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カミサマ・ラーメン

作者: 日笠京太郎


時計に目をやると、短針が"十一"を指していた。店の掃除と売り上げの確認を終え、従業員の帰りを見送った俺は、一人試作のラーメンを前にする。少しでも先代の味に近づくため、毎晩の試食は欠かせない。

今回は、煮込む時間を少し変えてみた。数分だけ長くしたのだが、味はどれだけ変わるだろうか。

「煮込みの時間が数分違うだけで、味は幾分変わるんだ」とは先代の言葉だ。その言葉に習って、俺は毎日試行錯誤を重ねる。先代が残してくれたこの店を汚さないため、重ねなければならない。

「いただきます」と呟いてから、細いストレート麺を啜る。どろどろとした鶏ベースのスープに麺はしっかりと絡んでいて、スープとの一体感は先代のそれに近いものがあった。茹で加減もちょうどいい。麺は概ねこれで問題ないだろう。

しかし、一番の問題はスープだ。先代がとことんこだわり抜いたスープを俺は、未だに再現できていない。鶏と数種類の野菜をじっくり煮込んだというそのレシピが、俺たちに明かされることはなかった。

ふぅっと息を吐いてから、どんぶりを持つ。口につけてから、傾ける。

スープを飲むと、鶏の風味が香った。どろどろとした濃厚なスープは、攻撃的なまでのコクを感じる。そして、その味が飲み込むまでずっと、しつこく口に残った。

俺はため息をつく。今日も思い通りの味にはならなかった。今日のスープも、悲しいかな先代の劣化版だ。

確かに、先代のスープにも鶏の攻撃的なコクはあった。しかし、後味には野菜の爽やかな甘さが香り、鶏が醸すコクと調和を取っていた。そこが、俺のスープと先代のスープとの大きな違いだ。俺のスープには野菜の甘さがなく、口の中には一方的に鶏の濃さだけが残る。そうなると、全体的にしつこい印象のラーメンになってしまい、後半に飽られてしまう。どうにかして先代のような野菜の甘さを出し、濃さと甘さのバランスが取れたラーメンを仕上げたいのだが、どうしても鶏が際立ったラーメンになってしまう。今日もそうだ。

もう一度、ため息をついた。店内には、秒針がかちかちと脈を打つ音だけが響いている。俺の他に人もいないし、その俺も意気消沈していたので、音がないのも当然だ。静かな、閉店後の店内だ。

ちなみに、今日の売り上げも芳しくなかった。おそらく、先代がやっていた時の二割減くらいだろう。


先代が亡くなったのは、四ヶ月前のことだった。いつものように店じまいをした先代は、自宅から店に向かう帰り道で、飲酒運転の車に轢かれて亡くなった。俺を含めた従業員全員はショックから、店を辞めてしまおうかという話もした。しかし、先代の奥さんの強い希望で、店は存続することになった。そして、従業員一同と奥さんが相談した結果、新しい店長は俺となり、先代を亡くした悲しみを堪え、営業は再開された。

会えるものなら、先代に会いたい、とは思う。あのラーメンをどうやって作っていたのかも聞きたいし、単純に話をしたい。惜しい人を亡くした、とはこのことを言うのだろう。


試作のラーメンを食べ終え、水場でどんぶりを洗っていると、「すいません」と声がした。コンコン、と店のドアが叩かれている。こんな時間に誰だ、と怪訝に思ったが、一応対応しなければなと感じ、水を止め、施錠していたドアを開けた。ラーメンの試作は毎晩やっているが、こんな時間の訪問者は初めてだ。

「こんな夜分にすいませんね。まだやってますか?」

ドアを開けると、中年男性が腕を組んで仁王立ちしていた。禿げ上がった頭が印象的で、眉はいかめしくへの字に曲がっている。

「すみません。うちの営業時間は十時までなんで、もう閉店しちゃってるんですよね」

「そうなんですか。灯りがついていたもんですから、営業していると思いましたよ」

中年男性は頭を掻いて、表情を変えないままぐぅと腹を鳴らした。への字の眉が、ぐいと曲がっている。

「もしよかったら、作れる範囲で何か作りましょうか? せっかく来ていただいたわけですし」

「え? 本当ですか?」

中年男性の瞼が少し動いた。

「ええ、まあ。試食用で作ったラーメンの残りがありますから、それでよければ提供できますよ」

「そうなんですか。そういうことであれば、是非お願いします」

中年男性がやはり表情を変えないまま、軽く頭を下げた。中年男性の頭が見える。頭頂部は丸っきり禿げていて、それを囲うように白い毛が、申し訳なさげに生えている。気にしていないのか、禿げを隠そうとする意志は感じられない。とても潔いな、と俺は思った。


