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第2話 牧場のひとこま

 

 片づけを済ませた僕は畜舎に向かう。

 ヴィマラはいってらっしゃいと言わんばかりに手を振っていた。

 今日も仕事を手伝うつもりはないらしい。

 そうでなくても臭い臭いと言って畜舎には近寄ろうともしないが。

 あいつこのままだと丸々と太って飛べなくなるんじゃないか。

 僕は食べて遊んで寝ているだけの同居人のことを頭に浮かべてため息をついた。


 畜舎に溢れる糞を黙々とシャベルで集めると、手押し車に載せていく。

 行先は畑の片隅に掘った堆肥場だ。

 相変わらず臭いは気になるが、土やおがくずと一緒にコーヒーの搾りかすも撒いて少しでも臭いを消す努力をする。

 堆肥場からは薄っすらと湯気が上がっていた。

 このまま発酵すれば良い堆肥になりそうだ。

 鼻を摘まみたくなる臭いも美味しい野菜になると考えればそれほど気にならない。

 もう鼻が馬鹿になっていて臭いを感じていないだけかもしれないが。


 畜舎に戻ると、水飲み場の水を入れ替えて牧草を餌箱に入れていった。

 牛たちが餌を食べている間に消毒した布で乳房を丁寧に拭いていく。

 容器を地面に置くと、両手で乳房をしごき始めた。

 溢れそうになっていた乳が白い線を描き、すぐに容器をいっぱいにした。


「今日もありがとう」


 街で過ごしていたときは感じなかったが、こうして身近に命の糧をくれる存在がいることで自然と感謝の言葉が口から出てくる。

 牛たちをブラシでこすってやると気持ち良さそうに身体をすり寄せてきた。

 牛の身体はとても大きい。

 全ての牛たちにブラシをかけ終わる頃には自然と汗が噴き出てきた。

 まだ、朝の仕事は始まったばかりだ。


 次は鶏舎に向かう。

 柵で周囲を覆って鶏小屋を作っただけの簡単なものだ。

 以前、野犬に襲われたのをきっかけに柵だけは頑丈にしている。

 扉を開けると、餌をもらえると思った鶏たちがわっと集まってきた。

 外に出ないように足でガードしながら身体を滑り込ませる。

 餌が欲しいだけなのだろうが、まるで鶏たちに慕われているように錯覚してしまう。

 お前たちは餌をくれれば誰でもいいんだよななどと自分が勘違いしないようにわざと憎まれ口を叩いた。

 誰に聞かせるために?

