第1話 朝のひととき
夜明け前の薄明の時間が僕は好きだ。
夜でもなく朝でもない。
この曖昧な時間は夢の世界から現実への確かな道筋でもある。
だけど、夢の世界ほど荒唐無稽でもなく、現実の世界ほど無味乾燥でもない。この中途半端な時間に浸ることは、僕の朝の習慣となっていた。
扉から出ると朝の新鮮な空気を感じた。
空気が入れ替わったわけでもないのに、何が違うのか気になったこともある。
単純に寝る前よりも熱を失った空気に新鮮味を感じているだけだと考えると、朝の楽しみがひとつ減ってしまいそうで考えるのを止めた。
この牧場で暮らすようになって、もう一年が経った。
水汲みは毎朝の日課となっている。
街中のように蛇口をひねれば水が出るわけではない。
少し面倒に感じることもあるが、井戸から汲み上げる地下水はとても美味しい。
どこまでも澄んでいて美しく、嫌な臭みも変な味もない。
夏は冷たく、冬は少し暖かさも感じる。
労力に見合った満足感を与えてくれている、はずだ。
なんだかんだと理由をつけているが、それ以外に選択肢がないというのが実情でもある。
人間、水がなければ生きていけないのだ。
桶に残った水をシリンダーに入れて手押しポンプのハンドルを上下させると、勢いよく水が噴き出した。
慌てて桶で水を受け止める。
吐く息が白く煙った。
まだ、秋の始まりだというのにここは高度が高いせいか、もう肌寒いほどだ。
寒くなる前に薪を集めておかないといけないな。
冬支度にはまだ時間があるが、やることはてんこ盛りだ。
のんびりしていては部屋の中で毛布にくるまりながら歯を鳴らすことにもなりかねない。
僕は水の入った桶を持って家に入ると、壁にかけたボードに『薪を集めること、なるべくたくさん』と書いた紙をピンでとめた。
薪ストーブに火を入れると、昨日の夜に作っておいたパン生地を取り出した。
パン種を入れてこねておいた生地は発酵して膨らみ、赤ちゃんの肌のようにもちもちだ。
打ち粉をした台の上で生地をこねて丸めると、乾燥させたかぼちゃの種を振りかけた。
良く研がれたナイフを取り出し、パンの表面に切れ目を入れる。
生地をキャセロールに入れて薪ストーブの中に置いた。
毎朝、こんな手間暇をかけて食事の支度をしているわけではない。
いつもは固くなったパンを温めるだけの粗末なものだ。
週に一度はこうしてまとめてパンを焼いて保存する。
その日だけは焼き立てのパンを味わえる特別な日となっていた。
ストーブの上に水を入れたケトルを置いて、雑貨屋で購入したコーヒー豆を取り出す。
袋を開けて顔を近づけると香ばしい香りが鼻孔をくすぐった。
僕はミルに豆を入れてハンドルを回し始めた。
ごりごりと臼の中で豆の砕かれる音はなんだか小気味いい。
手に伝わす心地よい振動と共に、いつまでもハンドルを回していたくなる。
しかし、一人分の豆はすぐに粉になって落ちてしまい、少し寂しさを感じさせた。
濾し布に粉を入れると、沸騰したケトルからお湯を回しいれる。
辺りに香ばしいコーヒーの香りの花が咲き誇った。
朝の定番となっているせいか、この匂いを嗅ぐと頭がすっと覚醒してくる。
寝ぼけ眼の妖精が目の前を横切った。
僕が寝ぼけているわけじゃない。
寝ぼけているのは妖精の方だ。
ふらふらと飛んで壁にぶつかりそうになっているのは、まだ目が覚めきっていないせいだろう。
「おはよう、ヴィマラ」
「おふぁよう、ディネシュ」
欠伸をしたヴィマラは透き通った翅を震わせ、きらきらと輝く鱗粉を撒き散らしていた。
人間でいえば10歳ぐらいの見た目だろうか。