「おいしいですね」というのが第一声だった。

ラーメンを拵え、カウンター席に座っている中年男性の前にどんぶりを置くと、中年男性は麺を啜らず、吸って食べた。その後の第一声だ。俺はそれを見て、啜れよとやや不満に思ったのだが、おいしいと言ったので許すことにした。

「おいしいですね。こういうのを、醤油ラーメンというんですか?」

中年男性がれんげでスープを飲み、そう問いかけて来た。俺は思わず眉を下げる。

「いや、醤油ラーメンではないですね」

「え? じゃあ、味噌ラーメンですか?」

「味噌ラーメンでもないですね」

俺が指摘すると、中年男性はうーんと唸った。味覚音痴なのだろうか。うちのラーメンは豚骨と間違えられることはあるが、醤油や味噌と間違えられたのは初めてだ。

「一応、鶏と野菜を煮込んだスープなんですけど」

「そうなんですか」

俺が言ったのを聞くと、中年男性は感心した様子を見せた。目を細め、「ほう」と唸っている。

「で、鶏ってchikenのことですよね?」

「まあ、はい」

中年男性が首を傾げた。

「私の知っているchikenはこんなんじゃなかったと思うんですけど」

「まあ、何時間も煮込んでますからね。煮込んだら原型もなくなります」

「へぇ、chikenも煮込むとこうなるんですね」

chikenの発音が妙に良いのが気になる。

「まあそうですね」

「そうなんですか。覚えておきます」

中年男性は言うと、またラーメンを食べ始めた。ぎこちない箸の持ち方で、麺を啜らずに食べる。

俺はそこで、あることを思った。

「あの、失礼ですが、もしかしてラーメンを食べたことないんですか?」

まさかとは思ったが、一応聞いてみた。

「そうですね。ラーメンというものの存在は知っていましたが、食べたのは今回が初めてですね」

「え? 本当ですか?」

俺は、思わず目を見開いてしまった。ラーメン屋をやっているというバイアスを抜きにしても、ラーメンは国民食として受け入れられているものと思っていた。そんな状況下で、ラーメン未食の中年男性がいるとは驚きだった。

「どうしてラーメンを食べたことがなかったんですか?」

俺はそう聞かずにはいられない。

「まあ、日本国に来るのは初めてですからね。中華人民共和国にも行ったことがありませんし。ラーメンというのは、主にその二カ国で食べられているのでしょう?」

国名を正式名称で言ったことにも違和感を覚える。

「え? ということは、あなたは日本人じゃないということですか?」

「ええ、まあ」

目の前の男は、どこからどう見ても日本人に見える。ホリが浅く、顔が平らな、生粋の日本人といった趣の顔立ちだ。

「日本人じゃないというか、人間じゃないという方が表現として適切でしょうか?」

「は? 人間じゃない?」

「はい」

中年男性は真顔で言い切った。俺は驚き、その顔をまじまじと見つめてしまう。

「え? 人間じゃないって、どういうことですか?」

目の前にいる中年男性風の生物が、正直怖かった。「得体の知れない」という表現を、初めて実感として捉えたような気がする。

「そうですね。この国の言葉で言えば、私は『神』という存在に当たるでしょうか?」

「は?」

この男は、自らを神と自称した。そんな馬鹿な。奇をてらっているのだろうか。

「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国の言葉で言えば、私は『God』ということになりますね」

