脅かされる平和
チャールズの訪問からしばらく経つと、牛の放牧の季節になった。
春から夏にかけて涼やかな気候が長く続く子爵領では、放牧の期間は他に比べて長い。羊はもちろん、牛たちも太陽の下をのびのびと歩ける、良い季節だ。
アリエルは放牧が始まった牧場を訪れると、牧草地でのんびりとくつろぐ牛たちに紛れながら、日向ぼっこや散歩を楽しんだ。
「私、王都のきっちりと型にはまった生活もやりがいがあって楽しかったけれど、やっぱりここに戻ってくると、草原の匂いと空の青さが恋しかったんだって思うわ」
「草原というよりも牛の匂いでは?」
「ふふ、そうかもね」
アリエルが気まぐれに牧歌を口ずさむと、牛たちは耳を傾けるように近づいてきて、のんびりとアリエルのそばでくつろぎだす。アリエルのことを気に入ってくれているような牛たちに、アリエルはおっとりと微笑んだ。
牛たちがうっかり柵の外へと出たり、喧嘩をして怪我をしないように、のんびりと見張りをする。ゆったりと流れていく時間を、アリエルとクララは最近覚えたばかりの牧歌を口ずさんだり、他愛ないおしゃべりをして過ごした。
あたり一面の緑に点々とする白と黒の牛と、空の彼方まで広がる澄んだ空。
穏やかな時間を過ごすうちに、アリエルはふと一年前のことを思い出した。
この時期はちょうど、かの軍神公爵様と数日のダンスレッスンをした頃だ。王都でマナー講師やダンス講師として引っ張りだこだったアリエルだけれど、公爵閣下のダンスの手ほどきをする名誉を得られたのは本当に誇らしいことだと思ったものだ。
公爵閣下のダンスを思い出す。機敏で、優雅さの欠片もなかった閣下のダンスだが、デビュタントの王女のパートナーはきちんと務められただろうか。閣下を思い出すと同時、他にもダンスやマナーを手ほどきした生徒たちの顔が浮かんでくる。
一年前は嘘をついて、挨拶もそこそこに王都を出たことを申し訳なく思っていた。離婚も成立し、社交界に顔向けはできないと思っていたけれど、一年たった今は、仲の良かった侯爵夫人のベリンダくらいなら、こちらでの生活を綴った手紙を送っても良いのではないだろうか。
そのことをクララに話せば、クララは笑顔で賛成してくれた。
「よろしいと思います。侯爵夫人もさぞかし気を揉んだことでしょうから、ぜひ送って差し上げましょう」
「そうね、そうしましょう」
そうとなれば便箋を用意しなければ。
侯爵夫人に送るに相応しく、淑女らしい気遣いと気品に溢れた便箋。子爵家が懇意にしている商会に、ちょっと相談してみよう。
やりたいことができれば、アリエルの気持ちはますます上向く。空を見上げて手紙に綴りたいことを記憶の中からより分けていれば、ふと大きな鳥のようなものがこちらに近づいてくるのを見た。
「まぁ。あれは何かしら。鳥? 珍しいわね」
「え? どこです?」
「ほらあそこ」
アリエルが指を差す方を見たクララが、じっと目を凝らす。
「見えませんが……」
「あら、いるでしょう? ほら……ん? あら? 大きい……?」
アリエルは目を凝らすと、小さく見えていた鳥が、実は遠かっただけで、とんでもなく大きいのではと気づく。明らかに牛より大きく見える鳥がぐんぐんとこちらに近づいてきている。
「く、クララ? 本当に見えないの?」
「お嬢様……?」
焦るアリエルに、クララは困惑の表情を向けた。
どうしてクララには見えないのか分からないアリエルだけれど、あの大きな鳥が真っ直ぐに―――そう、牧場をまっしぐらに目指しているのにははっきりと気がついた。
「クララ! 牛を厩舎に……!」
「お嬢様!?」
鳥の形がよく見えるくらいにまで近づいてきている。ゆらゆらと空の青に紛れながらも、ギョロリとした目玉は大きくて、全身が鱗に覆われているのがわかる。鱗と風切羽の色は光の反射で微妙に色を変え、何色なのか説明もつかない。
