第8話 挨拶回りは突然に
ネーハの案内で村を回ることになったと伝えると、おじいさんは短く鼻を鳴らした。
それの意味するところが、存外上手くこの村に馴染んでいるじゃないかとの称賛なのか女に手を出すのが早いとの軽蔑なのかはようとして知れなかった。
おじいさんは仕事が終わった後なら何をしても構わないとの許可をくれただけだ。
いつもの仕事を手っ取り早く済ませると、入り口で待たせていたネーハのところへ向かった。
「ごめんよ。随分、待たせちゃったね」
「気にしなくていいわ。わたしから言い出したことだし」
1時間近くも放っておいたのにネーハは気にするそぶりもみせなかった。
最初はとっつき難い娘だと思ったが、こんな気遣いをみせられるととても意識してしまう。
「さて、どこで料理を教えようか? ネーハさんの家の台所を使う?」
「ちょっと待って、クージャイさんからもらったのはロマネスコの種よ。ここに食材はないわ」
いいところを見せようと気を吐いていたところに冷や水を浴びせられた気分だ。
気恥ずかしさを誤魔化すように頬を指でかいた。
「そうか、カリフラワーがあれば似たような料理はできるけれど、どうしようか?」
「料理を教えてもらうのはまた今度にするわ。それまでにちゃんと準備をしておくから」
「わかったよ。それじゃ、先払いのようで悪いけど村を案内してもらえないかな?」
「もちろん、そのつもりで待っていたのよ」
ネーハはこちらに視線を送って優し気な笑みを返した。
誰だ酷薄そうな釣り目なんて言った奴は。
まるでスフェーンのような輝きの大きくて可愛らしい瞳じゃないか。
出会ってまだ数時間だというのに僕の中でネーハの株は急上昇した。
「それじゃ、よろしくお願いします」
「ふふっ、行先はわたしに任せてね」
ネーハが踵を返したのを見て隣に駆け寄る。
彼女の背丈は僕とそう変わらない。女性にしては長身の部類だ。
隣を盗み見れば、ネーハの整った顔立ちがすぐそばにあった。
「ここはのどかだね」
道を歩いていてもすれ違う人は誰もいない。
街の喧噪が懐かしいときもあるが、今この瞬間は水を打ったような静寂が心地よかった。
風が奏でる音だけが耳に届く。
隣を歩く少女の息遣いが聞こえてくる。
たまには歩幅を狭めて誰かの速度に合わせて歩くのも悪い気分じゃなかった。
「それ、ここに住んでいる人からすれば、褒めているように聞こえないわよ」
「ええっ、ごめん。他意はないんだ」
否定の意思を伝えようと慌てて胸の前で両手を振った。
僕を受け入れてくれた場所はこの村だけだ。
貶めるつもりはまったくなかった。
「わかっているわ。冗談、冗談よ。気にしないで。あなたって素直に捉え過ぎるのね」
「そこは誠実さと言って欲しいな」
困ったように苦笑いを返した僕を見てネーハはぷっと噴き出した。
「ごめんなさい。笑うつもりはなかったの」
「うん、キミの誠実さだと受け取っておくよ」
僕たちはお互いに顔を見合わせて笑い出した。
話をしている間に村のメインストリートに着いた。
メインストリートなどと呼ぶとまたネーハに睨まれそうだが、そうとしか言いようがない。
何せこの通り沿い以外、村に店など一軒もないのだから。
誰もが顔見知りの狭いコミュニティ。
ここの人たちにすんなり受け入れてもらえるか今になって心配になってきた。
「こんにちは、モーハンさん。新しく引っ越してきた人を連れて来たわ」
雑貨屋に入ったネーハはカウンターの奥にいた中年の男に声をかけた。
「先日はどうもありがとうございました。クージャイさんのところにお世話になることになりました」
僕の挨拶を聞いてネーハは肩透かしを食らったように視線を右往左往させた。
「それはなによりだ。必要な物があれば何でも言ってくれ。できる限りご要望にお応えしよう」
モーハンさんの店はこの村の需要を一手に引き受けているのだろう。
ここで暮らしていく上でとても心強い言葉をかけてくれた。
「なんだ、モーハンさんとはもう顔見知りなのね」
「この村に来るときに馬車に乗せてもらったんだよ」
「駅からここまで歩こうとしていたんだ。乗せないわけにはいかないだろう」
