軍神公爵のプロポーズ
どうしてこうなったのか、アリエルには分からない。
目の前で花束を差し出し、求婚してきた男性を戸惑いながら見つめ返した。
「アリエル・コールソン子爵令嬢。貴女に結婚を申し込む」
アリエルの目の前に立つエドモンの表情は真剣そのものだった。
太陽の下、きらきらと鈍く輝く銀の髪。ルビーのように紅い瞳はアリエルを力強く見つめ、騎士の正装に身をつつんで、背をぴしっと伸ばしている。
差し出された花束は白くて儚いカスミソウと、青くて可憐なブルースター。アリエルが戸惑いながらその花束とエドモンを見比べる。
「その……どうして、私と? 身分の差もありますし、私は一度離婚している身です。そんな私が閣下と婚姻するなど……」
子爵家であるアリエルと公爵家であるエドモンが婚姻するなど、身分違いも甚だしい。エドモンもそれは分かっているだろうに、と思ったところで、ふとそれがひっくり返るだろう可能性を思い出す。
アリエルは足元のスピナを見た。スピナは「くぅん?」と可愛らしく鳴いて、不思議そうにアリエルを見上げている。
アリエルも馬鹿ではない。
ミクリという魔獣を操る女性がいて、さらには魔獣を霊獣にまでしてしまう人間がいるとなれば、国はそれを監視下に置きたいと思うことは簡単に想像できた。
そういう意味ではエドモンという人間は、権力と武力、どちらも持っている適材だ。たた、奉公に出るなどではなく、婚姻、というのは引っかかるけれど。
アリエルは一瞬の間でエドモンが自分へ求婚する利点をはじきだすと、少しだけ胸の奥の深いところがもやもやとした気がした。言葉にしがたいその感情が何かを理解する前に、アリエルは小さく微笑んだ。
「もし、王命というのであれば謹んでお受けいたしましょう」
つり合うかとうかなんて、王命の前では些細なことかもしれない。国王陛下の尊い考えなんてアリエルには考えもつかなかったので、アリエルは何もかもを諦めたように微笑むだけだった。
短い自由だった。
シーキントン伯爵家の呪縛から逃れ、自由を謳歌した一年だった。
また、貴族として縛られる日々に戻る。
その立ち振る舞いを評価されて講師として招かれるのはやりがいのある日々だった。けれどやっぱり故郷に帰ってきて実感してしまった自由というものは、少しばかり名残惜しい。
アリエルがそんなことを思いながら、そのエドモンの花束にじっと視線を向けていると、エドモンがおもむろに口を開く。
「……待ってくれ。そんな顔をしないでくれ」
情けなく項垂れたような弱々しい声に、アリエルはエドモンの顔を見上げた。
エドモンは声のとおり、少し眉を下にさげて情けない表情をしている。
「たしかに王命がきっかけではあるが……聞いてほしい」
エドモンがそう言って、そもそもどうしてエドモンがアリエルと結婚をすることになったのか、その経緯を話してくれた。
国としてはアリエルを聖女として奉りたかったこと、そのためにも魔獣を相手に危険な場所にいかねばならないこと、そうでなければそのいつ発動するか分からない能力を見張る必要があること。
どれも国として正しい反応だと思った。ただ、国として一番の利となる聖女というものにアリエルを仕立てず、結婚という手段を取らせようとする理由がわからなかった。
「私ならば、お役目がどんなに危険なものなでも陛下のご意向に添えるよう、尽力いたしますのに。どうしてわざわざ、閣下との婚姻だなんて」
「貴女がそういう人だからだ」
エドモンが困ったように微笑を浮かべた。
大きな体、軍人として立派な体格をしているエドモンから見下ろされるのはなかなか威圧感があったけれど、その表情のせいか、あまり恐ろしいとは思わなかった。
むしろアリエルは、困り顔のエドモンの雰囲気を柔らかいとさえ思っている。
「私が……?」
「貴女は簡単に自身を犠牲にする。アモフィックスに連れ去られたというときも、シーキントン伯爵邸で起きていたことに関しても。そんな貴女をほうっておけなかった」
アリエルは戸惑う。
