羊毛刈りの日
あれこれと忙しなく過ごしていると、季節が過ぎるのはあっという間だ。
アリエルがチャールズと正式に離婚し、コールソン子爵領に出戻って一年近く。
アリエルは童心に返ったようにのびのびと領内を駆け回っていた。
夏は放牧された牛たちに囲まれて彼らの世話をした。その合間に牛たちのための寝藁を小麦農家と一緒になってかき集め、サイロと呼ばれる煉瓦の塔に飼料を詰めては牛の餌を貯蓄した。
秋は小麦農家の種まきを手伝いに方々に走った。種まきの手伝いに小麦を分けてくれるので、その小麦を孤児院に差し入れては、特産のバターをたっぷり使ったパンを焼き、子供たちとふかふかで焼き立てのパンに舌鼓を打った。
雪深くなる冬はせっせと牛たちの厩舎の掃除を手伝う。冬の楽しみはあまりないけれど、温めた搾りたてのミルクは濃厚だったし、聖夜には手作りのチーズをふんだんに使ってチーズフォンデュのパーティーを開き、孤児院の子供たちにささやかな贅沢をさせてやった。
この一年、夫が見るのも嫌だと言って染めていたアリエルの髪も、今ではすっかり美しい黄金の麦穂の色を取り戻していた。王都にいた頃のようにきつくひっつめることもしなくなり、今は村娘に流行りのポニーテールにして、人目をはばかることなく風になびかせている。
相変わらず空色の瞳にはワインレッドの眼鏡がちょこんと収まっているけれど、麻のワンピースを身にまとい、エプロンをつけ、ヒールのない柔らかいブーツを履けば、アリエルはすっかりと村娘にとけ込んだ。
まるで少女のように丘を駆け巡り、笑顔で牛たちと戯れるアリエルを、子爵領の領民たちは昔のように受け入れてくれた。
アリエルの両親たちは、クララから聞いたシーキントン家での仕打ちを聞き、ともするとアリエルがふとした拍子に失われる恐怖と紙一重だったことに気づいて、ひどく心を痛めた。結婚してから張り詰めた糸のように気の休まることのなかった娘に、花が咲くような笑顔が戻って、この結婚が娘にとって何一つ良いものではなかったのだと悟っていた。
コールソン子爵夫妻はアリエルに何も言わないけれど、社交界ではシーズンがすっかりと終わった夏の終り頃から、シーキントン伯爵夫妻の離婚で話が持ちきりだった。
子爵夫人である母がそれとなく王都のご友人に話を伺うと、仲睦まじそうに見えたシーキントン伯爵夫妻の離婚はまさに寝耳に水だったようで、あれこれと事実を確認しようと聞かれる始末。
アリエルが王都でマナー講師やダンス講師として活躍していたこともあり、そんな彼女の突然の病気療養話に心配する声も多かった。そしてそれを支えずに離婚という選択を選んだシーキントン伯爵への評価も、少し変わりつつあるようだ。
とはいえアリエルの両親は、せっかくのびのびと過ごすアリエルにこんな話を聞かせて、責任感の強い彼女を変に気落ちさせるのは望むところではなかった。これらのことはアリエルに伏せられ、アリエルの耳に入ることのないように配慮がされた。
そんな両親や領民の温かい優しさの中で、アリエルは時間を忘れて自分らしく日々を生きている。
ついこの間まで雪がずいぶんと積もっていた子爵領だが、すっかりと雪も溶け、春の温かい風が吹き始めた。
アリエルは今日も青々しい草原を駆け回る。
そんな春の始めの今日は、牛ではなく、羊たちのお世話の日。
もこもこした冬毛羊の毛刈りの日だ。
寒い冬を経てもっこもこになった雄羊。そんな羊を一匹丸っと抱えて、アリエルはざっくざくと羊の毛にハサミをいれていく。
刈り取った羊の毛の塊は、お供をしていたクララが近くの籠にぽいぽいっと放り込んだ。
「お嬢様、楽しそうですね」
「楽しいわ。ほら、すっきりした。お行き」
時間はかかるが、アリエルは丁寧に羊を一頭刈り上げると、刈り取った羊を外へと放つ。そうして新しい羊を羊小屋から作業小屋の方に連れ出して、また羊毛を刈りだした。
