魔女はどちら?
「アリエル……!」
「チャールズ様もご無沙汰しております」
一度、顔を上げてチャールズに向き合ったアリエルは、チャールズにも軽く礼をする。
チャールズは眦を吊り上げ、アリエルを睨みつけた。
「一体何をしに来た! ここには来ない約束だったろう!」
「申し訳ありません。ですがどうかお許しください。私は騎士団の要請のもと、この場に呼ばれたのです」
「何を……!」
「そのことは私から話そう」
声を荒らげるチャールズからアリエルを庇うようにエドモンが前に進み出た。アリエルが騎士服をまとう大きな背中を見上げると、エドモンは端的に状況を説明していく。
アリエルがアモフィックスに攫われたこと、攫われた先があの森で、そこにはアモフィックスを操る人間がいたこと。アモフィックスと人間が去った後アリエルは救出され、今に至ること。
「巣に戻れない以上、瀕死のアモフィックスは魔獣を操る主の元へと戻るのではないかと推測をした。そのために泳がせ、たどり着いたのがここだ」
エドモンがそこまで話すと、チャールズが抗議の声を上げる。
「閣下の仰ることは理解いたしました。ですが、これではまるで我が伯爵家にそのような者がいるかのような……!」
「いなければいい。だが、疑わしき者がいるだろう―――ミクリ殿」
ぴくりと、それまで黙っていたミクリの肩が揺れる。
唇を引き結んでいたミクリに、エドモンは静かに言葉を投げた。
「私達が追っているのは黒髪に金の瞳を持つ女性だ。貴女もちょうどその条件に当てはまる。その上で魔獣の言葉を聞けるとも聞いた。……もう一度聞く、その鳥は本当に人を襲っていないと言ったのか? そして貴女は、今日一日どこで何をしていた?」
エドモンの鋭い眼光に睨まれながらも、ミクリは唇を結んだまま何も言わない。見かねたチャールズが、ミクリを庇うように彼女の側に行き、その肩を抱いて、彼女の顔をエドモンから隠した。
「閣下とはいえ、これはあんまりです! 彼女は傷ついた魔獣の声を聞いただけだ! 優しい彼女を疑うような真似はやめていただきたい!」
「疑うような、ではない。疑っている。証人が一人しかいないため調査は必要だが、そのために今日一日の動向を聞いているんだ」
「……っ、アリエル!!」
チャールズがアリエルに向けて怒鳴った。
アリエルはわずかに体を揺らしたけれど、相変わらず背筋を凛と伸ばして、空色の瞳を真っ直ぐにチャールズに向けていた。
そんなアリエルに、頭に血がのぼったらしいチャールズが好き放題言い出した。
「お前か!? お前が僕とミクリの関係を妬んでこんなことをしたのか!? お前が一人何をしようかもう既に僕の知ったことではないけれど、ミクリを巻き込むなんて性根が腐っている!!」
「そんな意図はございません」
チャールズの罵倒に、アリエルは冷静に言葉を返す。
「私はここにくるまで、犯人がミクリさんだとは思っていませんでした。ご存知のように、私は眼鏡がないとものがよく見えません。アモフィックスに攫われた時に眼鏡を落としてしまいましたから、私に分かったのは暗い色の髪に金の瞳の女性であること。それから女性の声だけでした。……その声も今ではミクリさんのものだったと確信していますが」
「お前……!」
チャールズが怒りに表情を歪めると、それまで黙っていたミクリが顔を上げた。それに気がついたチャールズがはっとしたように腕の中のミクリを見下ろす。
「チャーリー……これはなにかの間違いよ。私だって魔獣の声を聞けるなんて……」
「知っている。君がそんなことをするはずがないってことも。大丈夫、僕が守るよ」
チャールズに弱々しく訴えかけるミクリに、チャールズが誠実な表情で彼女を抱きしめる。その様子を見たアリエルは静かに視線を伏せた。
仮にも元妻の前だ。アリエルの前で愛人との愛を見せつけるように堂々と振る舞えるチャールズを見て、アリエルは何とも言えない気持ちになる。
チャールズに愛されたいと思ったことはないけれど、盲目的にミクリを信じるチャールズを見てしまうと、あれほど伯爵家に尽くしてきたのに自分への信頼が一欠片もないのだから、やるせなくなってくる。
「話が進まないな。それで、ミクリ殿は今日一日何をしていた?」
「……私、今日はずっと部屋の中にいて……」
「誰かメイドは共に?」
「ええと」
追求されてしどろもどろになったミクリが、ぎゅっとチャールズにしがみついた。チャールズは険しい表情でエドモンを見返す。