アリエルとしては自分を犠牲にしているつもりなんてない。貴族としての義務を果たし、人としての責任を果たしているだけなのに。
アリエルが困惑していると、エドモンはふと表情をゆるめた。
「……と、色々と理由を持ってきたが……そのだな。とどのつまりは、私が、貴女を守りたくて……他の者に譲りたくなかっただけの、わがままだったりもする」
「わがまま……?」
ますます意味のわからなくなったアリエルに、エドモンはこっくりと頷く。その顔があんまりにも神妙で、この澄み渡る青空の下、緑の広がる牧草地で花束を持っているエドモンの姿が奇妙に浮き彫りにされたように見えた。
そんな彼の姿を見つめていたアリエルに、エドモンはゆっくりと言葉を紡いだ。
「以前、話しただろう。貴女の夫が羨ましいと。あれは本心で……その、最低なことだが、人妻である貴女に一目惚れをしてしまったのかも、しれない」
後半にかけてエドモンの声は少しずつ小さくなっていく。
アリエルがその空色の瞳をいっぱいに開いてエドモンを見つめていれば、エドモンの耳がほんのりと赤くなっていて、その視線がアリエルと交わるとまた困ったような表情になる。
「あの時の貴女は夫と仲睦まじく過ごしているのだろうと思っていた。……助けられずにすまなかった」
「いえ、それは……私もあの人も、隠していたのですから」
「それでも、だ。真実を知った今、節穴だった自分の目をえぐってやりたくなったものだ」
アリエルはエドモンの言葉に息を呑む。
まさかエドモンがそれほどまでに自分のことを案じてくれていたなんて、思ってもいなかった。
「それから貴女と領地で再会したとき。貴女に二度目の一目惚れをした。女性が、蝶が羽化するかのようにこんなにも美しくなるとは思っていなくて……目が離せなくなった」
エドモンがその時のことを思い出したのか、穏やかに笑う。
それにアリエルは首を振った。
「……私は、美しくなんてありません。本来の私は貴族らしくなく、村人に混ざって牧草地を駆け回るような女です」
「貴女の美しさは内側から滲み出るものだ。その自己犠牲の精神はいただけないが、凛と背を伸ばして、私を真っ直ぐに見つめ返すその姿はとても美しい」
アリエルが否定すれば、エドモンが言い募る。
アリエルが更に言葉を重ねるよりも早く、エドモンが言葉を続けた。
「それは貴女の強さだと思う。けれどだからこそ……貴女はもろいだろう?」
エドモンはアリエルの空色の瞳をじっと見つめる。
居心地が悪くてそわそわしそうになる身体を必死になだめて、アリエルは目を伏せた。
エドモンの言葉は恐ろしいほどアリエルの胸のうちに浸透していく。
どうしてだろうか。
この求婚は、どう考えたって国が、王がお膳立てしたものだってアリエルは理解したはずなのに。
エドモンの言葉が。
エドモンの表情が。
エドモンの瞳が。
どれもまるで恋物語に見られるような熱を孕んでいて。
アリエルはまるで自分がエドモン自身に求められているかのような錯覚をしてしまいそうになる。いや、間違いなくエドモンはアリエル自身を望んでいた。
エドモンは優しい人だ。
だからこんなにも言葉を尽くして、義務感だけの婚姻ではないと伝えてくれている。
それに。
「……父と母に、この話はされましたか?」
「まだだ。先に、貴女に私の気持ちを知ってほしかった。そして、貴女の気持ちを知りたかった。その上で貴女に選んでほしかった」
ほら。
エドモンはやっぱり逃げ道を残してくれている。
貴族の婚姻は家同士のもの。
婚約するにも、求婚するにも、両家の許可が必要で、本人を通す前に家へと話が通ることが普通だ。
その上、今回は王の名のもとに下された命令だ。これはもう決まりきったようなものであるというのに。
「もし貴女が私ではなく別に好いた男がいるのなら、私では人生のパートナーとして役者不足だと思うのなら……断ってくれてかまわない」
アリエルが決定権を持っているかのように、エドモンは言う。
「……どうして、そこまで私を気にかけてくださるのです。王命の婚姻であれば、家に伝えて終わるだけでしょう」
