偽物の慈愛
黒い髪に金の瞳。母親譲りの愛嬌のある顔立ちに、他人にはない特別な耳と口。
幼い頃に魔獣に襲われたのを生き延びて以来、彼女は自分が特別な存在だと自負していた。
彼女は山で父と共に山の恵を探していた際、魔獣に襲われた。その際に父がその命と引き換えに魔獣を倒してくれたのだが、魔獣の血を身体中に浴び、あまつさえその血を口に含んでしまった彼女は、それ以来、女性にしては低い声と引き換えに魔獣と意思の疎通ができるようになった。
けれど、魔獣と言葉を交わせば普通の人からは奇異の目で見られ、不気味がられる。
彼女の母はその力に気がつくと、いつ娘が魔獣を喚び出すかという日々に恐怖を覚え、魔獣が存在しないような土地を探し、生まれた地を離れて各地を転々とした。
そうしてたどり着いた場所の一つがシーキントン伯爵領だった。
そこで出会った少年はたいそうひねくれ者なのに純粋で、母から厳しく躾けられていた彼女にとって、羽目をはずせられる相手になった。
家から期待されないことを嘆く少年の境遇は、魔獣と意思疎通できる力を隠すように厳しく言われていた彼女とよく似ていた。だからこそ、二人はうまがあったのかもしれない。母に似て愛嬌もあり、人の機微にも聡かった彼女はするすると少年の心へすり寄って、度重なる放浪で無理の祟った母が亡き後は、逃げ隠れする生活に終止符を打った。
幼い頃はままならないことも多かったけれど、今の彼女の人生は順風満帆だった。
彼女を愛した少年は今や周囲の土地を収める領主様で、この領地の中でなら誰も逆らうことはできない。彼との間に子供も恵まれて、盲目的に彼女を愛してくれている彼はとうとう邪魔だった貴族の女と離婚をしてくれた。
これで彼女も晴れて伯爵夫人。
悠々自適に生活をしながら、時折魔獣の声を聞き、彼らが腹を空かせれば野犬にするように餌をやる日々。
それまでは大人しくしていたものの、しばらく前に大物の卵が孵化してからは欲も出た。
世間を賑わす塵旋鳥アモフィックス。
この魔獣を討伐するため、とうとう騎士団が動き出した。
魔獣に餌をやるのに騎士団は邪魔でしかなかった。
けれどある日、彼女に天啓が降りる。
もし。もし、彼女がアモフィックスを一言で鎮めたら? ―――もしかしたら、今よりもっと素敵な生活が手に入るかもしれない。
そんな絵空事を思い描いてしまった彼女は、さらに積極的にアモフィックスに餌を取らせに行った。気に食わない奴らや邪魔なものはみんなアモフィックスの餌にしてやった。
それにアモフィックスの縄張りにもう一つ変異種のような魔獣の卵も見つけたので、嫌がらせついでに長年煩わされた面倒な女の領地に隠してやった。卵が孵化して魔獣の恐怖に混乱すればいいとほくそ笑んだ。その後は孵化した魔獣は適当なところで回収して、自分の下僕にするつもりだ。
後は様子を見て、騎士団の前でアモフィックスと卵の魔獣を鎮めてやればいい。そのタイミングはいつにしようかと思案していたところで、屋敷の外が騒がしくなった。
なんだろうかと窓の外を見てみようと彼女がソファから立ち上がるのと、扉がノックもなしに開かれるのは同時だった。
「ミクリ!」
「チャーリー? どうしたの?」
「ああ、ミクリ。すまない。ここは危ない。すぐに逃げよう」
夫のチャールズが大股で彼女の元までやってくる。ミクリと呼ばれた彼女は少年のような声で彼の愛称を呼び、こてんと首を傾げてみせた。
「逃げるって? 何かあったの?」
「騎士団の奴らがしくじった。庭に手負いの魔獣がいる。暴れる前に、ここを出よう」