中年男性が、いやに淡々と語った。表情は崩れず真顔で、それがまた不気味だ。そんな顔で神を自称されても困る。

「神......ですか」

俺はただただ困惑した。「私は神だ」と主張されても、どう反応すべきかわからない。

「まあ、『神に髪はない』というわけです」

自称『神』が真顔で、そんなダジャレを言った。悪いが全然笑えない。この生命体とどのように接すべきかで、頭がいっぱいだったのだ。


「あの、神ってどういうことですか?」

深呼吸をしてから、目の前の『神』を見た。焦る俺をよそに、『神』はちゅるちゅると麺を吸っている。

「そのままの意味です。私は神です」

『神』はチャーシューをつまみながら、いたって真面目に語った。見れば、先程よりも箸の使い方がうまくなっている。

「あの、俺は怪しい宗教団体なんかに興味はないですよ?」

「怪しい宗教団体?」

『神』は首を傾げた。俺は説明を加える。

「簡単に言うと、怪しい教えを布教する団体です。この国でも、これに引っかかって大金を失った人がいますし、それ絡みの事件も起きてます」

なるべくわかりやすくなるよう、丁寧に説明した。

「そうですか。そういうのもあるんですね」

俺の説明を聞くと、『神』は表情も変えずに大きくため息をついた。

「すみません、あなたは結局誰なんですか?」

「はい?」

「私は信じまられせんよ、神なんて」

俺が本心を言うと、『神』はいよいよ表情を変え、ふくれっ面を作った。

その表情のままずずっと麺を啜ると、『神』は、「こうやって食べた方がうまいな」と小さく呟いた。


「信じないのなら、信じてもらいましょう。私が神だっていうことをね」

ラーメンを食べ終えたタイミングで『神』は、俺を指差してそう豪語した。しばらく俺の顔を見てから、また話し始める。

「正確に言えば、信じざるを得ない状況を作るとも言うべきでしょうか。とにかく、私が神だということを信じてもらいましょう」

神はそう言った後、卓上の胡椒を手に取り、匂いを嗅ぎ、くしゃみをした。「なんだよペッパーかよ」と小さく呟き、俺の方に向き直る。

「それで、どうやって信じさせてくれるんですか?」

「神の力を見せて、信じてもらいます」

『神』は腕を高く突き上げた。

「どうやってその神の力を見せてくれるんですか?」

「せっかちですね。愚かしいですよ」

勝手に言ってろ、と心の中で呟く。

「じゃあまず、聞きます。あなたには何か叶えたい願いはありますか?」

『神』が右手の甲を額のあたりに当てながら、勢い良くそう問いかけた。

「願い事ですか...?」

俺は一応、考えてみる。

「何? 彼女が欲しい?」

「そんなこと言ってませんよ!」

「そうですか。人間のオスはだいたいそんなもんかと思いましたけど、違うんですね」

「違いますよ」

「じゃあ本当の願い事はなんです?」

「そうですね...」

考えていると、『神』が食べ終わった後のどんぶりが目についた。『神』は汁まで飲み干したようで、どんぶりの底が見えている。

「そのラーメンを、もっとおいしくしたいです」

「はい?」

口から無意識に、願いが漏れた。

「俺の願い事は、あなたが今食べたそのラーメンをもっとおいしくすることです」

「ほう」

『神』が、頬杖をついた。机をとんとんと叩いてから、俺の方を見た。

「どうやっておいしくするんです?」

「その為に、会いたい人がいるんですよ」

「会いたい人?」

「はい」

どうしてもあの味に近づきたいと思うが、どうしても近づけない。それならもう、会うしかないのではないか。俺はそう思ったのだ。

「会いたい人というのは?」

「故人なんですが、井村勉という人です。この店の創業者で、俺の師匠です」

そう言うと、先代との出来事が一気に思い出され少し切なくなった。胡散臭い神でもなんでいいから、先代に会えるというならば会わせて欲しい。

「故人ですか。問題ありません。私の力を誇示するには、むしろ都合が良いです」

『神』がそう言っては、右の口角を上げた。

「いいでしょう。では、明日のこの時間、ここにいて下さい。そうしたら、その...何て名前でしたっけ?」

「井村勉です」

「その井村勉がここに来ます。ですので、お楽しみに」

『神』が俺を指差し、にっと笑った。

「できるなら、そうして欲しいですね」

俺は本心を言う。

「あなたは明日、神の力に酔いしれますよ。私を崇めたくなるでしょう」

『神』は人差し指を立て、ゆったりとした口調でそう言う。禿げ上がった頭と、への字につり上がった眉は、とても神の風貌とは思えなかった。


カウンター席で電卓を叩いていると、肩を叩かれる感覚があった。「店長さん、こんな話知ってます?」と、軽快な声がする。振り向くと、デッキブラシを持ったなおみが、人懐っこい笑顔を浮かべていた。

