色のある世界
海岸に乱立する岩を重苦しい音をたて勢いよく波が穿つ。
絶え間なく鳴き交わしているうみねこの声がどこかむなしく飛沫の中に飲む込まれ泡沫と共に消え行く。
空は曇天。
雨の匂いはさせず、されど陽の光もも差さず。
ただ黙々と空を覆い続ける分厚い雲。
それは侵入者を阻むように、脱走者を阻むように。
切り立った崖の先に設けられた鳥居は潮風に晒され、島の老人たちの話では鮮やかな朱色だったという その装いは、無残にも剥がれ落ちて、今はもう神々しい程の神格を感じさせはしない。
その代わりなのか、どこか澱み、禍々しい印象を見る者に与えている。
それは幸魂と荒魂の相転移を表しているのだと、そう言ったのは誰だったか。
もう十年程、この島に光は差していない。
もしかしたら、未来永劫かもしれない。
白と黒の世界しか映らない萩原彩人の瞳には、写真でさえ青空というものを映さない。
そしてそれは、常に傍らに寄り添い続けた荻野真の視界さえもいつの間にか浸食していった。
島の岩海岸を見渡すことのできるこの場所は、彩人のお気に入りの場所だった。
小さな頃、真が手を引いて連れて来てくれた秘密の場所。
初めて二人で来たときは、風も穏やかで波の音も優しく、日差しも暖かかった。
だけど分厚い雲の元だと、全てが色褪せてしまっている。
いや、と真は頭を振った。
この場所を美しいと感じたことなど一度もないはずだと。
色の識別のできない可哀想な彩人に綺麗な場所を見たいと言われたときに、適当に連れて来ただけの間に合わせの場所だった。
嫌なことがあったときに訪れる、やさぐれた心情を映したような光景。
そんなものを見て綺麗だと無邪気にはしゃいでいた彩人に、まるでそんな自分の心でも綺麗なのだと言われたかのようで。
その笑顔が何よりも鮮やかに色付いていた。
きっとそれは、あの頃に自分の知っていた一番綺麗なものだったのだろうと、前に立って膿を眺め続ける彩人の背中を見て思う。
「片柳さんの告白、断ったんだってな」
静かに、真は彩人へと声をかけた。
自分が口にした少女の名前に、失恋の痛みに胸が疼いた。
「うん。嬉しかったけど、どうしても片柳さんのこと真よりも特別に思えるなんて思えそうにもなかったからさ」
「友情と恋愛感情はまた別だろう」
「あはは、だよね」
「別に」
「うん」
「別にお前が断ったところで、片柳さんは俺を好きになってはくれないだろうさ」
吐き捨てるように真は言う。
どうして彩人なのだろうかと、何度も繰り返した自問。
やっぱり彩人だからだろうと、何度も繰り返した自答。
なあ、と。
真は胸中で彩人に問いかける。
お前がどれ程焦がれ憧れても手に入れることのできない色のある世界を、俺はお前に分け与えてやったのに、どうして俺が恋焦がれているものをお前は俺に与えてくれないのだろうか。
ずるい、とそう言葉になりそうな思いを真は唇ごと噛み締める。
「真はさ、小さい頃に俺がずっと後ろをついてまわりながら、一々これは何色なのかって聞いても、途中で投げ出したりせずに根気よく付き合ってくれてただろう。多分、だからなのか知らないけれど、俺の世界ってのはどうしても真ありきみたいに思っちゃってるんだよ」
後悔しているよ。
真が俺の色なんだと笑う彩人に告げたら、どんな顔をするのだろうかと真は考える。
考えても、笑顔で謝る顔しか浮かんでこないことに、舌打ちをする。
無条件に寄せる彩人の信頼を、真がただの重荷だと思うようになったのは、いつの頃からだっただろうか。
思い出せない程昔なのか、それとも徐々にそう思うようになっていったのか。
確かなのは、彩人の問いかけを煩わしいと感じるようになった時期と、世界が色褪せて見えるようになった時期が同じということだけだった
「真」
「何だ」
「綺麗、だな」
真は答えなかった。
代わりに一つ、問いかける。
「なあ彩人」
「なに?」
「お前にとって白黒の世界でも、この光景は美しいと思えるのか」
「もちろん」
一切の躊躇なく答える彩人の言葉が、そのほがらかさが、真の琴線を容赦なくかき鳴らす。
ぎちりと、音を立てて奥歯を噛み締める。
「だってさ、真が綺麗だって言ってたじゃないか」
「俺が言って、それがどうした」
「真が綺麗だと教えてくれた場所だから。真がいる限り、俺にとってこの世界は綺麗に色付いているんだ」
だから、やっぱり誰かを真よりも特別と思うのは難しそうだと。背を向けて笑う彩人に、真はゆっくりと右手を伸ばす。
このまま突き落とせばきっと楽になれると。
どこか浮かされるような、囁かれているような確信に、一歩また一歩と彩人へと近づく。
「痛っ」
瞬間、目に何かが刺さったような痛みが走った。
思わず彩人へと伸ばしていた手を引っ込めて瞳を覆う。
「どうした真、大丈夫か?」
振り返り自分を心配そうに覗き込む彩人のその向こうの空。
薄目で捉えたその隙間の奥に、暖かな光を真ははっきりとその目で見た気がした。