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浩二君

作者: 竹下博志

中学生になって最初の夏休みに引っ越しをする事になった。

学校は転校して、初めて転校生になる。

聞けば、引っ越し先は、結構な田舎だという。これは嬉しい。

比較的都会で育った僕は、田んぼなんか見たことがなかった。            

近所に山もなく。当然、そんな贅沢な物はなく。

あるのは汚いどぶ川だけで、どぶ川の堤防が唯一自然に触れられる場所だった。

小さな時からどういうわけか虫や魚が大好きで、堤防は僕のメインの遊び場だった。

一日中虫取りをしていても飽きるということがない。一番の獲物はキリギリスだったが、これがすばしこくてなかなか小学生の僕には、手に余る存在だった。

つまり一日中キリギリスを追いかけていたのだ。ちなみに春はカナへビ、夏にキリギリス、秋にはコオロギ、冬はクビキリギスだ。草むらのほうはこんな具合。

でも、残念ながら、肝心の川の水は濁っていて、底砂は腐っていて、魚はいない。

反対側の岸には、浄水場があって、その排水溝の付近だけは魚がいる。

しかし、そこに行くにはかなり遠回りをして橋を渡るしかなく、めったなことではいけなかった。

そして、こちら側の岸にはきれいな水はなく、グロテスクなほどに大きいオタマジャクシだけがせわしなく水面と水底を往復していた。

だから駅を降りてすぐに田んぼが一面に広がっているその町をいきなり好きになっていた。

田んぼは輝くような緑一面、ずっと向こうの山(なんと山まである!)まで続いていて、その間には数件の民家があるのみ。

おまけに田んぼの傍に、水路があって、魚が、釣り糸を垂らすと休ませてくれないくらい良く釣れて、おまけに水生昆虫までいた。

この水路で、僕は初めてミズカマキリを見た。

誰ともこの興奮を分かち合えないのは残念だったが、貴重な体験だ。

 一方、駅とは反対方向の中学への通学路も、田んぼの中を歩いていく。

延々と田んぼなのだ。

初めて見る、田んぼに棲む変わった生き物たち。ゲンゴロウや、小さなカブトガニのようなカブトエビ。様々な種類のカエル。夏休み明けだったから、空にはトンボが群れを成していた。

中学校の周りも田んぼ。おまけに学校のすぐ裏に、ため池まである。

この上なく贅沢な理想的環境だ。初めての学校に行って、クラスに入る前から、もう心ここにあらずで、入ることになる新しいクラスがどんなクラスであろうが全く気にならなかった。

どこに行って何をしようかとそればかり考えていた。僕はどちらかというと、良い言い方では夢想家な、つまりぼーっとした生徒だった。通知簿には必ず書かれる言葉だ。

 先生は中年の小柄な女性だった。

男っぽいさばさばした女戦士みたいなタイプで、国語の先生。

それだけに話に無駄がない。必要なことだけをズバリと口にする。回りくどい話し方もしない。本質を隠さずに口にするタイプ。羽目を外しても、明るくカラッと注意したら、それで終

わり。説教臭くない。情熱的で、正しく導けば、僕らは正しい選択をするだろうと信じているように思えた。だから、みんなその信頼にこたえようとしていたように思う。

実に男前な性格で、優秀な先生だった。だからというわけでもないのだろうが、いや案外、信頼できる先生だからこそなのかもしれないが、クラスには病気の男の子がいた。浩二君だ。

病気という言い方は、当てはまらないのかもしれない。体は元気で、いわゆる自閉症というやつだった。一目でそれとわかるくらいの症状で、落ち着きなく、一人だけでどこかへ行くというのは難しそうだった。独り言を言い。話は、通じているのかどうかわかりにくかった。

人の目を見る事が出来ず、自分の世界にいつもいる。

僕の第一印象。どこにでも、こういった子はいるなあ、というもの。

以前いたところでは、小学校の三年のクラスに、同じような症状の女の子がいた。聖子ちゃんだ。この聖子ちゃんは同じようと言ってもちょっとだけ症状が軽い。少なくとも会話ができたのだ。同様に、おそらく学年違いで、男の子が一人。この子は名前がわからない。そしてこの子は浩二君に近かったと思う。話しかけても返事が返ってくることがなかったからだ。