「なんの話だ?」

「ヨーロッパで話題になった不思議な学生の話ですよ」

なおみはにっと笑って、デッキブラシを壁に立てかけた。なおみは先代の一人娘で、「いつか父親のようなラーメン職人になりたい」という夢のため、先代が亡くなる以前から、大学生活の傍らうちで働いている。

「不思議な学生の話か」

「はい。今日の講義で、教授が言ってた話なんすけどね」

なおみは言いながら、しれっと俺の隣の席に座った。黒いショートヘアかき上げてから、続ける。

「イギリスのとある大学の経済学部に、一人の男子学生がいたんです」

なおみが、大きな目をまっすぐこちらに向ける。

「その学生、そんなに優秀じゃなかったらしいんですけど、ある日から急に頭が良くなったらしくて、それで、その勢いのまま論文を書いたらしいんですよ」

「へぇ。それでその論文はどうなったんだ?」

「はい。その論文、学者の間でもなかなか評価が高くてですね。学会でも優秀賞を取っちゃったんですよ」

「そりゃすごいな」

人間がそんなに急成長を遂げるとは信じられなかったが、一応相槌を打つ。

「で、不思議なのはここからなんですけどね。その学生、論文が評価されてから、何日かしたら普通の学生に戻っちゃったんですよ」

「普通の学生に戻った?」

「はい。論文で見せた緻密な論理構成力も、経済の知識も、全部なくなっちゃったみたいで。しかも、本人は論文を書いた記憶がないって言うんですよ」

なおみは身振り手振りでもって、大袈裟にそう説明した。すらっと背が高く、体の均整も取れている彼女だが、大きな目や丸い輪郭の顔は幼げな印象も受ける。

「記憶もないのか」

「そうなんですよ。その論文、アダム・スミスの神の見えざる手に関する論文だったらしいんですけど、その学生にアダム・スミスの質問をしても詳しいことまでは答えられなかったみたいで」

「アダム・スミスか」

「店長さん、アダム・スミス知ってます?」

「さすがに知ってるよ。高校の世界史でやったのを覚えてる」

「じゃあ、アダム・スミスの著作はなにか知ってます?」

なおみが俺の方を覗き込んで、試すような笑みを浮かべた。

「それは知らんな。何だよ?」

「『国富論』ですね。神の見えざる手も、この本の中で議論されてます」

なおみが早口で言い切った。見れば、自慢気に腕を組んで、すましている。

「そういえば、店長さんって彼女とかいるんですか?」

「唐突だなおい」

「ふと気になったんで、聞いちゃいました」

なおみが、ぺろっと舌を出した。

「いると思う?」

「正直いないと思います」

なおみがきっぱりと言うので、俺はつい眉を下げてしまった。

「随分はっきり言うな。そうだよ。俺に彼女はいねぇよ」

「そうなんですか。なんか、すいませんでしたね」

なおみは立ち上がって、壁に立てかけられていたデッキブラシを手に取った。口では謝りつつも、口調はどこか楽しげだった。

「俺を煽るのはいいから、早く掃除しろ」

「はいはい。わかってますよ」

なおみは言って、厨房の床をゴシゴシとこすり始めた。まったく、彼女がいないだけで煽られてしまうとは、現代日本は恐ろしい。当のなおみは、どこか嬉しそうな表情で床を擦っていた。床をする音が、店内に響いている。

俺はため息をついた。電卓をとんとんと叩きつつ時計を見ると、十時過ぎを指していた。


短針が"十一"に近づいてくると、妙な緊張感が俺を襲ってきた。何を緊張しているのだ、とは思うのだが、店長に会える可能性を考えるとどうも緊張してしまう。俺にとって店長は、それだけ大きな存在なのだろう。

今日も今日とて、試作のラーメンを前にしていた。今回も煮込みの時間を変えてみたのだが、結果はどうだろうか。店長の味に少しでも近づければ御の字だ。

割り箸をパキっと割り、「いただきます」と呟く。深呼吸をしてから、どろどろどろスープに埋もれた麺を持ち上げ、ふーっと麺を吹く。そのまま口元に箸を持っていこうとすると、そこで店のドアがコンコンと叩かれ、驚き、思わず麺を落としてしまった。麺がスープに落ち、波紋が広がる。

