69 悪夢
触るべきか、触らないべきか、それが問題だ。
俺は今、電車に乗っている。会社へ向かう途中だ。車内は、俺同様に出勤途中のサラリーマンや、登校途中の学生たちで混み合っている。
俺は、ドア近くの長椅子状の座席のそばの、手すりにつかまって立っている。俺はここから動くことができない。車内が混み合っているから、というのがその理由ではない。理由はひとえに彼女のせいだ。彼女は、どこかの高校の制服とおぼしきブレザーを着て、俺の前に立っている。正真正銘の現役JKだ。背を向ける彼女の長い黒髪から、シャンプーの香りが漂って来る。ドアの窓には、彼女がスマホに目を落とす姿が映っている。その顔は、美少女と言ってよかった。
ここで一つ問題を出そう。小柄だが発育のいい、いやらしい体つきをしたJKが、男を誘う魅惑的な肢体をしたJKが、自分に尻を向けて電車の中で立っているとしたら、選択肢はいくつあるだろうか。触るか、触らないか、その意味で言えば、選択肢は二つだ。だが、しかし、この瞬間、車内には俺と俺を誘う彼女の二人しかいないと、そう思えたこの瞬間、俺の選択肢は一つだけだと思えた。
触る。触りたい。この手を彼女の体の隅々まで這い回らせて、思うさま彼女を蹂躙し征服したい。
呼吸が荒くなる。心拍数も上昇する。熱を持ったマグマがこの体の奥底に蓄積し、脳内ではある種のスパークがチカチカと点滅を繰り返す。
俺はすでに我慢の限界だ。あとは行動あるのみ。しかし、そんな瞬間、俺はどこからか聞こえる声を感じた。
(ダメだよ、そんなことしたら)
それは俺の脳内に直接響いていた。
(ダメだよ、そんなことしたら。君には家庭も仕事もある。ほんの一時の欲望に身を任せて、その女子高生に痴漢して、すべてを失ってもいいのかい? 奥さんにも子供たちにも見捨てられて、せっかく課長まで上った会社内での地位も失って、何もかも失くして、君は社会的な死を迎えることになるよ)
それは俺の良心の声だった。
俺はJKの尻に伸ばしかけていた手を引っ込めた。なるほど、俺の良心の声には聞くべきところがあると思った。社会的な死か、まさにその通りだろう。家庭も仕事も社会的地位も信用もすべてを失う。誰も彼もが俺を白い目で見ることだろう。それが結果だ。理性と良心に従うなら、俺は潔く手を引かなくてはいけない。ところが、
(どうした? やめるのか?)
今度は別の声が聞こえた。
(どうした? やめるのか? それでも、お前は男か? 触れよ。触って見せろよ。快感を、栄光を、その手につかみ取れ。ほら、見ろ。目の前でお前を誘っているぞ)
それは俺の欲望の声だった。欲望と良心とは俺の脳内でせめぎ合いを始めた。
(いけない。だめだよ)
(触れ、触って見せろ)
(社会的に死ぬんだよ)
(目の前の果実を収穫しろ)
気が付くと俺は、そろそろと手を伸ばし始めていた。
(ああ、何をする?)
脳内では、欲望が良心を仕留めつつあった。
(ククク、いいぞ。その意気だ)
俺は手を伸ばす。現役JKの尻をなで回してやる。スカートの中へ侵入し、水色に違いない彼女の下着の手触りを――彼女のイメージカラーは水色だ――堪能してやる。そして、そして俺は――。
俺の手が彼女の尻に触れ、彼女がビクリと身を震わせたその時だった。予想外のことが起こった。横から伸びて来た何者かの手が、俺の手首を強くつかんだ。驚いて俺はそちらを見る。すると、一人の険しい顔をした男が、何か黒い手帳のような物を俺に見せつけながら、こちらをにらんでいた。
警戒中の私服刑事のお出ましだ! 現行犯逮捕。社会的な死。これからこの身に襲いかかるであろう破滅を想像し、俺は思った。
ああ、何もかも終わった。
「ハッ……!」
俺は布団をガバとはね上げて身を起こした。頭痛がする。俺は頭を抱える。
「くっ……」
いつの間にか眠っていたようだ。そこは畳敷きの狭い部屋だった。
「今まで俺が見ていたものは……」
女子高生もいなければ、刑事もいない。ましてここは電車の中ですらない。
「なんだ。夢か……」
留置場の中で、俺は安堵の笑みを浮かべた。




