空を飛ぶ牛と羊論争
不思議なことに、魔獣の姿はアリエルにだけ見えていた。
調べると、アリエルの見た怪鳥の名前は塵旋鳥アモフィックスという、風景に溶け込む擬態能力を持つ鳥型魔獣であることが分かった。
コールソン子爵領ではすでに三度、アモフィックスによる被害が起きている。牛が二頭と羊が一頭。一回はアリエルが牧場にいた時だが、残り二回は空飛ぶアモフィックスが南から来て、牛や羊を捕って同じ方向へ飛んでいくのを見かけた。
不思議とアリエル以外、子爵領の誰も、擬態化したアモフィックスに気付かなかった。何が違うのだろうと、アリエルは首をひねる。たぶん、この謎が解ければ、父から聞いた難航するアモフィックスの調査ももう少し進むと思うのに。
姿は見えて、自分は役に立つと思うのに、流石に父も娘を調査に使おうとはしなかった。本当に切羽詰まれば要請されるだろうけれど、今はまだ要請はされていない。
なのでアリエルは最近、空を見上げながら日常を過ごすことが増えていた。少しでもアモフィックスの影を見つけられたら、すぐに父に教えられるように。
今も孤児院の前庭で洗濯物を干す手伝いをしながら、ぼんやりと空を見上げているアリエルを見て、アリエルの周りにいる孤児院の子供たちも不思議そうに空を見上げている。
「おじょーさまー、お空になにかいるの?」
「ぼく知ってる! 牛がとぶんだよ!」
「ちがうよー、羊がとぶんだよ」
アモフィックスが襲った家畜を連れ去っていくところは、領民のほとんどが一度は見ていた。子どもたちの中では空を飛ぶ牛、空を飛ぶ羊論争が繰り広げられ、今はやや牛派が多かった。
「おじょうさまはどっちだと思う!?」
「牛だよね! 牛とぶもん!」
「羊だもん! 羊がとんだの見たもん!」
ほのぼのとした子供たちの会話に、アリエルは微笑ましくなってゆるりと口元をゆるめた。
「どっちも飛ばないわ。鳥さんがね、ひょいっと牛さんと羊さんを捕まえて飛ぶのは見たけれど」
「おじょうさまのうそつきー。そんな大きな鳥いないやい!」
「本当よ?」
子供たちにやいのやいの言われながら、アリエルは止まっていた洗濯干しを再開させる。さすがに洗濯そのものはさせてもらえず、そちらの手伝いはクララが行っていた。アリエルはクララや孤児院の先生たちが洗った服やシーツを、子供たちと一緒に干していく。
ここの孤児院に住む子供の半数は、アリエルが離婚した際にシーキントン伯爵領から連れてきた子達だ。あのチャールズが孤児院の経営まで手を回してくれるのかは不安だったし、元はアリエルが始めたことだったから、アリエルが責任持って面倒を見なければと思い、子爵領へと移させた。
子供たちの順応さはアリエルも驚くほどで、伯爵領から連れてきた孤児院の子たちは、元から子爵領にあった孤児院の子供たちと仲良く暮らしてくれている。それでも変わらずアリエルに懐いてくれているのは、心底嬉しいものがあった。
シーツを干しながら、子供たちの口ずさむ童歌を一緒に口ずさめば、子供たちは嬉しそうにきゃあきゃあと笑った。
そうしてアリエルが籠の中の洗濯物を干し終わると、次の籠を受け取りに、二人の子供が洗濯場へと走っていく。それを見てほっと息をついていると、不意にガラガラと車輪の回る音がした。
「わー、すごい、りっぱな馬車だ!」
「かっこいー」
二人の男の子が目をキラキラとさせて、孤児院の前に停められた馬車に声を上げる。まだ幼い女の子は馬が怖いのか、きゅっとアリエルのドレスのスカートを握って、後ろに隠れてしまった。
アリエルはその見覚えのある馬車にどきりとする。馬車の主が降りてくる前にと、子供たちに声をかけた。
「三人とも、孤児院の中へ入りなさい」
「えー、なんで」
「お客さまなら、おでむかえするよ?」
「あの人は貴族だから。私が一度ご挨拶するから、あなた達は一度戻っていてね。お仕事ができたら、また呼ぶから」
二人の男の子はつまらなさそうな顔をしたけれど、妹分の女の子が不安そうに二人の手をきゅっと握ると、ハッとして孤児院の建物に入っていく。正義感の強い男の子たちで良かったと、アリエルは微笑んだ。