心臓がどくんと、大きく脈を打った。

現在時刻は丁度十一時をさしている。この来客は果たして誰だろうか。先代なのだろうか。期待しつつも、そんなわけはないよな、と半分諦めて、俺はドアの方へ歩いた。


ドアを開けると、俺はその光景を前に固まってしまった。一瞬何が起こったのかわからずに戸惑っていたが、状況と飲み込むと、胸の奥から嬉しさがこみ上げてきた。こんなことがあるのか、とは思ったが、とにかく神に感謝したくなった。頰もつねったが、ちゃんと痛い。

「久しぶりだな」と、聞き慣れただみ声を聞いた。俺の目の前にいるのは、何を隠そう、先代の井村勉だった。口元を覆う細かい髭に、鋭い切れ長の目。紺のTシャツと頭に巻いた白いタオル。顔も格好も、あの日のままだった。

「勉さん......」

「神様に一時間だけ貰えたんでな。来てやったよ」

先代は言って、口元を緩めた。この笑顔も、あの日となんら変わっていない。遺影に映るあの笑顔が、今俺の目の前にある。

「みんな、元気してたか?」

「はい。みんな病気にならずにしっかりやってます」

「そうかい。そりゃ良かった」

先代がにっと笑った。

「なおみもちゃんとやってるか?」

「はい。大学も忙しいでしょうが、オンオフ切り替えて、ちゃんとやってますよ」

俺が言うと、先代がほっと息を吐いた。

「安心したぜ。あいつはサボりぐせがあるからな。ちゃんとやってるなら良かったよ」

「はい。みんな問題なくやってます」

俺が答えると、先代はまた笑った。

「外は寒いですし、とりあえず入りましょうか」

「そうするよ」

先代は返事をして、俺に続いた。俺が店のドアを開け、手招きをすると、先代は店に足を踏み入れた。


「懐かしいな。この匂いだよ」というのが、先代の第一声だった。うちは営業中常時鶏を煮ているから、鶏の匂いが店中に充満している。先代はその匂いを懐かしく思ったのだろう。

「なんだよこれ。お前が作ったのか?」

先代は、カウンター席に座るなりそう言った。机に置かれた試作のラーメンを指差してから、匂い嗅いでいる。

「なんだよ。俺が作ってたやつそっくりじゃねぇか。レシピ言わなかったのに、匂いまでまんまじゃねえか」

先代は意外そうに口を開いた。目元のしわからは、嬉しさが漏れているようにも思える。

「まだ未完成ですけど、なんとかここまではいきました。勉さんがレシピを教えてくれなかったから、結構苦労しましたよ」

先代の隣に座りながら、冗談交じりにそう言うと、先代も小さく笑って応えた。

「悪かったな。俺も、あんな風に死ぬつもりなかったんだ」

先代が言って、視線を落とす。俺もそこで先代の死を改めて実感し、少し切なくなった。

先代は、四ヶ月に死んだのだ。

「ま、言ってもしょうがねぇ。俺のラーメンがまだこの世にあるとわかって、ちょっと安心したよ」

落としていた視線を戻し、先代は豪快に笑いかけた。髭が点状についている口角をがっと釣り上げ、吹っ切れたように、笑った。

「久しぶりにこのラーメン食っていいか?」

先代がどんぶりを指差した。

「これ、俺が食べようとしたやつですけど、大丈夫ですか?」

「ああ。問題ねぇよ」

「未完成で、荒削りですけど大丈夫ですか?」

「細かいことは気にするな。俺は、この店でお前の作ったラーメンが食えるだけでも幸せだよ」

先代が言って、目の前にある箸の束から割り箸を取り出した。ぱきっと割ってから、小さく合掌する。

「いただきます」

先代の嬉しそうな表情を前に俺は、胸がいっぱいになってしまった。先代に俺の作ったラーメンを食べてもらえる嬉しさはあるが、先代の期待しているような味になっていないことへの申し訳なさや不甲斐なさの方が勝っていた。唇を噛んで、手をぎゅっと握る。