「閣下、ミクリが怯えます。彼女は自分の子を乳母に任せず、自分の手で育てています。今日は体調が悪いからと部屋で休んでいたのです」
チャールズの弁明に、ミクリもおずおずと頷く。
その様子を見ながらも、エドモンは厳しい追求を辞めることはない。
「私は誰かと共にいたのかと聞いている。いなかったんだな? 彼女が部屋にいたということを証言できる者は誰かいるのか?」
「……」
チャールズが苦々しい表情で口をつぐんだ。彼女の部屋は今日人払いがされていて、アモフィックスの騒動があるまで誰も近づいていなかった。ミクリが部屋にいたことを証明できる者は誰もいない。
チャールズが無言になると、おずおずとミクリがアリエルへと視線を向ける。
アリエルがその視線に気がつくと、ミクリはとんでもないことを言い出した。
「……お聞きください、皆様。皆様、その方……アリエル様に騙されています」
「なに?」
「アモフィックスが言っています。自分の主はアリエル様で、彼女に自分を巣穴に運ぶように指示されたと。―――アリエル様がアモフィックスに攫われたのは自作自演ですっ!」
アリエルはあまりの大嘘にぽかんと小さく口を開けて、そのまま開いた口が塞がらなくなった。まさかそんな嘘、誰も信じるわけないだろうと思っていると、騎士たちの中に動揺の声が上がっていく。
「自作自演……?」
「そうじゃなきゃ、あんなにうまく靴が落ちているのも……」
「都合よく白い獣がアリエル様を追いかけたのだって……」
騎士たちの囁き声に、アリエルは足裏からまるで悪寒が這い上がるような感覚があった。
それはまるで、チャールズの暴力にさらされていた、一年前の時と同じ感覚。
誰かの悪意がアリエルに向けられた感覚で。
「アリエルお前は……! そんなにミクリが憎いのか! 彼女に罪をなすりつけ、苦しめて、何がしたいんだ!?」
「チャールズ様、誤解です。私は何も―――」
「黙れ!! 父の言いつけで結婚したが、やはり離婚して正解だった! 僕にかわって伯爵家を乗っ取ろうとしていたのは知っているんだ! ミクリがいなければ、僕も兄上のようにお前に殺されていたのかもしれないな!」
「それは違―――」
「お前があの時死ねば良かったのだッ、この魔女風情が!!」
ずぐり、と。
チャールズの言葉はアリエルの胸の深いところに突き刺さる。
アリエルは口を開いて、何かを言おうとして、喉の奥に呼吸が詰まって、何も言えなくなった。
チャールズの言葉に、騎士たちもアリエルに対して警戒の色を見せ始める。
何も言い返さなくなったアリエルの顔は青褪めて、小さく指先が震えた。
アリエルが死ねばよかった。
それはアリエルの後悔だ。
ニコラじゃなくて、アリエルが死ねば。
そうすればニコラも、チャールズも、伯爵家の人たちも、幸せになれたのだろうか。
目の前が真っ暗になりそう。
だって、アリエルが、シーキントン伯爵家の歯車を、壊した―――……?
「何を言うのですかこのクズ男!」
異様な雰囲気に飲まれかけたその場に響いたのは、怒りに満ちた女性の声。
アリエルが迷子のようにおもむろに視線を上げると、騎士たちを割って、追いかけてきていたクララがマテューと一緒にアリエルの横に歩み出た。
「ク、クララ……?」
「聞いていれば好き放題っ! たとえ伯爵様といえども、人としての人格がお疑われになるような言動は慎まれたらどうでございましょう!?」
「なんだとお前……! 使用人風情が貴族に逆らって許されると思うのか!」
「たとえ私をここで処罰されるならそれでも大いに結構でございます! ですがその前に、ご自分の身を振り返ってご覧なさいませ!」
張り上げられたクララの声に、騎士たちもまた何が起きたかと息をひそめる。ミクリは顔をしかめていて、チャールズは怒りの表情を見せた。
「なんだと!?」
「そもそもお嬢様が伯爵家を乗っ取るとか、勘違いにもほどがありますよねー。だって伯爵が放棄した仕事を肩代わりしてただけなんですよ? お嬢様に乗っ取られるとか思っていたなら、自分でお嬢様にぶん投げた仕事くらいやるべきだったんじゃないですかー?」
チャールズが何かを言い出す前に、クララの隣に立ったマテューもおっとりと、でもしっかりと誰もに聞こえるような声でチャールズの落ち度を述べる。マテューは表情こそいつものように柔らかそうだけれど、その瞳の奥は笑っておらず、今までのチャールズの暴言に怒りを募らせていた。
チャールズがぐっ、と言葉に詰まらせるけれど、マテューだけでは止まらない。