「アリエル。お前はいつから僕に尻を向けて挨拶するようになったんだい。淑女の鑑と呼ばれたお前が、とんだ失礼だな」
子供たちが孤児院の建物に入ったのを確認すると、ちょうど背中から声がかかる。明らかに不機嫌なその声に、アリエルはすっと表情を引き締めて振り返る。
「失礼いたしました。幼い子供たちが転ばないか気になったものですから、お許しください」
「僕よりあんな薄汚い子供のほうが大切だと?」
「孤児だろうと領民です。彼らが大人になったとき、子爵領を豊かにする手助けをしてくれるのですよ」
「……気に食わない」
振り返った先にいたチャールズは、声の通り不機嫌そうな顔をしていた。イライラしているのか眉間の間にシワが寄りっぱなしだし、榛の瞳の下には隈がひどく、雰囲気がひどく重たい。
「……大丈夫?」
「大丈夫だと? どの口が言う。お前のせいで、僕は散々なことになっているんだぞ……!!」
ギラッとしたチャールズの視線に、アリエルは口を閉ざした。何を言っても火に油を注ぎそうなチャールズの様子に、アリエルはかける言葉を模索する。
「……申し訳ありませんが、心当たりがありません。私のせいというのならその埋め合わせをしたく思いますが、いったい私はチャールズ様にどんなご迷惑をおかけしていたのでしょうか」
言葉を選んだつもりではあったけれど、そのアリエルの無知な言葉はますますチャールズを怒らせただけだった。
「とぼけるのか!? お前がいなくなって伯爵家の財産は半減するし、領地の奴らは僕を舐めているのか、あれやこれや文句を言うばかりで仕事をしない! 仕事をしろと言えば、お前が領主だったらいいのにと陰口を叩く無礼者までいる! お前のせいで僕の領地がめちゃくちゃだ……!」
アリエルに怒鳴るチャールズに、アリエルは困惑したように言葉を返す。色々と言いたいことはあったけれど、何やらチャールズがしている勘違いだけは正しておく必要がありそうだ。
「とぼけるもなにも、伯爵家の財産に関しては、私が父から継いだ子爵領での牧場経営分やその他諸々が含まれていましたから。離婚したことでそれがなくなるのは当然です」
「それが納得行かない! コールソン子爵領はうちの領に統合されるはずだっただろう! なんで僕の名義になっていないんだ!」
さすがのアリエルもこれには呆れた。
確かにコールソン子爵領はシーキントン伯爵領に統合される話が出ていたし、本来であればアリエルが経営をしていた牧場も、結婚を機にチャールズの名義になっていたはずだった。
だけどそうならなかったのはアリエルのせいではなく、チャールズ自身の行いによるもの。
領地統合に関してはそもそも離婚すれば無効になるような契約だったし、牧場の名義がチャールズに切り替わっていないのは、結婚当初に渡した名義変更の書類にチャールズが目を通していなかったからだ。
いつまで経っても返されない書類に気づいていたものの、アリエルはチャールズの方で他諸々の手続きは済ませたのかと思っていた。だから今回の離婚騒動でチャールズに譲ったはずの牧場の名義が自分のままだったのにはアリエルも驚いていたくらいだった。
それ以外の領民の態度のことだって、チャールズの身から出た錆だろう。アリエルは領地にこそいなかったものの、領民からの苦情や陳情はきちんと処理し、領民たちの仕事の壁になるものは極力排除して、仕事のしやすい環境を作るように努めていた。近くに住み、それらを目の辺りにしていたはずのチャールズだが、それらを全て切り捨てれば、領民の不満が出るのは仕方がない。
アリエルが丁寧に伯爵領を取りまとめていた横で、チャールズは一体何をしていたのだろうか。さすがに愛人と戯れていただけとは考えにくいけれど、良き領主としての心構えや行いがあまりにも見えなさすぎる。
アリエルは去来してくる思いをぐっと隠して、おもむろに口を開いた。一つ一つ、チャールズを諭していくしかない。
「……お言葉ですが、領地の統合に関しては私がチャールズ様と結婚し、父が亡くなった後の話です。父が亡くなる前に離婚が成立した場合はその限りではないと、前伯爵より聞いておりませんか?」