両手を広げて肩をすくめるモーハンさんはにやりと口角を上げた。
「サヴィトリは留守ですか?」
「いつも通りさ。どこかその辺りをふらふらしているんじゃないかな」
モーハンさんは困ったようでいて諦めたようでもある曖昧な苦笑を浮かべた。
「モーハンさんのところにはひとつ上のお姉さんがいるんだけど、なかなか会えないのよね」
「あの子を見つけたら帰って店番をするように伝えてくれないか」
僕たちは黙って頷いた。
これもいつもの光景なのかもしれない。
「それじゃ、次はお隣のパン屋ね」
ネーハに手を引かれて雑貨屋を後にした。
隣の店からはさっきから香ばしいパンの匂いが漂っている。
口の中に溢れてきた唾をごくりと飲み込んだ。
ドアに付けられたベルが控えめで澄んだ音色を奏でる。
「いらっしゃ……、なんだネーハか」
カウンターから顔を上げた少女はさも落胆したように大きな瞳を細める。
毛先が跳ねたショートボブの金髪は彼女の奔放な性格を表しているようだった。
「なんだとは随分な言い草ね。わたしだってお客さんかもしれないでしょ?」
「だって、ネーハは家でパンも焼くじゃない。そりゃあ小麦を卸してもらっているけど」
「わたしだってこの店のパンは好きよ。でも……」
「嘘、嘘、気にしないで。今日は少し売れ残っちゃって愚痴をこぼしたくなっただけだから。それで後ろの人は誰? ネーハの彼氏?」
こちらに片手を振って挨拶しながら、とんでもない球を投げ込んできた。
「ち、違うわよ! 彼はディネシュさん。クージャイさんのところに越してきたばかりなの」
「初めまして、ディネシュです。これからよろしくお願いします」
隣で焦りまくるネーハを横目に右手を差し出した。
彼女はいたずらに成功した子供のような無垢な表情で笑いながら握手に応じる。
「アタシはディピカ。お得意様になってくれるなら大歓迎よ」
「残念だけど今日は持ち合わせがなくてね。また、買いに来るよ」
「そういうことなら売れ残りで悪いけど、ひとつパンを進呈するわ」
そう言うが早いかディピカは棚から出したパンを薄い紙に包んで手渡してくれた。
「いいのかな? 売り物なのに」
「あはは、在庫処分の撒き餌みたいなものよ。そんなに重く考えないで」
撒き餌、撒き餌か。
魚でも餌がなければ針にもかからないものね。
「ありがとう。それじゃ、遠慮なく」
素直にお礼を言って受け取ったパンを一口かじってみた。
スポンジみたいに穴だらけの柔らかな生地だ。
くるみとチーズが入っていて、もちもちしていたり、カリッとしたり、食感の変化が楽しい。
オリーブオイルの辛さとローズマリーの甘くほろ苦い味が絶妙なさじ加減だった。
「とても美味しいね。これは街でも売れそうだ」
「あれ? 結構、口が上手なのね。意外だなあ」
くすくすと笑いかけるディピカ。
誘うような流し目を投げかけられて少し胸の鼓動が高まった。
「はいはい、次に案内する場所があるんだから。ここまでね」
「ちょっと、お得意様を陥落中なんだから、少し待ってくれてもいいじゃない」
ネーハはディピカを相手にせず、こちらを睨み付けた。
凛とした雰囲気のネーハは瞳に強い力が宿る。
視線で射殺されそうな危険を感じ、僕は早々にディピカに別れを告げた。
店を出るとネーハの機嫌は元通りになった。
どうも目の前で男が他の娘にデレデレしている姿はとても苛立つもののようだ。
僕は身を以って知った訓戒を心の中の石板に刻み込んだ。
パン屋の裏には小川が流れていて水車が勢いよく回っていた。
隣接する水車小屋からは杵をつく規則正しい音が聞こえてくる。
目を閉じて耳を澄ますと、川のせせらぎの音と相まって心が落ち着くようだ。
「この水車小屋はディピカの家で管理しているの。使いたいときは彼女に頼むといいわ」
「とても機能的だね」
「そんな表現をした人は初めてね。みんな楽をしたいだけよ。でも、何かを作り出すってそういうものでしょう?」
不思議そうに首を傾げるネーハに僕は大きく頷いた。
田舎といっても暮らし難いばかりじゃない。
この村のルールを知ることで生活はもっと豊かになるだろう。
ネーハの何気ない言葉は、僕にそんな期待を抱かせた。