この子が、名前も学年も知らなかったが、近所に住んでいたのは間違いない。僕たちが遊んでいると。大きな声で独り言を言いながら、歩いているのをよく見かけたからだ。

でも、中学校にはいなかったから、同じ中学には行かなかったのだろう。

それよりも、そのあと、四年や五年になって、その子が同じ小学校にいたのかどうかも覚えていない。

居れば、二人とも目立つ子なので、すぐわかるはずなのだ。もしかしたら、転校したのかもしれなかった。小学校で、同じ授業を受けさせてもらえなくて特別教室にいたのか、親が他所にやったのかもしれない。

低学年の間にとりあえず通常の教室で試してみたが、ダメだったということだったのだろうか。そのあたりの事情は分からない。

 小学校三年のクラス担任は、若い女性の先生だった。

この先生もいい先生だったらしい。らしいというのは、この評価はうちの母によるものだからだ。この先生は生徒のことをよく見ていて、保護者懇談の時に学校での様子を、親に報告するのだが、うちの母親が随分とほめていた。それなりにいい先生だったのだろう。ちなみにうちの母は、教育熱心で、しかも負けず嫌い。僕が近所の子供に負けるのが悔しいと見えて、よく、誰それは成績がいいとか、どこの何子ちゃんは言われなくても勉強するとか、そんな話ばかり聞かされてきた。まあ、あいにく、そんな話が役に立ったこともないし、目的たる効果を上げたことも一切なかったのだが、そんな何子ちゃんに一度お目にかかりたいとだけは思った。言われなくても勉強するような自主的で模範的な子供なんているわけないと思っていた。

子供なんて、遊びのほうがはるかに重要なのだ。勉強は言われて初めて仕方なく嫌々やるもの

であって、自ら進んでやるようなものではない。とずっと思っていた。あの時の何子ちゃんの存在を初めて認めたのは、わが娘を見た時だった。希少種だ。

一方で息子は全くと言っていいほど僕に生き写しだった。

言われないと永遠に勉強しないタイプだ。

 とにかく、小学校三年生の僕らの教室には、聖子ちゃんという自閉症の子供がいて、同じように授業を受けていた。先生は聖子ちゃんが普通と違うことを、できるだけ無視するように決めていたようだった。だから、聖子ちゃんにも僕たちと同じレベルを求めて、できないと怒る。同じことなんてできるわけないというのが、小三の僕の見解だったが、大人の先生にそれを言う勇気はない。だから聖子ちゃんは毎日のように怒られていた。今でも強烈に覚えているのは、聖子ちゃんが裸になって、教室の椅子の上で、自分のヌードを披露した時のことだ。

先生は真っ赤になって、今までに見たこともないような剣幕で、聖子ちゃんを叱った。

聖子ちゃんはびっくりして、腰を抜かすほどだったが、先生は聖子ちゃんの腕をつかんで、立たせようとし、さらに腰を抜かして、当然立てない聖子ちゃんは、しっかりと立てないという理由でさらに叱られ、腕をつかまれながら、頬をぶたれる聖子ちゃんは涙と鼻水で顔中をぐずぐずにしながら、さらに泣き叫んだ。小学三年生には刺激が強い。

 先生が悪い?いや、自閉症の子供と、大人のかかわり方というのはだいたいがこんな感じだった。

減点式だ。悪いところだけを見ている。

大人だからと言って、対応の仕方を心得ているとは限らない。

普通でない事を見ないようにして、普通でない行動には普通の対処の仕方を貫く。

普通でない独り言は、普通の子供を叱るように叱るし、普通の子供をからかうようにからかう。当の本人には、からかわれているという感覚があるのかないのか、見ているだけではわからない。子供たちは、だから躍起になってさらにからかう。誰もがきっちりとわかっていなかったようにも思えるが、誰もがきっちりと理解しようとも思っていなかったのだろう。また、当然、子供にそういったことを教えてくれる大人もいなかった。よくわからないが、普通と違う、かなり違う人がこの世の中にいるという事実。誰もが当惑しているようだった。