幼さの残る顔はくるくると表情が変わって見ていて飽きない。
一枚の布を身体に巻き付けてドレスのようにしている姿もなかなかかわいい。
手のひらに収まる大きさの身体は触れるだけで壊してしまいそうだと、最初はおっかなびっくりだった。
今では髪の毛も切ってあげられるまで成長している。
翅にかからないように肩で切り揃え金髪は軽く波打って絹糸のような光沢の美しさだ。
何の因果か僕は妖精の女の子と一緒に暮らしている。
森で助けたことが縁となって、半ば押しかけるようにここに住むと言い出したのだ。
家族を失った寂しさを誤魔化していたところだったので、話し相手にはちょうどよかった。
問題があるとすれば、他の人にはヴィマラの姿は見えないし、声も聞こえないことだ。
彼女と会話をしていると、傍目には独り言を呟いている変な人に見えてしまう。
村の人たちと今ひとつ打ち解けられないのは、そのせいかと思うと頭を抱えたくなった。
「カップに水を入れるから顔を洗ってきたら? 間違っても桶に頭を突っ込まないでくれよ」
「えっ、大丈夫だよ。この前みたいに桶の中に落ちないから」
「僕は妖精の出汁が入った水でコーヒーを飲みたくないだけだよ」
「妖精の粉って回復する効果があるんだよ。すごく得した気分にならない?」
ヴィマラは薄い胸を張って自慢気な顔を見せた。
桶の中で溺れそうになっていたのを助けたのは誰だと思っているんだ。
喉まで出かかったため息を飲み込んで、目の前に水の入ったカップとタオルを用意した。
そろそろパンも焼きあがった頃合いだろう。
僕は分厚い革のミトンを手にはめてキャセロールを取り出した。
蓋を開けるときつね色に焼けたパンが姿を見せた。
湯気と共に漂ってきたのは小麦が焼ける香ばしい香りだ。
コーヒーとパンで香ばしい香りの競演となる。
朝でもっとも幸せを感じる時間だ。
僕は夏の間に摘んだラズベリージャムの瓶を取り出した。
苦労して集めた実で作った、とっておきの一品だ。
焼きあがったパンを千切ってスプーンでジャムをつけると、思わずかぶりついた。
皮はパリッとして中はしっとり柔らかいパンの食感と口の中に広がるラズベリーの爽やかな甘酸っぱさで唾液が溢れてくる。
パン表面にふりかけたかぼちゃの種はいい塩梅に炒られてまるでナッツのようだ。
かけた時間がこうした形で自分に戻ってくることに密やかな達成感を感じた。
苦労が報われる瞬間だ。
こうした小さな満足の積み重ねがこの生活の醍醐味なのかもしれない。
スプーンにジャムを少しすくってヴィマラの前に差し出した。
彼女は両手でスプーンを掴んでジャムを舐めとっていく。
目を閉じて芳醇な味わいを確かめると、うっとりとして幸せそうな顔を浮かべた。
森に帰ろうとしないのは半分ぐらい何もしなくても食事にありつけるからじゃないかと邪推してしまう。
パンの載った皿も差し出すと、自分で千切って口に頬張った。
テーブルの上に腰をぺたんと下ろしている姿は、とても他人に見せられたものじゃない。
妖精サイズの家具を作ろうかとも提案したが、ヴィマラの面倒だとの一言で流れてしまった。
パンの味を十分に堪能した後、僕はコーヒーを口にした。
深いアロマとさっぱりと後に引かない苦味が気分を落ち着かせてくれる。
ヴィマラにも飲むかと聞いてみたが、眉間に皺を刻んだ顔が返ってきた。
最初にミルクを入れてやらなかったのが敗因かもしれない。
コーヒー信者を一人失ってしまったなと僕は苦笑いを浮かべた。
さあ、朝の憩いの時間は終わりだ。
これからは時間との戦いになる。