ではすっかりと気のおけない友人の関係を築けている。
そのベリンダが今日、他でもないアリエルをお茶会に誘ったのは。
「それでどうだったのかしら。エドモン様のダンスレッスンは」
「まずまず、といったところです。ステップは問題ないようですが、少々動きが機敏すぎますので、その癖を直すような形になりそうです」
「ふふ。アリエルに頼んで良かったですわ。他の方だとエドモン様に遠慮してしまって、ご指導できないってロビン様が仰っていたから」
ロビンはベリンダの夫だ。この国の宰相で、エドモンとも昔からの知己だという。その伝手で今回、アリエルに話が回ってきたのだけれど。
紅茶をたしなみながら笑みを浮かべるベリンダに、アリエルは首を傾げた。
「遠慮するも何も、ご指導する以上、遠慮は不要でしょう?」
「そうなのですけれど。ロビン様が仰るには、十年前は踊れていたそうなのよ」
それはアリエルも薄々気づいていた。
踊れていなければ、おそらくはアリエルが公爵にダンス経験の数を質問した時に、ゼロという回答が返っていたはずだから。
アリエルがクッキーをゆっくりと口に運びながらベリンダの話に耳を傾けていると、ベリンダもゆっくりと紅茶で喉を潤しながら話してくれた。
「今回、踊れなくなっていたことに気づかれて、すぐに講師として何人かに声をかけたようなのですけれど、王家のダンス講師以上の教えはできないってお断りされてしまったそうなのよ。上の年代の方々は、十年前にエドモン様が踊られている姿を見ていらっしゃるから」
なるほど、とアリエルはうなずく。確かにそう言われてみれば、この国最高峰の指導者にダンスの手ほどきをされてた人に指導するのは、遠慮したくなるかもしれない。
「元々エドモン様にご指導されていた講師の方では駄目だったのですか?」
「それが、腰を痛めてしまったみたいでしてね。これではお相手できないと、一番最初にお断りされているのよ。そのお方も、もう良いお年ですもの。仕方ないですわ」
それは確かに無理をさせられないわけだ。
アリエルは紅茶に口をつけると瞼を伏せて、ベリンダの言葉に静かに同意した。
「とはいえ、私に声をかけていただけるとは思いませんでした。事情を話せば、他にもいらっしゃったでしょうに」
「ふふ、これでも私、貴女を買っておりますのよ? それに講師としての報酬は、貴女が運営している孤児院への寄付でしょう? 慈善事業、良いではありませんか」
ベリンダがエメラルドの瞳を細めてゆるりと微笑むので、アリエルも微笑みで返す。確かに公爵家には、講師としての報酬は孤児院へ寄付するように伝えている。
アリエルの夫が継いだ領地では、ここ近年不作が続いていて、孤児も増えていた。資金繰りが大変になりつつあった孤児院の経営だったから、このタイミングで寄付がされるのはありがたかった。
「ベリンダ様には頭が上がりませんね。気にかけていただけて、ありがたい限りです」
「ふふ。だって貴女の才覚は素晴らしいですもの。女性ながらも孤児院などの経営をしていらっしゃるのもそうですし、立ち振舞も見惚れるほど完璧。淑女の鑑と言われる貴女だからこそよ」
「ご期待に添えますよう、努力いたしますね」
「そういうところも好きですのよ」
ころころと花のように笑うベリンダに、アリエルも自然と笑顔になる。幼い頃から立派な淑女になるべく重ねた努力は無駄ではなかったことが嬉しい。
その後も、アリエルとベリンダは二人で楽しくおしゃべりをしていた。女二人の会話は話題が尽きずに弾んでいたけれど、それを突然終わらせるかのように、ルノアール家の家令がアリエルに声をかけた。
「ご歓談中、失礼いたします。アリエル様にシーキントン伯爵家より使いが参っております」
「まぁ。どうしたのかしら」
ベリンダが不思議そうにつぶやいた。
昨日のように時間を忘れて話し込んでしまったのかとも思ったけれど、まだ日は高く、帰りの馬車を呼ぶにはまだ随分と早い時間だ。
ふと漠然とした不安が胸の奥に生まれたけれど、アリエルはそれを表に出すことなく、使いの者を呼び入れてもいいかベリンダに尋ねた。ベリンダは気さくにも構わないと言ってくれたので、言葉に甘えてサロンに使者を入れてもらう。
使者はシーキントン家でアリエル付きのメイドをしているクララだった。
その表情はひどく焦っていて、アリエルはすっと真顔になる。