 母は、その男の子とは関わるなという。何をされるかわからないからというのが理由。

僕の見解は、あの子にそんな力も意思もないというもの。

彼はただ、独り言を言うだけだ。そして誰とも関わらず、いつも一人でいる。

彼の周りには人がいたとしても誰もいないのと同じことだ。見ればわかる。

当時の大人は、そのまえの時代の常識であった優生学の考え方を引きずっていたように思う。

人類は優等な人類を残すべきで、病気や、普通でない趣味嗜好の人物は子孫を残すべきではないというもの。子孫を残すに相応しくないと判断されると断種の手術をされた。

その仕組み自体はもうすでになかったが、社会的な通念としての、異なったもの、劣ったもの

に対する差別は大手を振って横行していた。精神病者は犯罪者だという考え方も一般的だった。クリスティなんかそんな描写であふれている。世界的な通念だったのだ。

 さて、新しい中学の女戦士先生はこの通念を破壊したかったようだ。

先生はクラスにいる身近な存在である浩二君をホームルームの議題にあげる。

矛盾をはらんだ苦渋に満ちた選択だったというのは、今から思えば、たやすく想像できる。

当時はそこまで思わない。浩二君は特別扱いで、大切にされて、先生は浩二君が大好きだ。

そう思っている。羨ましい。この先生には誰もが好かれたいのだ。

議題はどのように浩二君とかかわるべきか?みたいな感じだったと思う。

先生はそれに関して誘導するようなことは言わない。

一人一人発言させて自分は黙って聞いている。クラスのみんなはこの展開に慣れている。

僕は、ちょっと出遅れた感がある。こんなことを自分の頭の中でとことん考えて、言葉にしたことなんてないからだ。

それでも僕は興奮していた。ほかのみんなの意見を聞きながら、喜びのあまり、歓喜の叫びとともに走り出してもいいくらいだった。この時間がとても貴重な時間だということは中一のぼんやりした生徒でもわかる。前の中学校では考えられない時間だった。

こうしたことをきっちりと仕切って、導こうとしてくれる大人に出会ったのは初めてだったし、その大人と対等にやり取りできる子供達に出会ったのも初めてだった。

おそらくこの中学校でもこのクラスは特別なのだと感じた。

運がいい。これから大人になる子供にとって、子供時代にこういうことに出会えるというのは本当に運がいい。そう思っていた。

浩二君もまた運がいい。そう思っていた。比べて、思い出されるのは聖子ちゃんだ。

運。そう運だ。人の体や頭脳なんて借りものだと思っている。たまたまこの体、この頭脳で生まれてきたが、この魂はもっと違う体に入って、違う頭脳を備えていたかもしれない。

魂は当然、頭脳とは別物である。

性格や判断力は頭脳のたまものであって、当然ながら、記憶力や、応用力、嗜好や優しさや忍耐力なんてものも魂ではない、頭脳次第なのだと思っている。

僕の魂が、浩二君や、聖子ちゃんの体に入っていた可能性は十分にある。

逆にもっと優れた体でいい性格、あるいは天才に入っていたのかもしれない。

それもわからない。

しかし、ないものねだりをしてもつまらない。

それよりは現状に感謝だ。そのほうが精神的にも気分がいい。

 ところで、浩二君には常にべったりと一緒にいる女の子がいた。

富士子ちゃんだ。富士子ちゃんは、どちらかというと小柄で、きゃしゃな感じで、色も白いが、頬っぺただけは赤かった。成績は良かったように思う。彼女がどうして浩二君といつも一

緒にいるのか?理由はわからない。幼馴染なのか、親戚なのか、特に転校生には全くわからない事だった。聞けばいいのだが、どうやって聞けばいいのだ?転向したばっかりの中一にはちと荷が重い。相手はその上、女の子だ。話しづらい。男に聞いてへんに勘繰られても嫌だ。

で、結局聞けなかった。

  当の小柄できゃしゃな富士子ちゃんだが、浩二君と一緒にいるときは、母のようだった。

力強く、動ぜず、何事からも守るという、そんなオーラを小さな体から発散している。

浩二君を叱り付けるときも、愛情にあふれていて、しかもどこからそんな力が湧いてくるのだと言わんばかりな力強さ。

浩二君はその間、富士子ちゃんの目を見ることはできない。

一方の富士子ちゃんはしっかりと浩二君の目を正面から見据えて、大きな声で、叱り付ける。

浩二君は富士子ちゃんよりも大きな体だが、ちょっと肩をすくめて、富士子ちゃんの勢いに圧倒されている 人にあまり話しかけることのない浩二君なので、二人の会話は一方的に富士子ちゃんだけが話し続けるという形になる。富士子ちゃんは浩二君に集中している、他のことは目に入らない。中一の子供なんて騒ぐときは全力だから、教室は騒がしい。

