軍神公爵は踊れない
彼女はずいぶんと変わってしまった。
染められていた髪は偽ることをやめて、太陽の輝きを授かった黄金の麦穂色。失われるばかりだった視力は世界の輪郭を取り戻し、七色の虹彩が空色の瞳の奥に輝いている。
アリエルは淑女の姿をやめて、村娘のような姿をしていた。一つにくくっただけの髪を風になびかせ、澄み渡る青い空と鮮やかな緑の牧草地で、白くてふわふわな幼い聖獣を遊ばせていた。
そんな彼女へ、聖獣と同じルビーのように紅い瞳を向けている男性がいる。
彼の手には一抱えの花束。
白く可憐なカスミソウと清純で凛とした空色のブルースター。
真紅のリボンで束ねられた花束は、彼がアリエルという女性を想って贈るもの。
彼はアリエルの前に立つと、騎士の正装が土に汚れるのもかまわず、跪いた。
「アリエル・コールソン子爵令嬢。私とワルツを踊ってくれないか。私は貴女とファーストダンスを踊る権利がほしい」
それは軍神公爵エドモンの、一世一代の愛の告白。
今、思い返したら。
彼との出会いが、アリエルの第二の人生の始まりだったのかもしれない。
◇ ◇ ◇
一分のほつれもなくひっつめられたブラウンのシニヨンに、空色の瞳を隠すようにかけられたワインレッドの眼鏡。首まで覆う高い襟に、手首できっちりと留められたカフス。
クラシカルでシンプルなデザインの紺のドレスを身に纏ったアリエルは、淑女の鑑のような姿で緊張の欠片も見せずに綺麗なカーテシーを披露した。
「お初にお目にかかります、公爵閣下。本日より閣下へダンスの手ほどきをさせていただきます、アリエル・シーキントンと申します」
声の高さも、言葉の行間も、全てが完璧。
まだ二十一という若さながらも、一流のマナー講師としてこのダンスレッスンを依頼されたアリエルは、緊張しながらも挨拶の口上を述べきった。
視線は床に落としたまま。アリエルは向かいにいる人が身じろぎする気配を敏感に感じ取る。
貴人が良しというまでは顔を上げてはいけない。
アリエルは鍛えられた脚力と背筋と腹筋とで、左膝を曲げて右足を後ろへ引くというアンバランスなカーテシーを維持した。淑女たるもの、筋トレは毎日の日課です。
それにしてもなかなかお声がかからない。
アリエルが訝しげに思い始めた頃、ぼそぼそと話し声が聞こえた。この声はここまで案内してくれた家令の声?
「旦那様、お声がけを。その作法までお忘れになられたのですか」
「……い、いや。すまない。こほん」
家令からの指摘に、どもりながら男性が答える。お腹に響くような低い声に、アリエルははしたなくならない程度に体に力を入れてカーテシーを維持した。
これで倒れてしまったら元も子もない。アリエルは気がつかれないように細く息を吐いた。
「顔をあげてくれ。シーキントン夫人。私はエドモン・ジラルディエール。急で申し訳ないが、二週間後の建国祭の夜会まで、どうかよろしく頼む」
アリエルはふわりと顔を上げる。
ゆっくりと指先、つま先まで意識して体を起こすと、目の前にいる男性を見据えた。
剣のように鈍く光沢を放つ銀色の髪を一つに束ねて肩へと流し、ルビーのように赤い瞳には憂いの色をのせている。彼が動けば甘くて苦いジュニパーの香りが鼻孔をくすぐった。大きな体は貴族というよりは軍人のそれで、女性にしては背が高いアリエルよりも頭一つ分は高い。
アリエルはそんな彼を見て、そうっと視線を伏せた。
―――これは確かに、噂に聞くようにとんでもない偉丈夫だわ。
近くで見るとこんなにも体が大きくて、威圧感がすごい。
アリエルは内心でそう思いながら、改めて自分の生徒を見つめた。
軍神公爵エドモン・ジラルディエール。
御歳二十八歳にして、王立騎士団団長という国の要職につく男性に、アリエルはぐっと気を引き締め直した。
アリエルのもとに今回のこの話が舞い込んできたのは、つい数日前のこと。
五年前にかねてより婚約していた幼馴染と結婚し、今や伯爵夫人であるアリエルは、そのマナーやダンスの腕を買われて、講師として請われることがある。元は子爵家の出身でありながらも、社交界で見かけるアリエルの姿は淑女の鑑と謳われるほど。若いながらも立派な貴婦人であるアリエルをよく知るご令嬢やご夫人方が、自分や子供のためにとアリエルに声をかけることは少なくなかった。
だから最初、仲の良い侯爵夫人のベリンダから軽く頼まれた時は、ベリンダの身内のご子息かご令嬢に指導するのかとばかり思っていた。
それがまさか、実際に蓋を開けて話を聞いてみれば、さしものアリエルも耳を疑ったものだった。
それというのも、アリエルに持ちかけられたのは、かの有名な軍神公爵様のダンス講師をして欲しいというもの。