ミクリはそのまま窓に寄る。カーテンをそっとめくって外を眺めてみれば、彼女の愛鳥が見るも無惨な姿でよろよろと屋敷に近づいてきている。
もう飛ぶのもつらいのか、屋敷の前に不時着し、そのままズルズルと屋敷に這い寄る魔鳥に、シーキントン伯爵家の使用人は口々に悲鳴を上げていた。
「……可哀想」
「ミクリ?」
ミクリは窓から離れると、廊下に出た。
その脳裏には色々な計算が駆け巡る。
ミクリの欲を満たす、絶好の機会がやって来た。
あの可哀想なアモフィックスに声をかけてやろう。魔獣も命があると説いて、あのアモフィックスを手懐ける姿を見せたら、人はどう思うだろう。騎士団も来ているみたいだから、彼らが苦労してここまで追い込んだアモフィックスが従順な姿を見せれば、自分のこの特別な力を畏れて崇めてくれるに違いない。
ミクリはそれらを瞬時に思考すると、パタパタと廊下を駆けて屋敷の外に出た。チャールズがミクリの名前を呼びながら追いかけてくるけれど、ミクリはそれを無視した。
そして屋敷の扉を開いて外に出る。
アモフィックスを追いかけてきたのだろう騎士たちが庭で魔鳥を取り囲んでいるところに、ミクリは転がるように飛び出した。
◇ ◇ ◇
アリエルはその場所が近づくにつれ、もしかしてという気持ちが膨らんでいた。
そうしてとうとうアモフィックスがシーキントン伯爵家の庭にいるのを見つけた時、その考えに確信を持つ。
「閣下」
「どうした」
「アモフィックスを操っていたのはもしかしたら、ミクリという女性かもしれません」
アリエルの言葉に、エドモンは腕の中の彼女を見下げる。ミクリという名前は最近どこかで聞いた記憶があった。あれは確か。
「……シーキントン伯爵の後妻か」
「知っていらっしゃったのですね」
「アモフィックスの件で、シーキントン伯爵邸に行った時にな」
あまり良い印象を持たなかった女性だった。良くも悪くも、平民上がりの、貴族の義務を知らなさそうな箱入り娘だった。
「私も一度しか会ったことはありませんが、彼女と会ったのは私が髪を染めるようになってからです。眼鏡もかけていましたし、たぶんそれで……」
「なるほどな。髪色も黒に、瞳は金だった。貴女の言っていた特徴にも当てはまるが……さて」
シーキントン伯爵邸の門前で、エドモンは馬の速度をゆるめた。お屋敷が騒然とする中、馬を堂々と闊歩させていくと、突然耳に中性的でありながらヒステリックな声が聞こえてくる。
「おやめください! こんなにも怯えているではありませんか!」
その声にアリエルは確信する。エドモンを見上げれば、エドモンは一つ頷いて、さらに人の集まるその場所へ近づいていった。
アリエルとエドモンの姿に騎士の一人が気づく。エドモンは馬から下りて、アリエルも馬から下ろした。馬を騎士に預けると、人だかりをかき分けて騒ぎの中心へと入っていく。
「魔獣だって命があるんです! それをこんな! こんな風に痛めつけるなんて、可哀想だとは思いませんか!」
騎士たちをかき分けて声のする方へと歩み寄ると、黒い髪を丁寧に結い上げて、大きな金色の瞳を潤した女性が、アモフィックスを庇うように剣をかまえている騎士たちに向かって叫んでいる。
「ミクリ、危ないよ。どうかこちらへ戻っておいで」
「嫌よ、チャーリー! だって私がここをどいてしまったら、この子はきっと殺されてしまうわ!」
「ミクリ……。でも、それは魔獣だ。危ないんだ」
「魔獣も生き物なのよ! 死にたくないって、どうしてこんなことするのって、この子も泣いているわ!」
涙に訴えるミクリに、説得をしようとしていたチャールズが怯んでいる。