「クララ、どうしたの。わざわざここまで来るなんて、屋敷の方で何かあったの?」
「申し訳ございません。旦那様が、……旦那様がお帰りになりましたので、どうか今日のところはお帰りを、と」
「っ、分かったわ」
クララの言葉に、一瞬だけアリエルは動揺したけれど、すぐにその動揺は隠してしまう。
「申し訳ありません、ベリンダ様。夫がどうやら領地よりお戻りになられたようです。今日はこれで失礼してもよろしいでしょうか」
「そうなのね。もう少し話したかったけれど……夫婦の時間を邪魔してはいけないわね」
ベリンダの言葉に、アリエルは曖昧に笑うと、退室の礼を取ってルノアール家を後にした。
焦るクララに馬車に押し込められて、アリエルはシーキントン伯爵家の屋敷に向かった。その道中、クララに帰ってきた夫の様子を聞いて、憂鬱になる。それでも背筋を伸ばして、アリエルは毅然とした態度でシーキントン家の門をくぐり、馬車を降りて、屋敷に戻った。
「ただいま戻りました。チャールズ様もお帰りなさいませ。お出迎えできずに申し訳ありませんでした」
「アリエル」
玄関に入ったすぐのところで、小綺麗にカットされた茶色の後ろ頭が、アリエルの名前とともに振り返る。
榛の瞳が、鋭くアリエルを射抜いた。
アリエルは夫のすぐ側の足元に転がっているものを見て、表情をこわばらせる。
「……チャールズ様、一体何をなさっていたのです。その者が、何か粗相を?」
「折檻に決まっている。この女にお前の場所を聞いたらすぐに答えなかった。何かやましいことがあるのかと聞けば何もないというが、出かけていることは知っているのにお前の場所を答えない。やはり何かやましいことがあるだろうと聞き出していた」
チャールズはメイドの一人に向けて、ムチを奮っていた。痛みと恐怖で泣きじゃくりながら丸まっているメイドを見て、アリエルはぐっと唇を噛んで言いたいことを飲み込んだ。
チャールズを刺激するのは良くないことを、アリエルはよく知っている。
言葉を選んで、当たり障りのないように、伝えた。
「チャールズ様、申し訳ありません。メイド長やレディースメイドには行き先を告げていましたが、その者はハウスメイドです。私の行き先を知らずとも、無理はありません」
「行き先を人に伝えられないような場所に行っていたのか?」
「そんなことはありません。ルノアール侯爵家に行っておりました。いつものようにベリンダ様のお茶会です」
「ならば最初からそういえば良いものを」
舌打ちをするチャールズに、アリエルはそっと目を伏せた。
「その者の疑いは晴れましたか? 仕事をさせますので、下がらせても?」
「当然だ。雇っている以上、仕事はさせろ」
「……クララ」
アリエルがクララに目配せをすると、彼女は折檻されていたメイドに歩み寄り、起き上がらせた。
チャールズがそのことに目くじらを立てる前に、アリエルはチャールズの興味をこちらに引く。
「それよりもお早いお戻りでしたね。王都へは来週の予定でしたでしょう。早馬の一つでも飛ばしていただけましたら、お出迎えができましたのに」
「こちらでやらないといけないことが出てきたからね。僕だってここにいるよりも、彼女のいる領地のほうにいたいさ。まったく仕方ないことだけれど」
ぼやくチャールズに、アリエルは言いたいことをぐっと飲み込んだ。
夫が帰ってくると分かっていたらこんな油断はしなかった。メイドが折檻されないように立ち振る舞うことができたのに、予定は来週だからと甘く見ていた自分が許せなくなる。胸の奥はぐるぐると嫌なもので渦巻くけれど、これは表に出してはいけないとアリエルは自分を戒めた。
アリエルはふと少しだけ肺にためていた空気を吐くと、チャールズに向き合う。
「馬車に揺られてきたのでしたら、おつかれでしょう。少し休めるように手配いたします」
「そうだね。……ああ、いや、それよりもアリエル、共にくるんだ。夫婦の時間を作ろうじゃないか」
チャールズが何を思ったのか、手元の鞭をに視線をやり、アリエルを誘う。
ぞくりと悪寒が背筋を駆け抜けるけれど、アリエルに拒否するなんて選択肢はなかった。
アリエルはいつものように背筋を伸ばして、毅然とした態度でチャールズを見据えると、せいいっぱいの強がりで表情を作った。
「……分かりました」
自分が夫の相手をしている間、少しでも先程のメイドが落ち着ければいい。
それだけを思って、アリエルは夫に寝室へと連れ込まれた。