第3話 流転する人生
――これは一年前、僕が牧場で暮らすことになり、不思議な力を手に入れた経緯だ。
僕は路上に座り込み途方に暮れていた。
両親を相次いで流行り病で亡くし、闘病中だった妹も失ってしまったのだ。
もう生きる気力も目的も失っているにも拘らず、生きなくてはならない。
「お兄ちゃん、私が生きられなかった分だけ幸せになって。そして新しい家族を作ってね。私、生まれ変わったら絶対にお兄ちゃんの子供になる」
それが妹の最後の願いだった。
ああ、これは楽になれないなと苦笑しか返せない自分を情けなく感じていた。
今もその思いは続いている。
長く入院していた妹の治療費はとんでもない高額になった。
両親の残してくれた家とささやかな遺産は全て使い果たしている。
天涯孤独の身で寒空に放り出された格好だ。
齢16歳、働き出してもいい歳ではあるが、保証人がいなければ職人の弟子にもなれない、この国で僕が就ける職は限られている。
炭鉱の労働者になるか、工場の労働者になるかの二択だ。
どちらもかなりの重労働だと噂では聞いていた。
それは大量に人が雇われて、無事に勤め上げた人が少ないことからも察せられる。
だからこそ路上に座り込んで自分の人生の岐路を決めかねていたのだ。
目の前を郵便配達人が通り過ぎ、郵便受けに手紙を入れた。
かつて僕が住んでいた家だ。
今は売りに出されているが誰も住んでいない。
「まあ、家宛てなら問題ないよな」
郵便受けから手紙を取り出すと、左手の指で封を引き裂いた。
中には一通の手紙が入っている。
裏を見ると、差出人は遠縁のおじいさんだった。
これまで一度も顔を合わせたことがないほど疎遠な関係だ。
僕は疑問を抱きながらも手紙を読んでみた。
内容は両親の死を悼み、困っているなら相談にのるというものだった。
両親が残してくれた財産を全て失い、親戚一同から援助を拒否された身としてはそんな縁の薄い老人を頼るなんて狂気の沙汰だと思わなくもない。
しかし、僕にはもう選択肢がなかった。
細い糸であっても希望がある限り、それを掴むしかない。
「いいさ、何が待っていようとも、僕には進むしか道がない」
財布に残っていたなけなしの金で汽車のチケットを買って飛び乗った。
目的地は街から遠く離れた辺鄙な田舎だ。
そこに何が待っているかもわからない。
それでもこんな灰色の街を眺めてため息をつくより、よっぽどいいことに決まっている。
僕はそう思い込んで、固い汽車の座席に身体を丸めた。
◇◆◇
3日間、汽車に揺られ続けて身体はすっかりこわばっていた。
この旅で食べたものは、食堂車で分けてもらったパンの耳と水だけだ。
それでも薄汚れた子供に施しを与えてくれた料理人に感謝しなければならないだろう。
人間、なにかを食わなければ死んでしまう。
家を失ってから僕は人の温かさと食い意地にはすっかり敏感になった。
汽車の駅で聞くところによると、おじいさんの家がある場所はさらに山の中だった。
僕はポケットに忍ばせたパンの耳をかじりながら歩き出した。
一本道で迷うことはない。
歩いていればいつか着くだろうと鷹揚に構えていた。
5時間、歩きっ放しだが、まだ目的の村は見えてこない。
道を間違えたのではないかと、段々心細くなってきた。
しかし、後戻りをするには進み過ぎている。
僕は不安になる心を押さえつけて歩を進めた。
「こんなところで人に会うとはな」
馬車に乗った気の良さそうなおじさんが声をかけてきた。
荷台には塩や生活用品が所狭しと積まれている。
「この道の先にカンヌールの村はありますか?」
「ああ、俺も村に帰るところだ。一緒に乗っていくか?」
渡りに船とはこのことだった。
ディネシュはお礼もそこそこに、御者台に座るおじさんの横に潜り込んだ。
「どこから来たんだね?」
「ティルネルから汽車で来ました」
「そりゃまた遠いところから、わざわざこんな辺鄙なところへ。大変だったろう」
「汽車で3日もかかりましたよ。お陰で身体がガチガチです」
おじさんは僕の話を聞いて、いたく同情してくれた。
旅の疲れを癒すため、山の中に温泉に入ることを勧めてくれる。
僕の頭の中は温泉よりも、今日の食事と寝床のことで一杯だった。