アリエルが状況を察して声をかけるよりも早く、エドモンが先に一歩を踏み出した。
「これは何事だろうか」
「か、閣下っ?」
「公爵様!」
エドモンの姿を見て、チャールズが顔を引き攣らせる。反対にミクリが無邪気に表情を輝かせた。
「公爵様! 聡明な公爵様ならご理解いただけませんか?」
きゅっと胸の前で指を組み、ミクリは切なそうに瞳を伏せる。まるで何かを祈るように、ミクリは言葉を紡いだ。
「この魔獣はきっと悪いことも沢山してきました。けれど家畜を襲ったのだって生きるために仕方のないこと。魔獣だからといって討伐するのはあんまりです。これからは人間たちの育てる家畜は襲わないと言っています。だからどうか、ここは見逃してあげてくれませんか? こんなにひどい怪我をして泣いているのに、可哀想だとは思いませんか」
うるうると瞳をうるませて、ミクリは切実に訴える。
その様子に騎士たちも絆され始めたのか、戸惑ったような雰囲気が周囲に広がった。
対するエドモンはしかとミクリを正面から見据えた。
それからアモフィックスとチャールズにも視線を向ける。
アモフィックスはもう息も絶え絶えで力なくうなだれていて、チャールズはこわばった表情でミクリとエドモンを凝視していた。
「……もしこの鳥が普通の獣であれば、一度くらいは見逃しただろう」
「それなら!」
「だが、そんな段階はとうに過ぎた。あまつさえ、この魔鳥は人をも襲った。野放しにはできない」
「そんな! なにかの間違いです! この子、こんなに優しい子なのに!」
「……先程から思っていたが、その口ぶり、魔獣と話せるのか?」
食い下がるミクリに、エドモンがふと思った疑問を口にすれば、彼女は大袈裟なくらいに驚いて、口元に手を当てた。
「まぁっ、私ったら……! 今、気づきましたわ。私、魔獣の声が聞こえるみたいです」
はにかむミクリに、エドモンは冷めた目を向けた。
ミクリの言葉は嘘だった。
エドモンは人に比べて直感のようなものがよく働く。そのエドモンの勘が、今のミクリの言葉は嘘だと告げていた。
魔獣の声が聞こえるのは間違いないのだろう。魔獣を操れるのであれば、声を聞ける可能性は十分にある。だが「今気づいた」というのは芝居がかりすぎていて全くの嘘に聞こえた。
「では、魔獣に聞いてみるといい。本当に人を襲っていないのかと」
「当然です。だってこんな可哀想な子が今ここで嘘をつく理由なんて―――」
ミクリが話す途中で、アリエルは一歩前に踏み出した。
騎士たちの間からアリエルが抜け出すと、ミクリの金色の瞳がまん丸に開かれていく。
「あ、なたは」
「ご無沙汰しております、ミクリさん。……いいえ、ミクリ様とお呼びするべきでしょうか。先程はご挨拶もできず、申し訳ありませんでした」
アリエルはエドモンの横へと並び立つと、背筋をピンと伸ばして、ドレスの裾をつまみ、右足を後ろへと滑らせて腰を落とす。
美しく凛とした完璧なカーテシーに、その場の誰もの視線がアリエルに釘づけになる。
カーテシーひとつだけでこんなにも存在感を主張するのは、アリエルのような生粋の淑女であればこそ。
アリエルは視線を落としたまま、口上を述べる。
「改めてご挨拶申し上げます。コールソン子爵が娘、アリエルにございます。ミクリ様におかれましては、ご子息もお生まれになられたとのこと。このような場ではございますが、遅ればせながらお祝い申し上げます」
どこまでも慇懃な態度のアリエルに、ミクリの目の色がみるみるうちに変わる。ふるふると体も震え、ぽってりとした赤い唇はきゅっと一文字に引き結ばれた。