「勉さん....」

つい口をつく。

「なんだよ」

「俺、勉さんが思ってるほどのラーメンを作れてないんです。勉さんのスープにあるような野菜の甘さがなくて、すげぇしつこいラーメンになっちゃって...」

俺の言葉を受け、隣の先代が肩を叩いた。

「お前、俺の味を完全再現しようとしてんのか?」

「はい。先代が遺してくれたこの店に、泥を塗りたくはないですから」

俺が声を震わせると、先代は息を吐いた。少し間を置いてから、話し始める。

「あんまり気負いすぎるなよ。お前のラーメンはお前のラーメンだ。誰のもんでもない。俺のもとで四六時中ラーメンについて考えてたお前なら、どうせうまいラーメンを作ってるんだろ?」

先代は言って、小さく笑った。そうしておもむろに麺を持ち上げ、ずずっと豪快に啜ると、顎を動かし、ゆっくりと咀嚼した。

俺はその姿を、ただ見つめる。

「......うまいじゃねぇか」

先代が目を見開きながら、そう呟いた。先代の視線がゆっくりと、俺の方へ向く。

「なんにも恥じることはねぇよ。俺のを再現するどころか、超えてるじゃねぇか」

先代は俺の肩を掴み、興奮気味に揺すった。

「え? 本当ですか?」

「嘘なんか言わねぇよ。お前も食えばわかる。はっきり言って、めちゃくちゃうまいぜ」

先代は、口角の少し下がった笑顔を浮かべた。その笑顔からは、どこか悔しさも垣間見得る。

「そんなに言うなら食べてみますけど」

「おう。食ってみろよ」

昨日のラーメンが散々だったから先代の言うことは信じ難かったのだが、そこまで言うのなら食べざるを得ない。俺は箸の束に手を伸ばし、箸を取って割る。そうしてゆっくりとどんぶりを俺の方に寄せ、麺を持ち上げると、そのまま口元へ持って行き、啜った。

「どうだ?」

咀嚼し終わり、飲み込むと、驚きのあまり先代の方を見てしまった。確かに煮込みの時間は変えたが、一日でここまで変わるものなのだろうか。そう疑念を抱くほど、格段においしくなっていた。

「な? うまいだろ?」

先代が言う通りだ。麺を啜ると、まず始めに小麦と鶏ガラが合わさった豊かなコクが広がり、その後に香味野菜の爽やかな風味が抜け、鶏ガラのしつこさをうまく中和する。課題にしていた野菜の甘さはが出せているだけでなく、麺も小麦感と硬さのバランスが取れた良い加減の茹で具合で、スープとのハーモニーを奏でていた。

「う、うまいです。昨日までとは全然違いますよ」

「昨日は知らんが、とりあえずうまい。お前、これどうやって作ったんだ?」

先代の顔には、どこか好奇心が滲んでいるようにも見えた。元ラーメン職人として、単純に興味があるのだろうか。

「そうですね。炊き出し方や麺の茹で加減は、ほとんど勉さんの真似です。具材とか煮込みの時間は分からなかったので、かなり試行錯誤を繰り返しましたね」

これまでの道のりを思い出しながら、俺は感慨深さを感じていた。毎日具材を変えながら、具材がなんとなくわかってきた後は煮込みの時間を数分単位でずらしながら、俺は先代に近づくための努力を欠かさなかった。

「スープの具材はなんだ?」

「ベースは鶏で、そこに野菜を加えてます。野菜は、にんにく、生姜、玉ねぎ、セロリ、じゃがいも、しいたけ、にんじん、長ネギで、味を整えるために、すりごまと胡椒も加えます。隠し味にはあごだしを入れてます」

