長い一日の終わり
赤い光を放つ幻想の雪の中、エドモンは目を開く。
しんしんと身体に積もる赤い雪は、触れた瞬間にしゅわりととけると、エドモンの中にアモフィックスの感情のようなものを伝えてきた。
同族たるエドモンへの許し、アモフィックスが今まで行ってきたことへの謝罪、ミクリが考えていたこと、彼女が犯した罪、カーバンクルの母たるアリエルへの服従。
言葉はないものの、赤い雪のような光からはアモフィックスの意思が直に伝わる。
それは他の騎士も同じようで、アモフィックスへの警戒を解いて、次々とその場に跪いていく。
本能的に理解していた。
目の前の存在はもはや人間の領域の存在ではないと。
この場でこの存在に対等でいられるのは、同じ眷族の血を引くエドモン・ジラルディエールただ一人であると。
そしてそのエドモンと霊鳥すら従えるのが。
黄金の稲穂色の髪をなびかせ、水晶のように透き通る空色の瞳を持つアリエル・コールソン子爵令嬢であるということも。
それを、どうしても受け容れられない者がいることも。
「ふざけないでよ!! なんで、なんでそんな!! 私だって声が聞こえるのよ!? 私だって特別なのに、なんで皆して……っ」
「み、ミクリっ」
「うるさい、うるさいっ! こんな屈辱……っ、許さないんだからっ!!」
ミクリが動く。
それまで握りしめていたものを口元に充てがおうとする。
そこでエドモンは思い出した。
さっき、ミクリの方からした音は。
エドモンが声を上げる前に、ミクリはそれを口に咥える。
息を吸い込み、ミクリが咥えた細長い小さな笛に呼気を吹き込もうとした、けれど。
「きゃあっ」
「ミクリ!」
いつの間にかスピナがミクリの側にまで駆けていた。
ヒュッと風のようにミクリの手にあった笛を奪うと、トトンッと地面に着地し、たったかとアリエルの元へ戻ってくる。それに気づいたアリエルがしゃがんで手を差し出せば、スピナは咥えていた笛をペッとアリエルの手に置いた。
エドモンはそれを見届けると、静かに審判を下す。
「……連れて行け。話は騎士団で聞く」
「はぁ!? ちょっと! なんで私がこんな扱いなのよ!? 私何もしてないじゃない!!」
「何もしてないだと?」
エドモンは自分でも驚くほどに厳しい声がでた。
エドモンは笛を握って立ち上がったアリエルの肩を無意識に守るように抱くと、恐ろしいほど低い声でミクリの罪を詳らかにしていく。
「アモフィックスから伝わってきた。気に食わない人間がいればあの洞窟に隠した瘴気に沈め、瘴気の肥やしにしていたようだな?」
エドモンがきっぱりと言うと、ミクリが口を開けたまま固まる。そのミクリを抱いているチャールズが、そんなまさかと言う表情でミクリを呆然と見下ろしていた。
ハッとしたミクリが眦を吊り上げて否定する。
「濡れ衣です!! 私、そんなひどいことっ……!」
「そ、そうです! ミクリが!! 幼い頃から僕を支えてくれていたミクリがそんなことするわけがありません!!」
ミクリとチャールズの何度目か分からない抗議に、エドモンは瞑目すると、鋭い視線を騎士たちに向ける。
「連れて行け」
「ちょっと!? なんでっ」
「待てっ! ミクリを離すんだ!!」
「シーキントン伯爵も同行願う。先程のコールソン子爵家の使用人たちの話の件についても聞かねばならないゆえ」
淡々と騎士たちに指示を出していくエドモン。
あっという間に騎士たちにミクリとチャールズは連行されていった。
後に残されたのは、数名の騎士と騒動を聞きつけたシーキントン伯爵家の使用人たち、クララとマテュー、それからアモフィックスとスピナ。
アリエルはエドモンに肩を抱かれたまま、目まぐるしく変わっていく状況に混乱しているようだった。そんなアリエルへ、エドモンは頭上から言葉を落とす。
「アリエル嬢」
「は、はい」
「すまない。こうなった以上、隠してはおけない」
「あの、それは、それって……」
エドモンはアリエルが聡明な女性であると知っていた。そんなアリエルでも、ここまで理解を遥かに超えていく出来事が続けばすんなりと受け入れることも難しいみたいだった。
アリエルがこの状況を頭の中でまとめる前に、エドモンは彼女の背へと腕を回すと、そっとその華奢な身体を抱いた。
「貴女の望まないようなことにはしない。安心してほしい」
「は、はい……」
それはエドモンの本心だった。
この華奢な体の持ち主に今後降りかかるだろう様々の出来事を思うと、エドモンは彼女を守りたいと強く思ってしまった。
エドモンが優しくアリエルの肩を抱き、その空色の瞳をのぞき込んだ。
アリエルはこれまでの怒涛の展開と、先行きの不透明なこれからに対する不安で押しつぶされそうになっていた。線の細い身体は気丈に気を張っているだけで、触れるとかたかた身体が震えていることに気がつくほとだった。
そんな状態なので、エドモンが覗き込んだアリエルはひどく頼りない女性に見えた。あのいつでも凛と背筋を伸ばしていたような彼女とは違う。体だってこんなに華奢で、彼女は間違いなく女性なのだということを意識せざるを得なかった。そこではたと気がつく。
無意識だった。
女性の許可なくこの腕に抱くなど、紳士としてあるまじき失態では。
エドモンは内心の動揺を表には出さないで、そっとアリエルから体を離した。