「王命は大義名分であるだけだ。私が天の邪鬼でなければ、貴女と再会したその日にでも求婚していたかもしれないくらいに貴女に惹かれていた。心のない婚姻ではないと、貴女を安心させたかった」
分からない。
アリエルはエドモンの熱量に戸惑うばかりで、自分なんかが、という思いが強すぎた。
アリエルは口をつぐんで地面に視線を落とす。
まとまらない頭で緑の牧草の合間に見える土の色を見つめた。
王命とエドモンの気持ちが天秤にかかる。
アリエルは一度離婚を経験している身だ。
むしろアリエルこそ、エドモンの人生のパートナーとして相応しくないのではという思いばかりが巡って、ふと気づく。
返すべき答えは明確なのに、こんなに悩んでしまうのはアリエルらしくない。
王命だというのなら、二の句もなく従うのが貴族だ。
それなのに、エドモンの横に自分が立つことは相応しくないという思いばかりが胸の中を締めている。
身分違いなんて、眼中になかった。
ただ、ただ、捨てられた女として、自分が女として欠陥した人間なのだと思って、尻込みしているだけ。
「閣下……」
アリエルの声が震える。
エドモンが花束を差し出すのをやめ、そっとアリエルへと一歩近づく。
大きな歩幅はたった一歩だけでぐっとアリエルとの距離が縮まった。
甘くて苦い、ジュニパーの香りがアリエルの鼻孔をくすぐる。
「アリエル嬢。気にかかることがあれば全て教えてほしい。私がすべて、貴女の憂いを打ち払ってみせよう」
頬に触れたエドモンの指先はとても大きく、温かかった。
その手のひらがひどく安心できて、どきどきと心臓が少しばかり速く鼓動する。
分かってる。
エドモンのことは嫌いじゃない。
むしろ、人として、男性として、アリエルも同じように彼に惹かれているような気さえしてる。
アリエルは頬に添えられたエドモンの指に触れた。
触れて、泣いてしまいそうな顔で微笑む。
「申し訳ありません。私、人並みに婚約、結婚、離婚と経験してきた身ではありますが……その、プロポーズは初めて、で」
こうやって真っ直ぐに想いを伝えられたことが初めてだった。
ニコラとは共にいるのが当たり前ではっきりと言葉にした記憶はなかったし、チャールズに関しては完全に形だけの婚姻だった。
だから恋とか、愛とか。
溶けてしまいそうに見つめてくるエドモンの視線の熱とか。
アリエルには不慣れなもので。
戸惑うだけで拒絶はしていないアリエルに、エドモンが嬉しそうに頬をゆるめる。
「それなら、もう一度」
もう一度という言葉にアリエルが小さく首を傾げると、エドモンはアリエルから一歩離れて跪く。白くて可憐なカスミソウとすっきりと澄みわたる青のブルースターの花束が、再びアリエルへと差し出されて。
「アリエル・コールソン子爵令嬢。私とワルツを踊ってくれないか。私は貴女とファーストダンスを踊る権利がほしい。―――もし、私と婚姻していただけるのなら、この花をお受け取りください」
穏やかに微笑むエドモン。
その笑顔にアリエルはひどく安心感を覚えて。
―――この人となら、私も幸せになれるかしら?
アモフィックスへと対峙するエドモンの果敢な姿を思い出す。ダンスが苦手だと笑いながらも、一生懸命に練習していた人。アリエルなんかに一目惚れをしたと言って、その優しさを与えてくれる人。
アリエルだって幸せになりたかった。
もういいよ、と今は亡き人の声が聞こえる。
視力を失いかけていた時、アリエルはこの視力が失われるまでニコラの代わりにシーキントン伯爵家を支えようと思っていた。
だけどその視力はまるでアリエルの罪をそそぐように世界の輪郭を取り戻した。そして、その鮮やかな世界で最初に見たのは。
「エドモン・ジラルディエール公爵閣下。謹んでこの求婚をお受けいたします」
王命だろうとなんだろうといい。
アリエルにだって幸せになる権利があるんだと、クララが言っていた。
アリエルは花が咲くように微笑むと、エドモンの差し出す花束を受け取った。