毎日作っているから、さすがに空でこれくらいは言える。俺が言うと、先代は「なるほど」と呟き、「あごか」と今度は大きな声で言い、左の手のひらをポンと叩いた。

「俺が作ってたやつより、もうひと段落味に奥行きがあると思ったら、あごか。俺はあごじゃなくて、煮干しだったんだ」

先代が興奮気味に言って、俺を指差した。

「あ、煮干しだったんですね。なんか、鶏ガラともう一つアクセントが欲しくて、それであごだしを入れてたんですよね」

「あごは大正解だ。鶏ガラにもう一つコクが加わって、本当にうまい」

親指を立ててから、先代はまた麺を啜った。

「何度食ってもうめぇ。このラーメン食ったら、もうなんの心配もないぜ」

先代は言って、またまた麺を啜った。飲み込むと「うめぇ」と唸り、笑顔で親指を立てた。

「さすがは俺の一番弟子だよ」

先代が、屈託のない満面の笑みを浮かべている。

ぴんと立った親指とその笑顔を見ながら、ラーメン職人をやっていて良かったな、と心底思った。


「そろそろかな」と先代が言ったのは、単針が十二時を指しかかっていた時だった。

「もう行っちゃうんですか?」

「ああ。神様からは、一時間までって言われてんだ。死者の蘇生は結構面倒らしい」

先代が、天井を指差しながら言う。

「そうなんですか」

「まあ、しゃあねぇな。死人の俺がお前と会わせてもらってるだけで、ありがたく思わないとならねぇわけだし」

先代が言っては、口を結んだ。視線をしばらく床に落としてから、俺の方にまた視線を戻し、右手を差し出した。

「うまかったぜ。あの味なら、絶対やっていける。何たって、俺が太鼓判を押したんだからな」

そう言った先代の右手を、俺は握り返した。すると、鼻の奥にかすかな痛みが走り、視線が潤んだ。

「あと、なおみのことも頼んだぜ。お前になら、なおみを嫁にやってもいいと思える」

先代の声は少し震えている。俺はただ、唇を噛みしめていた。

「お前の健闘、天国から祈ってるぜ。じゃあな。俺はもう行くよ」

先代の、そんな声がした。が、俺は応えられない。言葉を発すれば、そこで感情が溢れ、止まらなくなる予感があったからだ。

「今まで、ありがとうな」

先代と一緒にラーメンに向き合った日々が、頭の中を駆け抜けて行く。辛いこともあったが、今振り返れば楽しかった。麺の湯切りや、スープの下拵え、炊き出し。そのどれもが、掛け替えのない思い出だった。先代と過ごした日々は最高のものであったと、今でははっきり言える。

「勉さん、ありがとうございました」本心を声に出したが、先代からの返事はなかった。涙が頰から落ちると、右手の感触はもう消えていた。


「店長さん、お疲れ様」

閉店後の店内、売り上げの計算を終えると、なおみに肩を叩かれた。先程までチャーシューの寸胴の前に立っていた彼女だが、作業は終わったのだろうか。カウンター席に座っていた俺の横に、しれっと座っている。

「チャーシューはもう大丈夫なのか?」

「大丈夫です。今タレに漬けておいたから、明日の朝にはタレがよく染み込んだチャーシューになってますよ」

なおみが親指を立て、無邪気に笑った。

「それにしてもなおみ、最近は本当によく頑張ってるな」

先代がうちにやって来てから一カ月が経つが、その間になおみは、見違えるほど成長した。麺の湯切りのにはまだ苦戦中だが、チャーシュー作りやスープの炊き出しはなんとなく形になってきている。

「いや、まだまだです。麺の湯切りもまだできませんし」

「自分に厳しいな」

「そうですかね。でも、自分に厳しくしていかないと、あの人のようにはなれないですから」

なおみは言い、机に置いていた右の拳を軽く握った。

「まあ、無理しすぎるなよ。オーバーワークは作業効率を落とすからな」

「わかってますよ。だからこそ、一段落した今、店長さんのところに来たんじゃないですか」

なおみは言って、ふっと微笑んだ。

その後に少し、間が空く。

俺はそこで、先代の言葉を思い出していた。先代はなおみを嫁にやっても良いと言ったが、なおみはまだ学生の身分で、お互いの気持ちも大事にしなければならない。俺もなおみのことを恋愛対象として見れているかといえば微妙なところだし、そもそもなおみがそれを望まなければ先代の言いつけを守るべきでない。現代は明治時代ではないから、なおみには好きな相手と結婚する権利がある。