エドモンはこほんと咳払いすると、アリエルに改めて言葉をかける。
「とりあえず、騎士に子爵家まで送らせよう。今日のことは改めて通達する」
「わ、かりました。あの、アモフィックスは……」
アリエルは少しぎこちないながらも頷いて、視線を白銀の霊鳥へと向けた。エドモンはそれにこくりと頷く。
「アモフィックスは騎士団の方で責任持って預かる。カーバンクルと違って、これほど大きな鳥は子爵家でも面倒は見れないだろう?」
「そう、ですね。よろしくお願いします」
アリエルはほっとして頷くと、エドモンから数歩ずつ離れていく。エドモンも近くの騎士を呼び止め、彼女たちを領地に帰す手配をしたのだった。
◇ ◇ ◇
騎士に護衛されて、アリエルはクララとマテューとともにコールソン子爵家へと戻った。
屋敷に帰ると、たいそう心配していた両親に迎えられ、アリエルはようやく人心地つく。
それからアリエルは気丈に振る舞って、両親にその日の出来事をゆっくりと話した。
アモフィックスの魔獣騒動はチャールズの後妻であるミクリが裏を引いていたこと。スピナは聖獣カーバンクルであり、その加護をアリエルが得たこと。アリエルがその加護でアモフィックスを魔獣から霊鳥に昇華させたこと。このことから今後考えられるだろう、アリエルの身辺の変化。
アリエルの両親であるコールソン子爵夫妻は、娘が行方不明になった一日の間にとんでもない状況になっていたことに呆れ返った。アリエルとしてはとんでもない力を手に入れた自分に対して両親の目が変わることを恐れていたけれど、話し終わっても両親は相変わらず温かい目で娘を迎えてくれたので、ほっとして思わず泣いてしまった。
アリエルが涙を流したのは、子供の頃以来だった。ニコラの葬式以来アリエルが泣くことはなく、はらはらと涙を流したアリエルが極限状態にあったことを両親は理解して、その日は彼女をゆっくりと休ませた。クララやマテューも、あの結婚生活の中ですら涙を流さなかったアリエルが、今回ここまで追い詰められていたことに責任を感じて、アリエルが落ち着けるように温かいミルクやとっておきのポプリを用意したりした。
そうして、一連の騒動から数日。
アリエルは、不思議なほどに普段の日常へと戻っていた。
いつものように村人に混ざって牛や羊の世話をして、畑の手伝いをして、たまに貰い物のミルクやチーズでお菓子を作っては孤児院に差し入れる。
スピナは子供や大人関係なく可愛がられて、連れ歩けば色んな人がスピナを抱かせてほしいとねだった。
クララもマテューも、アリエルを気遣ってか、アリエルが起こした奇跡について追求をしなかった。いつものようにクララはアリエルの身の回りの世話をして、マテューは庭師らしくのんびりとコールソン子爵邸の庭をいじっている。
アモフィックスにアリエルが連れ去られた話は、子爵家だけで収まるように箝口令が敷かれていた。だからアリエルはいつものように日常を過ごすことができている。
今日も放牧された牛たちをのんびりと見張りながら、アリエルは黄金の麦穂色をした髪を風になびかせている。穏やかな初夏の風は、緑青の高原によく映えた。
真っ白なしっぽをふりふりさせて、スピナが牛たちに紛れて遊んでいる。アリエルもさきほどまでスピナと一緒に牛たちと紛れて戯れていたけれど、今は微笑みながらその光景を少し離れた場所から眺めていた。
風が気持ちいい。
すっかり平和な日々を取り戻した。
一年前と変わったことは、アリエルが髪を染めて姿を偽ることをやめ、失われるばかりだった視力を取り戻したこと。トレードマークのようだったワインレッドの眼鏡はもう身につけてはいなかった。
牧草地に立つアリエルは淑女の姿をしていない。平凡な村娘と同じ姿をしているアリエルは、どこにでもいる普通の娘で、そこで牛に紛れて遊んでいる白い獣が聖獣だなんて誰も思わない。
穏やかな気持ちで牛たちと戯れるスピナを眺めていると、不意にそばにいたクララがアリエルの袖を引いた。
「お嬢様」
アリエルは振り向く。
クララの示す方を見て、アリエルは瞠目し―――凛と背筋を伸ばした。
とうとう、来た。
あれから数日しか経っていないけれど、これが早いのか遅いのか、アリエルには分からない。
視線の先で、騎士団長のみが着用を許されるマントがはためく。剣のように鈍く輝く銀の髪と騎士の制服は、長閑なこの場所でくっきりと浮かび上がり、遠目でもわかる。
彼が、ここにいる意味。
この数日で、騎士団長であるエドモンがアモフィックスにまつわる一件を全て処理したのだろうということを理解した。
目をそらしていたことに、アリエルも覚悟を決めないといけないのかもしれない。
アリエルはスピナを呼ぶ。
スピナはアリエルの元にやってくると、きょとんとしながらお行儀よくアリエルの前にお座りする。
この白い獣がもたらしたものは、アリエルには少しだけ荷が重い。
そんなことをぼんやりと思いながらアリエルはスピナをひと撫ですると、彼女もまたエドモンの元へゆっくりと歩いていく。
そしてアリエルとエドモンが数日ぶりの再会を果たすと。
「アリエル・コールソン子爵令嬢。貴女に結婚を申し込む」
青い可憐な花束を差し出して、エドモンはアリエルへプロポーズをした。