軍神公爵といえば、現国王陛下の弟君で、十代の頃に臣籍降下し、ロマニーア王国の騎士団の団長として数々の功績を挙げた強者だ。
社交界には滅多に出てはこないし、出たとしても国王主催のものくらいで、顔を見せても挨拶だけをしてさっさと帰るような御方。
もちろん、現在は伯爵位でありながらも元は子爵家出身のアリエルとは面識なんてない。どうしてそんな方からダンス講師としてアリエルに依頼が来るのか分からなかったし、元王族である公爵様に今更アリエルが手ほどきするようなことなど、何もないと思っていたのだけれど。
数日前のことを思い出しながら、くつろぐ許可を出されたアリエルがソファーに腰を下ろすと、改めて当事者であるエドモンの方から説明をいただけた。
「聞いていると思うが、二週間後の建国祭にて、王女プリシラ姫が社交界にデビューされる。そこで陛下より、私がデビュタントとなるプリシラ姫のパートナーを務めるよう申しつけられたのだが……ダンスは昔から苦手でな。姫に恥をかかせないためにも、少し手ほどきをお願いしたい。よろしく頼む」
ベリンダから聞いていた話と同じで、アリエルは内心少しだけ安心した。
アリエルは背筋をまっすぐに伸ばしたまま、こくりと頷く。
「私でお力添えできることでしたら問題ございません。喜んでそのお役目を務めさせていただきましょう」
「すまないが、よろしく頼む」
「いえ、かまいません」
ほっとした様子のエドモンに、アリエルはワインレッドの眼鏡のブリッチをくいっと指で持ち上げて、さっそく本題を切り出した。
「それではまずは、エドモン様のお手前を拝見させていただいてもよろしいでしょうか」
「ああ。……その、幻滅しないでほしい」
怪しげな言葉をつけ足して、エドモンは立ち上がった。
アリエルも立ち上がると、軍人らしいキビキビとした動作で、エドモンはアリエルをダンス用のレッスンルームに誘う。
ワックスで磨かれた板張りの床に、贅沢にも鏡が一面に張られた壁。それから黒々と美しくボディが磨き上げられたグランドピアノ。
さすが公爵家、レッスンルーム一つにしても、元は子爵家出身のアリエルの知るものとは雲泥の差の設備だった。
こんな場所で本当にレッスンしていいのかと顔が引き攣りそうになったアリエルだけれど、そこは講師として呼ばれた意地で、表情にはおくびにも出さなかった。
「立派なレッスンルームですね」
「そうか? 城のものに比べたらまずまずだろう」
さすが元王族。比較対象が違った。
なんでこんな御方のダンス講師として自分が呼ばれたのか、ますますアリエルは分からなくなっていたけれど、これは仕事、と気を引きしめる。
「ではまずは、私が拍を取りますのでワルツの基本ステップをおさらいいたしましょう。失礼ですが、ワルツのステップにご不安はございませんか?」
「大丈夫だとは思う」
「では一度。分からなかったら、仰ってください」
アリエルは部屋の中心にエドモンを立たせると、彼がよく見える場所へと陣取って、手を打ち鳴らした。
「いち、に、さん。いち、に、さん」
キビッ! ビタッ! シュタ!
「いち、に、さん。いち、に、さん……」
キビッ! ビタッ! シュタァ!
アリエルの手拍子に合わせて、機敏に動くエドモンに、アリエルはすぐに彼の腕前を理解した。
そうして一通りのステップも踊り終わらないうちに、これはもう確固とした確信へと変わる。
手拍子をやめたアリエルは、息が少しも乱れていないエドモンへしっかりと向き直った。エドモンはその大きな体をそわそわとさせながら、アリエルの評価を待っている。
その姿がまるで試験の結果を待つ子供のようで、アリエルはちょっとだけ軍神と呼ばれている眼の前の男性を可愛いと感じ、ほっこりとしてしまった。
けれどもそれとこれとは話は別。
アリエルはエドモンの腕を正しく評価する。
「閣下のダンスの腕前について理解いたしました。ありがとうございます」
「ああ。……どうだろうか。姫のデビュタントまでになんとか見られるようになるだろうか」
「大丈夫ですよ。ステップはまあまあ大丈夫なようですし、閣下もご自覚がおありのようですから。―――表現力みっちりコースでご指導いたしますね」
「ぐっ……。…………いや、よろしく、頼む」
少々、眉尻を下げてしおれたような表情をするエドモンは、心底ダンスが苦手のようだ。
それでも、さすが元王族かつ軍人とでも言えばいいのだろうか。ステップそのものは覚えているようなので、これならば十分なんとかなりそうな範囲だ。
予想とは斜め上な感じでダンスが苦手な公爵様に、にっこりとアリエルは「なんとかなりますよ」と微笑んだ。