「知らない! そんな後付けの条件を今更言われたところで無効だろう!」
「後付けではありません。私とニコラが婚約した頃に交わされた、婚約条件の項目の一つです」
「っ、兄の名を呼ぶなと言っているだろ……!」
チャールズの目が憎悪に満ちる。
「気に食わない……! シーキントンの誇りだとかいうそのブロンドも、その青い目も! 僕を小馬鹿にしたようなその眼鏡も!」
アリエルが自分の失言に気がついたときには、チャールズの手が伸ばされ、逃げる暇もなく眼鏡が奪われ、地面に捨てられていた。
至近距離に来たチャールズが痛いくらいアリエルの肩を握り込む。爪を立てられて、アリエルの顔が痛みで歪んだ。
「哀れんでほしいのか!? 償ってほしいのか!? お前の目が悪いのは僕のせいだと言いたいのか!?」
「そんなつもりは……っ」
「うるさい!」
視界がぼやけていても、目の前にいる人物がその手が振り上げるのはよく分かった。
殴られる。
長年の習慣のせいか、脳裏に孤児院の子供たちの姿がよぎる。もし自分がここで逃げたら、孤児院の子たちに被害が及びかねないと考えてしまったアリエルは、目をつむり、暴れることなく、チャールズの暴力へと備えた。
けれど、その衝撃はいつまで経ってもやってこない。
アリエルは訝しげにまぶたを押し上げると、人影がもう一つ増えているのに気がつく。
「……女性への暴力は感心しないな」
お腹に響くような低い声。
甘くて苦いジュニパーの香りが鼻をくすぐる。
聞いたことのあるような声だけれど、眼鏡のないアリエルには相手の顔がよく見えない。それでもその声の主がチャールズの振り上げている手を留めてくれているのは分かったし、その人物にチャールズがひどく動揺しているのも伝わってきた。
「な、貴方は……!?」
「事情は知らないが、女性へ暴力を奮う前に、第三者を仲介して話し合うことをおすすめする。……それとシーキントン伯爵、貴方の領地には今頃、国から使者が来ているはずだ。マナーハウスへ戻りなさい」
「……っ」
不利だと悟ったのか、「失礼する!」と言ってチャールズの茶色い頭がさっさと去っていった。
一連の流れをぽかんとして見ていたアリエルは、慌てて助けてくれた人に頭を下げてお礼を述べた。
「お見苦しいところをお見せして、助けてまで頂いて、ありがとうございます。お手数をおかけいたしました」
「いや、いい。なかなか厄介な人物に詰め寄られていたようだけれど、大丈夫だろうか。もし私でよろしければ、話を聞くが」
「いいえ、そこまでしていただくのは申し訳ございませんから」
そうか、とぼやく人物に、アリエルは心からの笑みを浮かべた。
「お礼をしたいところですが、あいにくここでは……家に戻りましたらお礼もできるのですが」
「いや、いい。ここには用事があってきた。アリエル・コールソン子爵令嬢はこちらに見えるだろうか」
目の前の人物から名前を呼ばれ、アリエルは目を見張る。
「アリエルは私ですが……」
「なに?」
知り合いだろうかと慌てて眼鏡を探す。チャールズに投げ捨てられたワインレッドの縁取りがされた眼鏡を探していると、目の前にいた親切な人物が眼鏡を拾って渡してくれた。
「探しものはこれだろうか。……すまない、ヒビが入ってしまった」
「いえ、これだけで済んで良かったのです」
眼鏡を受け取り、ようやく目の前の人物に視線を向ける。
そうして助けてくれた人物をはっきりと正面から見たアリエルは信じられないくらいに目を丸くし、そのすぐ後には顔を青ざめさせた。
まず目に映ったのは、剣のように鈍く輝く銀の髪。一つに束ねられた髪を今は肩ではなく背中へと流し、ルビーの瞳は気高く厳格な色を持っている。
身にまとう服は王立騎士団の制服で、伯爵夫人として数回出席した式典の際に見た、団長のみが着用を許されるという長いマントが風にはためいていた。
軍神公爵エドモン・ジラルディエール。
二度と会うことないと思っていたその人が、じっと困惑した表情でアリエルを見下ろしていた。