でも、大勢いる教室に二人だけしかいないような集中ぶりだった。

そこだけは空気が違う。

僕らは、誰も、富士子ちゃんにも浩二君にも話しかけられない。

先生はそんな二人を特に何も言わずに穏やかにみている。

浩二君は本当に、運がいい。

聖子ちゃんにこのような人がいたらどうなっていたのだろうと思う。

幸せ。幸せに決まっている。少なくとも、腰を抜かすほど叱られることはない。

その前に、ヌードを披露することはない。

三年生を過ぎていなくなることもなかったはずだ。同じ中学に行ったかもしれない。

 中学を卒業して、高校に入ると、さすがに浩二君や聖子ちゃんのような人は、周りからいなくなる。大学や、会社に行っても、当然いない。

思った通り、あの中学の一年はとても貴重で、大切な経験だったとわかる。

 そんな風に年月は過ぎ去り、もういい加減な年齢になっている。

その僕に同窓会の招待状が来る。

中学の同窓会だ。そこで僕は特別な経験をすることになった。

浩二君が来ていた。実をいうと、もう誰が誰なのかわからなくなっている。

浩二君に気づいたのは、その名前を誰かが呼んだからだ。

隣に奥さんを連れている。

これがあの富士子ちゃんだということに気づくのに時間はかからない。

色の白さは変わらない。ほっぺだけが赤いのは、さすがになくなっていた。

きゃしゃで、小柄なのも変わらない。

変わったのは、オーラだ。あの力強いオーラはもう出ていない。

浩二君の目を見て一方的にしゃべっていた彼女はもう居なくなっていた。

今、一方的にしゃべっているのは浩二君だ。浩二君は富士子ちゃんの目を見てしゃべる。

富士子ちゃんは大人しくそれを聞いている。

何が起こったのかは、あっという間に、全体に広がっている。

オペレーション・アルジャーノン

名前はいかにもで、陳腐だが、内容は最新の技術だ。

薬ではなく、ナノテクロボットを使う。一時的ではなく、永久的に症状を改善する。

とのことらしい。自閉症は完全に治る。浩二君はもう自閉症ではない。

ニュースになっていたので知識としてはあったけれど、身近な人にこうしたことが起きると、現実味を帯びてくる。 

浩二君は今までの分を取り返すかのようによくしゃべる。

浩二君によると、昔のことは普通に覚えているのだという。

情報は同じように頭の中に入ってくるが、当時とはその盛り上がり方(と浩二君は言った)が異なるらしい。当時の感覚で言えば、すべてのものがただ目に入るありふれた街中の看板のよう。

何事も自分の興味をひかない。意識と認識はしても、重要性を感じない。

声が聞こえても、同様に重要性を感じない。町ですれ違う人が何かを話していても、気にならないように意識されない。ただボリュームが(これも浩二君のセリフだ)大きい時がある。あまりに大きいので聞かざるを得ない。普段は使わない集中力を使って、そんなボリュームの大きい声を聴いてみると、やっと意味が頭の中に入ってくる。

「富士子の声は、ボリュームが大きくて・・」と笑い飛ばす浩二君の横で、富士子ちゃんが照れ笑いをしていた。

 こうなってくると、浩二君は‘’格別‘’運がいいといえる。

しかしこの運は、今回は大きく様々な人に開いていた。

当時、女戦士先生が稀有な存在だったことは否めない。その門は狭く、その恩恵にあずかれる人は少なかった。

オペレーション・アルジャーノンは違う。

希望すれば、手に入れるのははるかにたやすい。

聖子ちゃんは手に入れる事が出来ただろうか?

会えば、わかるだろうか?

「あなたあの時、私のすべてを見たでしょ?」

と言ってくれるだろうか?

ぜひとも言ってほしいと思う。僕はその言葉に対する返し言葉を考えている。

返す言葉を考えている間、暖かくて明るい気持ちから顔が緩んで、笑ってしまうのを抑える事が出来ない。

だから、気づかれないように一人で静かに笑うのだ。人生の楽しみが一つ増える。


了    


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