「ねぇ、店長さん。店長さんってまだ彼女はいないんですか?」

俺と目線を合わせ、なおみははっきりとした口調でそう言った。少しにやけた表情から察するに、なおみは俺をからかいたいのだろう。

「ああ、いない。絶賛募集中だ」

俺はそう言ってから、口結んだ。

「ふーん。まだいないんですね?」

「いないからどうしたんだよ?」

俺が眉をひそめると、なおみはふっと笑った。

「実は、わたしもいないんですよ。絶賛募集中です」

「は?」

俺が首を傾げると、なおみは微笑んだ。俺はなおみの発言の意図が読めず、動揺する。

「えっと...それは一体何が言いたいんだ?」

「え? 伝わらなかったですか?」

「すまん、わかるようなわからないような感じだ」

俺が率直な感想を言うと、なおみが少し顔を赤らめた。そんななおみの表情を見て、俺の動揺もさらに増し、卓上の箱からティッシュを出し、たまらず鼻をかんだ。

「わからなかったですか...それなら、はっきり言いますね」

なおみが深呼吸をした。

「店長さん。わたし...」

なおみが言いかけると、俺はごくりと唾を飲んだ。が、そこでガラっと勢い良く店のドアが開き、なおみと俺の視線は当然そちらへ向いた。

「どうです? ラーメンはおいしくなりました?」

ドアを開けたまま、禿げあがった頭の中年男性がそう言った。俺は既視感を覚える。風貌は一カ月前と変わっていない。いかめしい眉と、禿頭だ。

「久しぶりですね。おかげさまで、ラーメンはおいしくなりました」

俺はカウンター席に座ったまま、そう答えた。

「そうですか。ならよかったです」

中年男性、神が表情を変えずにそう言った。

「崇めたくなりましたか?」

「そうですね。そういうことにしておきます」

俺が言うと、神の瞼が動いた。

「まあ、有言実行したわけですから、当然私は崇められるべきですよね」

神がにやりと笑った。

「本当に感謝してますよ。最高の時間をくれたわけですから」

俺が言うと、神の口角がだんだんと上がっていった。

「まったく、日本は素晴らしい国ですわ。ラーメンおいしいし、人はみんな素直だし」

神が言いながら、腕を組んだ。

「食べていきます?」

ちょうど試作をするつもりだったから、ちょうど良い。

「あ、今日は遅いんでもう帰ります。まだ日本にいるんで、暇があったらまた来ますわ」

「そうですか。それなら、待ってますよ」

俺が言うと、神はまたにやりと笑い、ドアを締めてどこかへ歩き出した。そこで店内が静まり返る。俺となおみはしばらく意味もなく、店のドア付近を眺めていた。

「あの、さっきの人は誰ですか?」

なおみは眉を下げ、そう訝しんだ。

「あの人はな、一回うちに来た客なんだ。そんで、まあまあ大きな借りがある」

神だと言えば酔狂だと思われそうなので、適当に濁した。

「借りって何ですか?」

「俺に自信をくれたんだ。大げさに言えば、今うちの店がそこそこやれてるのもあの人のおかげかもしれない」

「え? あの人、そんなに重要な人だったんですか?」

「まあ、大げさに言うとそうだって話だ。そんなに気にしなくて良い」

これ以上言及されるとぼろが出そうなので、適当にはぐらかす。

「うーん...そうなんですか?」

なおみが腑に落ちるような落ちないような微妙な表情をしているので、適当に話を振ることにした。

「で、なおみ。さっき俺に何を言おうとしてたんだ?」

「あ、それはまた今度にしますね」

「え? また今度?」

「はい。なんか、突然の来訪者で興ざめしてしまいましたから。このことは後でちゃんと話したいですし」

なおみが言って、髪をかき上げた。黒いショートヘアがなびき、白く綺麗な額が少し垣間見得た。

「そうかい」

俺はそうとだけ答え、メモ紙に書かれた今日の売り上げを見た。ラーメンの味が安定してきたからか、売り上げは順調に伸びている。このままいけば、先代の遺してくれたこの店を、さらに繁盛させられるだろう。今は、ラーメンの味を維持するよう努めたい。

「あ、もしあれだったら、店長さんから言ってきてもらっても良いですよ?」

隣の座るなおみが、ふいにそう言ってきた。

「は? それはどういうことだ?」

「あ、わからないなら良いです」

そう言っては思わせ振りに笑い、なおみは立ち上がった。

「店長さん、今日はラーメンの試作、しないんですか?」

「するよ。今日も、麺の湯切りとはなんたるかを、みっちり教えてやるよ」

「そうこなくっちゃ。じゃあ、今日もよろしくお願いします」

なおみが軽く頭を下げてから、厨房へ向かった。それに続き、俺も厨房に入る。ガスの元栓を押し回ししてから、スープの入った寸胴にライターで点火した。




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