奇怪な姿をした、鳥とは言えないようなそれに、アリエルはようやく見ていたものが魔獣の一種なのだと思い至る。
咄嗟に牛たちを厩舎に戻そうとするけれど、どう考えたってすぐそこまで迫って来ていた怪鳥が牧場に突っ込む方が早かった。
ゴウッと嵐のような暴風がアリエルとクララを襲う。なんとか二人で支え合うようにその場で踏みとどまると、すぐそばにまで来た怪鳥は、アリエルたちの傍でくつろいでいた牛を一匹、その丸太のような足で捕まえて連れ去った。
ごくごく至近距離で行われた魔獣の餌取りに、さすがのアリエルも、突然牛が飛んだのに驚いたクララと一緒に腰を抜かしてしまった。
牛たちも今の出来事に驚いたのか、もぅもぅ鳴いてほうぼうに逃げようとする。
「お、お嬢様」
「クララ……」
生きた心地のしなかった一瞬の出来事に、しばらく茫然としていたアリエルは、クララの声にようやく我を取り戻す。
アリエルは一つ大きく深呼吸をした。
自分がしっかりしないと。
「クララ、牛を厩舎に戻しましょう。それから今のことをトニーさんに説明して、騎士団の派遣についてお父様にも相談しないと」
「かしこまりました」
クララはアリエルの言葉にすぐさま行動した。
興奮している牛たちをなだめすかし、一匹ずつ厩舎に戻していく。アリエルはその間に、厩舎の掃除をしていた牧場主のトニーへと今の出来事を話した。
魔獣が現れ、家畜を襲った。これが一回だけで済めばいいけれど、魔獣も賢い。ここに餌がいっぱいあると覚えて、あの怪鳥は再び現れる可能性は高い。
各牧場主には通達を出し、家畜の放牧に十分注意を払うようにしてもらう。その間に父には相談して、あの怪鳥の動向を調べてもらい、必要なら騎士団の要請。今後子爵領に被害がなくとも、被害報告は上げてもらわないといけない。
急に慌ただしくなったアリエルは、領主の家の者として自身に喝を入れた。
◇ ◇ ◇
雪解けの季節を迎えてしばらくすると、王立騎士団の仕事も忙しくなる。
次の社交シーズンに向けた貴人の護衛の割り振りだけではなく、雪に埋もれて動きが鈍くなった魔獣たちも活性化し、突発的な討伐任務も舞い込むようになるためだ。
王立騎士団の団長であるエドモンは、近衛騎士の仕事と討伐任務の仕事も全て統括する立場にあり、日々を忙しく過ごしていた。
特に今は、塵旋鳥アモフィックスの目撃情報が度々上がっている。どこから現れたのか、その魔獣は各領地を点々とし、家畜や人を襲っている。
被害は北の地域一帯で起こっているようで、次の予測進路方向であるシーキントン伯爵領付近で、ぷつりと目撃情報が途切れていた。
被害報告のあった領主たちから事情を聞いて、騎士団を各地に派遣しては、アモフィックスの調査に当たらせている。だがアモフィックスは擬態能力が非常に高く、自らの身体に生えている鱗の色を変えられるので、調査は非常に難航していた。
予想進路方向にあった領地を管轄するシーキントン伯爵には、事前に調査協力の要請をしてある。もちろん、魔獣はランダムに出現しているので、この予測が当たるとも限らない。それでも最後の目撃証言からはシーキントン伯爵領の方へ向かって行ったとあるので、次の被害がシーキントン伯爵領になる可能性は非常に高かった。
「後手後手だな。伯爵はどうだ?」
「返事はありません。早馬を出してもう一週間も経ちますが、連絡が届いていないのか、返答を出せない状況にいるのか不明。昨日追加で出した早馬には伯爵領の状況を報告するようにと伝えてあります」
国王ダビデの言葉に、エドモンは神妙な面持ちで答えた。その報告を聞きつつ、宰相のロビンは騎士団から上がってきていた魔獣の被害報告書や調査報告書に目を通す。
「アモフィックスとは厄介ですね。姿が見えず、すぐそばで旋風が起きて、ようやくその存在に気がつく……。まだ一処にいるのであれば、ねぐらにいるのを狙えばいいのですが、目撃範囲が広すぎるのが面倒ですね」
