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44 幻影~最強の対戦相手

 朝霧の立ちこめる山道を、スウェット姿の男が一人、走っている。

 不意に男は立ち止まると、

「シュッ、シュッ、シュッ!」

 鋭い左ジャブを空中へ繰り出した。芸術的とさえ言える、完璧な軌道のジャブであった。

 男は目にも留まらぬステップワークで右へ左へと旋回すると、ボディと見せて顔面へ、顔面と見せてボディへの強烈なストレートを放った。

 左右のフックが空を裂き、二連打、三連打、四連打と、合理的かつ効果的な組み合わせのコンビネーションブローが繰り返された。

 男は明らかにプロのボクサーだ。それも、百戦錬磨の、完成されたボクサーであることが、一連のシャドーからわかった。

 しかし、

「くっ……」

 ボクサーがディフェンスの動きに移った時、その表情がひどく険しいものへと一変した。

 いったいどんな仮想敵のどんな致命的なパンチをかわしているというのか、膝を屈めてのダッキングも、背中を反らしてのスウェーも、上体を傾けてのスリッピングも、一つ一つの動きが命を削るギャンブルででもあるかのような、そんな緊張感に満ちていた。

 そして、

「だめだ……」

 その言葉がボクサーの口から漏れた。

「今度ばかりは負けるかもしれん……」

 ボクサーは肩を震わせた。

「俺が負ける? しかし、今回の相手は……」

 戦慄。類まれなる闘志を吹き消すがごとくに、奴への恐怖が冷たい風となって吹き抜ける。

 ボクサーは頭を振ると、再び山道を走りだした。


 そして、試合当日。

 ゴングが打ち鳴らされ、満員の会場に怒号が響く。

 そいつは、赤コーナーのコーナーポストに背をもたせ、全身の筋肉をぴくつかせていた。

(なんてプレッシャーだ……)

 ボクサーが唾を飲み込む。そいつは、グローブをはめられた手で腹をボリボリと掻こうとしてそれに失敗し、ひどく苛立っている様子に見えた。

 四角いリングをライトが照らす。

 そいつとボクサーの目が合った。そいつは苛立ちの矛先をついに見つけたようだった。

(来る……!)

 そいつは一足跳びで間合いを詰めると、ボクサーに肉薄した。恐ろしいうなりとともにストレートが打ち出され、それを間一髪の差でかわしたボクサーの左頬を真空の刃が傷つけ鮮血を噴き出させた。

(とうとう……始まったか!)

 歓声がリングに降り注ぐ。

 異種格闘試合。今夜のボクサーの対戦相手は、筋骨隆々とした、バカでかい、オスのカンガルーだった……。

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