第5話 妖精の女王は夢を見る
もう日が暮れて森の中は真っ暗になっていたが、ヴィマラが淡く発光して周囲をぼんやりと辺りを照らしている。
足元が覚束ない中で僕は慎重に歩を進めた。
ただの森の中も妖精の光に照らし出されると、途端に幻想的な光景に変わった。
動かないはずの木々も様々な表情を見せる。
微笑んでいる木、驚いている木、慌てている木、眠たそうな木。
まるで生き生きとした感情を持っているようだ。
「なんだか木にもいろんな表情があるんだね」
「木が見せる表情はアナタの写し鏡なんだよ」
なるほど自分の心境はこうなのかと思うと、少しおかしくなった。
木の陰が襲いかかってくるように見えないだけマシだったのかもしれない。
やがて目の前に光の洪水が現れた。
それは淡い光を放つ妖精たちの集団だ。
何百もの妖精たちが周囲を飛び回り、木々の枝に腰かけている。
天の川の中に迷い込んだような錯覚に捉われた。
「綺麗だ。まるで星の海に漕ぎ出したみたいに」
「あら、とても素敵ね。人間は星の世界にも足を踏み入れたのかしら?」
涼やかな声のした方に視線を向けると、そこには一際、明るい光を帯びた女性がたたずんでいた。
儚げな美しさを持った女性だが、どこか物憂げな表情だ。
腰にかかりそうな長い金髪は、光を複雑に反射してまるで宝石のように輝いている。
サイドから複雑に編み込まれている髪型は妖精たちの作品なのかもしれない。
肩まで露わにした真っ白なドレスにコルセットベルトをつけた装いは彼女の華奢な体つきを強調していた。
ドレスの裾は膝下から徐々に光に透けて消えている。
一体どんな素材が使われているのだろうと不躾な視線を送ってしまった。
妖精だけでも想像の範疇を越えていたが、妖精の女王となると自分の正気を疑ってしまう。
しかし、目の前の女性は現実感を失うほど神秘的な存在だった。
「女王様、犬に襲われたところを、この人に助けてもらったの」
髪の毛の中から顔を出したヴィマラが僕を指差した。
僕は手の上にヴィマラを乗せると、差し出すようにして翅を失った彼女を見せる。
「まあ、それはそれは。ヴィマラがお世話になったそうで、ありがとうございました」
「い、いえ、偶然通りかかったものですから」
言葉に詰まった僕は曖昧な笑みを浮かべて誤魔化した。
年上の女性の前に出ると緊張する癖は早く治したい。
妖精の女王は自分の翅を撫でるように鱗粉を手に取った。
ヴィマラに手をかざして光り輝く粉をふりかける。
光のシャワーを浴びているような幻想的な光景だ。
そして光が集まって形作るようにヴィマラの翅が再生されていく。
目の前で行われた奇跡に僕はぽかんと口を開けるしかない。
すっかり元通りになったヴィマラは妖精の女王の下へ飛んで行って嬉しそうに抱き着いた。
「挨拶が遅くなりましたね。私はルピンデル、この森の妖精の女王です」
「僕はディネシュと申します。カンヌールの村には越してきたばかりで牧場でお世話になっています」
慌てて腰を深く折って挨拶を返した。
僕が人間代表なのだと考えると、行儀良くして少しでも印象を良くしておかないといけないなどと小市民的な考えが頭に浮かんだ。
「それほど緊張しなくても大丈夫ですよ。あなたはヴィマラの命の恩人でお客様ですから」
「そう言われましても、妖精の女王様と会えるなんて想像もしていなかったもので」
所在無げに頭をかいて地面に視線を落とした。
「ふふっ、私も人間と会うのは100年振りぐらいかしら」
ルピンデルは口に手を当てて鈴を転がすような笑い声を上げた。
「こんな近くに住んでいるのにですか?」
「妖精を見ることのできる人間はほんの一握りなの。それこそこんな偶然がない限りこうして会うことは稀でしょうね」
両手を開いたルピンデルは頭上を見上げて、その場でくるりと回った。
頭上を覆う木の枝には鈴なりに妖精たちが腰かけ、興味津々といった態でこちらを見ている。
「そうでしたか。すごく貴重な体験をさせてもらいました」