「全くその通りだ。図体が大きいというのに、砂金を探すよりも難しい」
「サイズの確認は取れているのですか?」
「牛を一頭持っていったそうだ。それなりに大きいぞ」
ロビンの冷静な指摘に、エドモンが苦虫を噛み潰したような表情になる。そのエドモンの言葉にひょいっと眉をあげたロビンの問いには、ちょうどそれらの書類に目を通していたダビデが答えた。
エドモンが大きくため息をつく。
「一番最初に目撃情報のあったマギーア侯爵領は徹底的にあらったが、瘴気の元凶が見つからない」
「ふむ……他の領地にあるとしたら、捜索範囲が広すぎる。アモフィックスを討伐しても、瘴気を浄化せねば元も子もあるまい」
瘴気は何から生まれるのかは分からない。腐った植物や獣の死骸から生まれることが多いとされているが、必ずしも生まれるとは限らない。その法則性は未だに不明だ。
瘴気がある限り、魔獣は増える。瘴気を浴び続けた獣が産んだ子が魔獣となって生まれてくると言われているため、もし多産の獣が瘴気に染まった場合、町や村が滅ぶこともあるという。
だからこそアモフィックスの討伐と同じくらい早く瘴気の元を探さなければならないのだが、それが現実的ではないのが現状だった。
「アモフィックスは危険深度が四位の魔獣。アモフィックスの討伐任務に人が割かれている以上、瘴気の捜索に割ける人員が多く取れません。アモフィックスが早くに討伐できれば、瘴気の捜索ももう少し広く人材を派遣できますが……」
魔獣の危険深度は一位から五位まであり、数字が小さいほど危険度が低い。アモフィックスは高度な擬態能力を持つため討伐の難易度が高く、自然と危険度や被害レベルも高くなることが多かった。
ロビンの言葉に、エドモンもダビデもため息をつく。
そんなことは言われなくとも分かっている。危険深度四位の魔獣程度、軍神公爵と呼ばれるエドモンならば本来、一人でも立ち向かえる魔獣だ。だが居場所が不明である以上、騎士団長がいつ終わるのか不明な長期任務で向かうのは、現地の人々に余計な心配と不安を与えかねない。
やはりここは地道に捜索を進め、機を待つしかないのだろうか。
国王の執務室で、三人がそれぞれに頭を悩ませていると、突然執務室にエドモンへと急ぎの伝令がやってきた。
「失礼いたします!」
「どうした」
「アモフィックスの新たな目撃情報です!」
執務室に緊張が走る。
ルビーのような赤い瞳を鋭くさせたエドモンは、入室した伝令の騎士へと話を促した。
「アモフィックスはコールソン子爵領にて、三度、牧場の家畜を襲撃。全てシーキントン伯爵領の方面より現れ、同じ方向へと飛び去ったとのことです!」
「見たやつがいるのか?」
エドモンへの報告を聞いていたダビデが目を丸くしている。ロビンも訝しげに報告をしている騎士を見た。
エドモンだけが冷静に騎士の報告を聞く。
「目撃者は誰だ」
「コールソン子爵令嬢です」
「兄上」
エドモンはちらりとダビデを見やった。
ダビデはエドモンの顔を見ると、少しだけ思案する素振りを見せる。
「……移動含めて二週間だ。それ以上かかるようなら、一度戻れ」
「承知しました」
「ロビン、シーキントン伯爵に王家から口の回る行政官を使って使者を出しておけ。エドモンがアモフィックスを討伐している間に、何が何でも捜査協力を取りつけさせてやれ」
「御意」
国王ダビデの裁量で、騎士団長エドモンと宰相ロビンに仕事が割り振られた。
決まった以上、速やかに王命を執行しなければならない。
「この後すぐに王都を立つ。何か進展があれば早馬を飛ばします」
「ご健闘を。まぁ、貴方の腕なら心配はありませんが」
「そうだな。お前は昔から強かった。……その剣で私の民を守ってやってくれ」
ロビンの激励と、兄からの願いを託されて、エドモンはこっくりと頷く。
そうして踵を返すと、急ぎコールソン子爵領へと立つ支度を整えるため、国王の執務室から退室したのだった。