遠縁のおじいさんがどんな人となりかもわからない。
いくら相談に乗ると手紙に書いてくれているとはいえ、いきなり家まで訪ねてくるとは思わないだろう。
急にこの旅の目的が不確かなものに思えて身震いした。
「クージャイというおじいさんをご存知ですか?」
「ああ、知っているとも。小さな村だし、みんな顔見知りみたいなものさ。キミはクージャイさんの客かね?」
「はい、遠縁の者です。変なことを聞くようですが、クージャイさんはどんな方ですか?」
おじさんは一瞬訝し気な顔をしたが、遠縁との言葉を思い出してそういうものかと納得したようだ。
安心させるように笑いかけると、おじいさんのことを教えてくれた。
「頑固なじいさんだ。もういい歳なのに牧場から離れようとしない。みんな身体のことを心配しているよ」
おじさんはおじいさんの身体を気遣うような優しい表情を浮かべていた。
僕は頑固という言葉を聞いて、これからの出会いに身構えていた。
一体、どんな人なんだろうか。
◇◆◇
村の入り口に馬車が着いた。
おじさんの言葉通り、小さな村だった。
入り口近くに雑貨屋、宿屋、兼食堂、兼酒場、鍛冶屋、パン屋、水車小屋、そして教会が目に映る全てだった。
必要な物が全てコンパクトにまとまっている。
無駄がないと言えば聞こえは良いが、無駄を許すだけの余裕がないのだろう。
僕は馬車を降りて、乗せてもらった礼を言った。
「なに、気にするな。困ったときはお互い様だ。私はそこの雑貨屋を営んでいる、モーハンだ。なにか必要な物があれば訪ねて来てくれ」
「ディネシュと言います。モーハンさん、いろいろとお世話になりました」
教えてもらった牧場までの道のりを歩いていった。
村の中心からさらに山の方に歩いてしばらくすると、寂れた牧場が見えてきた。
かつては活気があったのかもしれないが、今は全てが錆びついていた。
雑草が生え放題となっていて家畜の姿もない。
慎ましやかな畑が人の営みを感じさせた。
僕は今にも崩れ落ちそうな小屋の扉を慎重に叩いた。
「なんじゃ、お前さんは?」
小屋から顔を出したおじいさんは僕の顔を見るなり、歓迎とは程遠い態度で迎えた。
すでに折れそうになっている心にムチを打って笑顔で応える。
「クージャイさんですか? 僕はディネシュと言います。手紙をいただいて、それを頼りにここまで来ました」
「……ディネシュ、ふむ、カーンティの息子か? 二人とも流行り病で亡くなるとは、残念なことじゃ。はるばるここまで来たということは、なにか困っとるんじゃないか?」
口調には温かさの欠片もなかったが、おじいさんは多少なりとも心配してくれていたようだ。
久しぶりに血の絆を感じて、その場に崩れ落ちそうになった。
しかし、ここが僕にとっての正念場だ。
おじいさんに追い返されれば、最早行くところはどこにもない。
「はい、恥ずかしながら一文無しでして。一生懸命働きますから、ここに置いてもらえませんか?」
僕は頭を下げて必死に頼み込んだ。
おじいさんが多少なりと親愛の情を持っているなら、それに縋りつくつもりだった。
「お前さん、歳はいくつだ?」
「今年16歳になりました」
「ふん、これから仕込むのは少し骨が折れるが、いいじゃろう。ここに住み込みで働いて、仕事を覚えるがええ」
零れ落ちそうになる涙をこらえて礼を言った。
両親が亡くなってからこれまで確固とした足場がなくて、いつも不安を抱えていた。
家もなく、金もなく、もう失うものは自分の命ぐらいだと強がってみても、まだ僕は少年と呼ばれる年齢だ。
大人の庇護を受けられることが、こんなにも安心できることなのかと、心の底から思い知った。
「ありがとうございます。ありがとうございます」
何度も礼を言い、その場に泣き崩れた。
こらえていた涙が溢れ出し、止まらなくなった。
おじいさんは何も言わずに僕の肩を叩くと、小屋の中へと招き入れた。
その日、温かな食事と寝床を得た僕は旅の疲れから泥のように眠り込んだ。
これから先、どんな生活が待ち受けているかわからない。
それでも命を拾っただけ幸せだと思える前向きさが残っていた。
――明日からどんな生活が待っているのだろうか。こうして僕は希望と不安を抱えて新しい生活を始めることとなった。