 もちろん僕しか聞いていない。


 餌箱に飼料を入れて、水飲み場の水を入れ替えた。

 飼料には漁村でもらってきた牡蠣殻を粉にしたものや酒場で出た野菜くずを混ぜている。

 牧場を残してくれたじいさんの秘伝のレシピだ。

 たったこれだけで鶏たちは毎日一人では食べきれないほどの卵を産んでくれる。

 鶏舎に残された卵を拾い集めると、それだけで籠はもういっぱいになった。

 目玉焼きにオムレツ、カルボナーラ、卵料理を思い浮かべて思わず笑みがこぼれる。

 さあ、楽しいことを考えた後は、さっさと嫌な仕事を終わらせるかと気合を入れ直した。


 シャベルで集めた糞を手押し車に載せた。

 どこにいっても糞、糞、糞。糞だらけだ。

 生き物を飼っている以上、切っても切り離せない。

 食べれば出てくるのは当たり前だろと不満を訴える心に蓋をした。

 身体に染みつく臭いには閉口するが、無心になって作業を進めると広い鶏舎も片付いてくる。

 終わらない作業はないなとシャベルの柄に顎を乗せてため息をついた。

 さあ次は畑の様子を見に行こう。


 収穫の秋と呼ばれるだけあって様々な作物がたわわに実っている。

 トマト、ナス、カボチャ、ズッキーニ、パプリカ、色とりどりで目にも楽しい。

 熟したものを採っていくだけで籠はもういっぱいだ。

 週末の青空市で売る以外は、自分で食べる分と宿屋に卸す分しか必要ない。

 何もかも一人で見られる程度の広さの畑で十分だった。

 収穫時期をずらしているが、あまり作り過ぎてもこの小さな村では消費が追い付かないのだ。

 これぐらいの規模が僕には丁度良かった。

 独りで暮らしていく分には十分な稼ぎもあるからね。


 収穫を早々に終わらせて作物の様子を見て回った。

 日々の変化は少なくても植物だって生きている。

 目を離すと問題を抱えていることは多いのだ。

 そんな綻びを感じ取って少しだけ手を貸すと、それだけで作物は元気な姿を取り戻してくれた。

 もちろん失敗だって多い。

 作物を全部ダメにしてしまったことだって何度もある。

 おじいさんは一から十まで農作業のイロハを教えてくれたが、失敗から学べば良いと早々に放任された。

 そして僕はおじいさんの思惑通り失敗から学んで一歩ずつ前に進んでいる。

 車輪の再発明というわけではなく、自分で経験しなくては身に付かないものもあるのだろう。


「おはようございます、ディネシュさーん」

 牧場の入り口の方から春風のような暖かみのある少女の声が聞こえてきた。

「今、行きます。少し待っていてください」


 籠を抱えて井戸に向かうと泥だらけの手を洗った。

 手押しポンプから噴き出した水は泥と混じり合って縞模様を作り、排水溝へ流れ込んだ。

 タオルで手を拭きながら入り口に急ぐと、少女が手を振っていた。


 彼女はアーシャ、この村の宿屋、兼食堂、兼酒場『渡り鳥の道標亭』の娘さんだ。

 歳は僕の一つ下で16歳、目鼻立ちがハッキリしていて将来美人になりそうなのは、宿屋の女将である彼女の母親を見ても明らかだろう。

 肩まで伸びたブルネットの髪は陽光を浴びて毛並みの良い馬のようにしなやかに輝いていた。

 この村に来たばかりの僕にも積極的に声をかけてくれて村のことを教えてくれる優しさには随分助けられている。

 明るくて優しくてかわいい少女となれば、放っておく奴はいないだろう。

 村の青年たちからもかなりの人気だと風の噂に聞いていた。

 表情がくるくる変わる彼女は見ていても話していても飽きないと僕も思う。

 今はこの牧場のお得意様でもある。


「ディネシュさん、今日も野菜と卵を仕入れたいのだけど、いいですか?」

「もちろん、採れたての野菜と卵を用意しておいたよ」

 僕は自然な笑顔を返したつもりだが、内心は鼓動が激しくてうるさいぐらいだ。

 自分の方が年上にも拘らず、かわいい少女を前にして緊張するなんて情けない。


「良かった。ここの野菜はお客さんにも評判がいいんです。それで、その、支払いですが」

「月末にまとめてだよね。構わないさ」

 物分かりの良い頼れるお兄さんを演じてみる。

「本当ですか、やった!」


 アーシャは胸の前で手を合わせると喜びを表すように飛び上がった。

 なんだか体良く使われている感がしないでもないが、女の子に頼まれると断れない。

 食べるだけなら自給自足でもやっていけるので、それほど切迫しているわけでもなかった。


「それじゃ、これぐらいで足りるかな」

「はい、十分です。ありがとうございます」

「重いけど大丈夫? 宿屋まで運ぼうか?」

 ふたつの籠に野菜と卵を詰め込んだので、かなりの重さになっている。

「いえいえ、ディネシュさんにそんな手間はかけさせられません」

 両手に籠を持ち上げたアーシャはよろよろと足元が覚束なくて心配になった。


「足元に気を付けてね」

「またよろしくお願いします。それでは」

 アーシャは深くお辞儀をすると、牧場の入り口を出ようとして転んだ。

 籠から飛び出た卵が地面に落ちて割れ、転がり出たトマトがアーシャの下敷きになった。

 彼女は泥だらけの上に卵とトマトのトッピングで酷い有様だ。

 僕はそれをただ見ているだけで手を差し伸べようとしなかった。


「……使う気なんでしょ。アレを」

 いつの間にか顔の横を飛んでいたヴィマラが話しかけてきた。

「そうだね、困っている彼女を助けたいんだ」

「アレはディネシュの命を削っているんだよ!」

「少しだけだよ。ほんの少し前に戻るだけだ」

「そんなに気軽に使って、どうなっても知らないからね」

 ヴィマラは頬を膨らませてぷいっと明後日の方向を向いてしまった。


 僕は身を案じて苦言を呈してくれているヴィマラに苦笑を返すしかなかった。

 実際、自分の命を削ってまですることではないとわかっている。

 だけど目の前に助けられる人がいれば、助けたくなるのが僕の性分だ。

 左手の人差し指にはめた指輪を右目にかざした。


「時よ、在りし日に還り、時を刻み直せ」


 目の前の世界が目もくらむほどの白い光で包まれた。


  ◇◆◇


「足元に気を付けてね」

「またよろしくお願いします。それでは」

 アーシャは深くお辞儀をすると、牧場の入り口を出ようとして転んだ。


 その時、僕はもうアーシャに向かって走り出していた。

 左手で卵の籠を奪い、右手で彼女の腰を抱きかかえる。

 折れそうなぐらい細くて重さを感じさせないぐらい軽い。

「大丈夫かい? やっぱり宿屋まで送るよ」

「えっ、あ、はい、すみません。お願いします」

 アーシャは赤く火照った顔を隠すように顔を伏せた。


 僕は籠を両手に受け取るとヴィマラの方を向いて笑いかけた。

 ヴィマラは目も合わせてくれず、機嫌の悪いままだった。

 後でとっておきのクッキーをあげて謝るか。

 悩み事を頭の片隅に追いやって、僕はアーシャと並んで宿屋への道程を歩き始めた。







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