「タウンハウスでの伯爵の暴力行為はすべて医師の手によって記録しております。アリエル様が受けた分のものも、我ら使用人が受けた分もすべて。使用人分はともかく、アリエル様が受けられたものに関しては一歩間違えると殺人になりかねないものもあり、訴えることも可能でした。それをお嬢様がしなかったことの意味をお考えくださいませ!!」
「でまかせだ!! くそっ、誰かそのメイドの口を閉じさせるんだ!!」
クララの言葉にチャールズが顔色を変える。
雲行きが怪しくなっていく当事者たちに、アモフィックスを取り囲む騎士たちの意識もそぞろになる。
何がどうしてこうなった。
混乱気味な騎士たちに気づかず、熱が上がっていくチャールズとコールソン子爵家の使用人たち。
アリエルは両者を止めるべく言葉をかけようとするけれど、言葉を出そうとするたび、喉の奥からヒュウと空気だけが抜けていって、思わず自分の喉もとを抑えた。
ろくに言葉も発せない自分が嫌になる。
そんな様子のアリエルを見下ろし、エドモンは瞑目した。
「―――双方、静かに。シーキントン伯爵の主張は理解した。コールソン子爵家の使用人たちの言葉もとても興味深い……が。今は私の質問に端的に答えたまえ。ミクリ・シーキントンが今日、この屋敷にいたという証明ができるものはいないか」
ぐっ、とまるで重力が直接かかったかのような圧をその場にいる誰もが感じた。
結局、ミクリがこの屋敷にいたことを証明できるものは誰もいない。エドモンは理解し、次の質問を答える。
「アリエル嬢の話では、アモフィックスを操った女性は笛を使用していたという。ミクリ殿。身体検査をさせて頂いても」
「閣下、それは侮辱が過ぎます!」
「静かにしたまえ。逆に言えば、これはミクリ殿の無実の証明にもなるのをなぜ理解できない?」
「……」
エドモンの正論に、チャールズもようやく言葉を引っ込めた。その表情には不満の一言がある。渋々うなずこうとしたチャールズに、ミクリはいやいやと頭を振りながらその胸にしがみついた。
「チャーリー、私、違うわ。どうして私、疑われているの? 私、ただアモフィックスが泣いていることを伝えたかっただけなのに……っ」
「可愛いミクリ。君の言いたいことはよく分かるよ。でも君の無実を証明するにはこれが一番手っ取り早いんだ。可哀想だけど、アモフィックスには犠牲になってもらうしかない」
チャールズに諭されて、ミクリは悲しそうな色をその瞳ににじませながら、こくりと頷いた。
「……そう、そうね。しかたないわ―――」
その時だった。
それまで大人しかったアモフィックスが、突如グッとその首を持ち上げた。
『ルァアアアアアアアアアアア!!』
つんざくようなアモフィックスの慟哭に、鼓膜がビリビリと痺れる。
その場にいた者全てが突然のアモフィックスの奇行に一瞬だけ身を怯ませていると、アモフィックスはのそりと身を起こし、その尾を使い、側にいた騎士たちを薙ぎ払った。間一髪で避けた騎士たちが、アモフィックスから距離を取る。
「総員、迎撃態勢! 非戦闘員を退避させろ!」
エドモンはそう叫ぶと、すぐ隣で呆然としていたアリエルをぐっと抱き寄せた。
「貴女も逃げるんだ」
「は、はい」
エドモンに言われ、背後に押されるように体の向きを変えられる。
その間もアモフィックスから視線をそらさないエドモンを一度振り返ったアリエルは、呼吸を落ち着け、逃げるために後ろへ下がる。
「お嬢様っ」
「クララ、マテュー!」
「とりあえず俺らは騎士たちの後ろに―――」
ピィィ!!
笛の音。
空の彼方にまで響きそうな甲高い音が、耳にこだまする。
三人が振り向くと、ボロボロの身体でアモフィックスは尾を使い、羽根を伸ばし、騎士たちを威圧して、その凶悪なあぎとをミクリへと向けている瞬間だった。
そのミクリはアモフィックスの目の前で何かを咥えている。それがアモフィックスを操っていた笛だとアリエルは理解した、けれど。
「笛……!? あれが魔獣を操るという笛でしょうか」
「いやー、でも待って、あの様子……」
クララが忌々しげに言うのとは対象的に、マテューが目を凝らしている。
アリエルもなんとも言えない違和感のようなものを感じていた。
ミクリは確かに魔獣を操った。魔獣の言葉が理解できるというのも本当なのだと思う。
でもどうしてだろうか。
ミクリに向けて、大きな顎をくわりと開くアモフィックスの姿はまるで。
「どうして言うことを聞かないの……!?」
主人を襲う、裏切りの怪物のようだった。