幻想的な光景を目に焼き付けた僕は満たされた気分になった。
こんな田舎の生活では好奇心を満たされることなどないと諦めていたが、とんでもない思い違いだ。
もう一度、頭を下げると、その場を立ち去ろうと踵を返した。
「ちょっと待って、どこに行くつもりですか?」
慌てた様子でルピンデルが僕の腕を掴んで呼び止めた。
「えっ?! 温泉に行く途中だったので、お暇しようかと」
随分、寄り道をしてしまったので、もう森の中は真っ暗だ。
おじいさんも少しは心配してくれているかもしれない。
「……確かに汗臭いですが、嫌いではありません。あなたが頑張った証なのですから」
僕は顔がかっと熱くなるのを感じた。
「すみません、他人に会うなんて思ってもみなかったので」
「そんなに気にしないでください。悪意を持つ者からは卵の腐ったような嫌な臭いがしますが、あなたはお日様に照らされて乾いた藁の匂いと湿った腐葉土の匂いを感じます」
なんだろうこの妖精の女王、アロママイスターか何かなのだろうか。
自分の匂いを事細かに表現されるのは落ち着かない気分になるので止めて欲しい。
「待たせている人もいるので、長居はできないのです」
状況が許すのであれば、この出会いを祝して奇妙な隣人たちと一晩中だって語り明かしたい。
だけど僕にはここで生きるために居場所を作らなければならなかった。
「もうっ、100年振りなのだから、少しは融通を利かせればいいのに本当に真面目ね」
ルピンデルの口調から厳かさが消えた。
少しむっとした表情をしているが、何が気に障ったのかわからない。
「女王様、落ち着いてください」
「ルピンデルです。私のことはそう呼びなさい、ディネシュ」
「……ルピンデル、僕が何か怒らせるようなことをしたのなら謝ります」
「あなたのせいではないわ。伝説のようなシーンを再現しようと思っていたの」
ぎゅっと拳を握ったルピンデルはつまらなそうに視線を落とした。
僕はその言葉を聞いて、子供の頃に両親から教えてもらった話を思い出した。
流浪の騎士が悪い竜を退治する話だ。
騎士は妖精の出した3つの試練を成功させて魔法の剣を賜る。
その際に騎士は妖精に誓いを立てたはずだ。
僕はその場に片膝をついてルピンデルを見上げると、芝居がかった口調で語りかけた。
「ルピンデル、僕は命を賭けてキミを守ると誓おう」
そして右手を差し出した。
なんだか演劇でもやっている気分になって少しテンションが上がった。
ルピンデルの変化は顕著だった。
僕の言葉を聞くや否やぱっと表情が華やいで、恥ずかしがりながら右手を差し出した。
ここまで来ては最後までやり遂げるしかない。
僕はルピンデルの手を取り、その甲に口づけをした。
「きゃー、これよこれ。一度やってみたかったの!」
両手で真っ赤な頬を押さえたルピンデルはくねくねと身悶えした。
ここまで喜んでもらえるのなら恥ずかしさを我慢した甲斐も――。
「少し薄汚れていて貧相な身なりで汗臭い人だけど願いが叶ったわ!」
……なかった。
できればダメ出しは本人がいない場所でして欲しい。
心に傷を負った僕はふらふらと立ち上がった。
「それじゃ、そろそろ時間なのでお暇を――」
正気に戻ったルピンデルが両手で腕をがしっと掴んだ。
「待って! ちゃんと贈り物があるの」
喰いつくような勢いに押されて少し身を引いた。
「そんな気を遣わなくていいですよ」
「何、言ってるの。誓いを立てた騎士に贈り物のひとつもしないで帰したら、妖精の名折れよ」
妖精界もゴシップにまみれているのだろうか。
そんな世俗的な妖精界は御免被りたい。
「わかりました。ありがたくいただきます」
「素直でよろしい。あなたへの贈り物はこれよ」
ルピンデルは黒い瞳のような模様の宝石が埋め込まれた指輪を取り出した。
「とても綺麗な指輪ですね。なんだか宝石をのぞき込んでいると吸い込まれそうだ」
「時渡りの指輪よ。指輪をかざして戻りたい時を思い浮かべて命じれば、その時に戻れるわ」
ルピンデルの言葉は僕の後悔の念と激しい化学反応を起こし始めた。