牧童たちに伝わる牧歌を口ずさみながら、アリエルは上機嫌で毛を刈っていく。伯爵夫人時代は腕の筋力はそれほど鍛えてはいなかったけれど、この一年、牛から絞ったミルクのタンクを持ち運びしていたおかげか、アリエルの腕力はちょっと鍛えられた。その上、相変わらず貴婦人らしい体型や美しい姿勢の維持のための筋トレは続けているので、足腰の耐久値はそこらのご令嬢どころか村娘にも負けてはいない。
アリエル名義の羊小屋を預けている羊飼いの一家も、彼女が羊毛狩りをしたいと言い出したときには、最初こそご令嬢にはちょっと大変ではと心配の色を見せていた。でも鼻歌を歌いながら羊毛を刈るアリエルを見ると、「さすがお嬢様」と笑って彼女の気の済むようにやらせてくれた。
「お嬢様、そろそろ休憩しませんかね。うちのがミルクティーを淹れてくれましたよ」
「まぁ素敵。いただくわ」
羊小屋の管理人であるショーンが、湯気の立つマグカップを両手に持ってきてくれる。
クララがショーンからマグカップを受け取ると、アリエルが刈り途中だった羊をショーンが代わってくれた。
アリエルは作業小屋の隅にあるベンチに腰掛けると、クララがミルクティーの入ったマグカップを手渡してくれた。素朴な甘さと紅茶の上品な香りが鼻孔をくすぐる。アリエルは一口いただいて、ほっと息をついた。
休憩に入ったアリエルとクララの目の前で、ショーンが面白いように羊の毛を刈っていく。もこもこもこっと羊毛が床に転がって、あっという間にショーンの足元が羊毛に紛れてしまった。
「さぁできた。行った行った」
「さすがね。つるつるっと刈っちゃったわ」
「まぁー、慣れですよ、慣れ」
褒められれば満更でもないのか、ショーンは頬を指でかきながら、次の羊を小屋から出してくる。出頭待ちの羊たちはまだまだ順番を待っていた。
「お嬢様がいると羊たちも喜ぶんですよ。俺だけなら三匹に一匹は嫌がって逃げ出すヤツがいます」
「あら。それなら明日もお手伝いに来たほうが良さそうね」
「ははは。明日はデニスのとこの小屋じゃないですかい。あいつに恨まれちまいますよ」
ショーンの羊小屋だけではなく、アリエル名義の羊小屋はもう一つある。明日はそちらの羊小屋で毛刈りをする約束していたのをショーンも知っていたみたいだ。
「なら明後日はどうかしら? でもショーンは毛刈りが早いから、私の出番はないかもしれないわ」
「流石に三日で毛刈りは終わりませんよ。この羊小屋も、ずいぶんと賑やかになりましたからね」
小屋とは言うが、増築に増築を重ね、今ではショーンの受け持つ羊は二百匹はいる。もう一人の羊飼いであるデニスも同じようなもので、アリエルの生まれる前と比べたら倍の数に増えているのだとか。
刈り取った羊毛を洗うのは、羊飼いたちの妻の仕事だ。ショーンやデニスの妻がきれいに洗い、丁寧にゴミを取り、ふわっふわにした羊毛は、町工場に持っていかれる。町の工場で紡がれた毛糸や、ぬいぐるみの材料として仕分けられた綿は、そうして商会に卸される。コールソン子爵領の羊毛は数の流通が少ない上、その質の良さからブランド品の一つとして高値がつくから、子爵領の大事な収入源だった。
年々増えていく羊の話をして、ショーンと笑い合いながら、アリエルはミルクティーをちびちびと飲んだ。クララはすっかり飲み終わったようで、ショーンが刈った羊の毛をぽいぽいっと籠に放り込んでいく。
アリエルもぐいっと最後の一口を飲み干すと、ベンチから立ち上がった。
「美味しかったわ、ショーン。奥さんにお礼を伝えておいてね」
「ご満足いただけたなら良かったです。それじゃ、くれぐれもお怪我には気をつけて」
ショーンはそう言ってマグカップを回収すると、作業小屋を出ていった。
アリエルはその姿を見送ると、よし、とハサミを構える。
「クララ、もう少し頑張りましょうね」
「はい。お嬢様が満足されるまで、羊をお刈りください」
神妙な顔でそんなことを言うクララに、アリエルは朗らかな笑顔を返した。




