嵐の前の静けさ
月に一度の管理職会議は重苦しい空気で始まり、重苦しい空気のまま終わった。
どこの部署も思ったように数字を伸ばせず、目標値を達成できていない。リーマンショックの影響もあるが、その前年に過去最高益を叩き出してしまったのが痛い。比較する数字がでかい分、前年度からの落ち込み度合いが大きく見えてしまう。
そろそろ客先の減産調整も落ち着き、それまでの反動で注文数が増えてくるとは思うが、その先に待っているのは客先からの値下げ要求と支払条件変更の打診だ。どの会社も徹底的なコスト削減を打ち出しているから当然の流れだろう。
どの課の課長も皆一様に暗い顔をしていた。
営業部に明るい話題を提供するのが、マーケティング部に属する市場開発課の役割なのだが、うちの課でも明るい話題は出せなかった。新たな客先や業界を日々開拓し、引き合いも増えてはいるのだが、それを受注獲得まで持っていくにはもう少し時間が必要だ。
そんな中で唯一明るい顔をしていたのが、技術営業支援課の佐々木課長だ。3月に定年退職したヤマさんから引き継いだ案件に動きがあると報告していた。
それは規模が大きく経営状態も良好で申し分のない会社の案件だ。けれど歴史がある会社な分、保守的で封鎖的なところがあり競合他社の牙城を崩すことができないでいた。
ヤマさんは当初、ある営業課のサポートでその会社に関わっていたが、いつの間にか自分がメインで動くようになっていた。可能性がないと早々に判断した営業課の奴らとは対照的に、ヤマさんは時間を見つけては訪問し、担当者から色々な話を聞き出し、それに対する提案をたくさん出していた。今は無理でも近いうちに必ず潮目が変わると断言していた。
その機会が訪れたのは、奇しくもヤマさんの定年退職後だった。
向こうの経営陣の交代により方針が変わり、プレゼンする機会を得られたらしい。
担当者はうちに興味を持っているので可能性はある。しかも金額のインパクトがでかいときた。
佐々木課長がでかい顔をするのもわかる。だが、これはチャンスが来た時に動けるようにと、足繁く客先に通って担当者の信頼を得てきたヤマさんの尽力によるものだ。それなのにプレゼンの場にヤマさんがいないとは……。他部署のことに口出しする権利などないが、スッキリしないものがある。
「いや~どこの課も大変だね」
「そうですね……そちらが羨ましいです」
会議室を出るなり、佐々木課長が話しかけてきた。他の課長が営業本部長から叱責を受けていた中、自分だけ褒められていたのでご機嫌だ。
「うちだけが良くてもね。谷崎も頑張って数字上げてくれよ」
「ええ……頑張ります」
ヤマさんが稼いだ案件のくせに偉そうに語るなと言いたいが、それを口にするほどガキではない。
けれど、佐々木課長の自慢に付き合う気もないので適当に聞き流し、話題を変えてやる。
「そう言えば、姫島さんはどうですか?」
「姫島さん? いいねぇ、可愛くて素直でやる気もあるし。仕事は頼みやすいし……女性社員達からも評判がいいよ。前とは大違いだ。何だ? 今更、元に戻してくれってか? やめてくれよ」
姫島のことだけを聞いたのに、余計なことまで喋りやがる。それに……わかっていない。一体コイツは部下の何を見ているのだろうか。
確かに柏原はやる気がないように見えるが、指示した仕事のクオリティーは、そっちの部署の女子社員達より遥かに上だ。
定時になったらさっさと帰るが、その代わり余計な休憩時間は一切取らずに日々の業務にあたっている。
自分の部下をバカにされるのはいい気がしない。派遣社員の柏原は厳密には部下と言えないのかもしれないが……。
あいつの覇気のなさの原因はこれか? と思ったが、柏原が佐々木課長ごときの評価で落ち込むわけがないと考え直す。
矛盾しているようだが、柏原の覇気のなさには芯が通っているような気がする。
それにしても……不可解なのは姫島に対する評価だ。
好意的なのは構わないが、やる気があるだの仕事を頼みやすいだの。
そもそも女性社員達と柏原の仕事は別だったはずだ。それは柏原の仕事を引き継いだ姫島にも言えることだろう。それなのに評判がいいって……それって、いいようにこき使っているってことじゃないのか?
俺は姫島に対して、忙しさにかまけて教育してやることができず、簡単な仕事しかさせなかったという負い目がある。直属の上司ではなくなったが、元上司としての責任はまだ残っていると思っている。
気が進まないながらも姫島を技術営業支援課に異動させたのは、彼女の体調を第一に考えてのことだ。余計な仕事を押し付けられて、無理をし過ぎて何かあったら……一応、釘を刺しておくか。
「元に戻すなんてとんでもない。柏原さんはとても良くやってくれてますよ。それより……俺が言う資格は無いんですけど、姫島さんは妊娠しているので配慮してやって下さいね」
「ああ、わかっているよ。大丈夫だから」
軽い口調に、こいつは絶対わかっていないと頭の中に不安が過る。だが、しつこく言い過ぎるのも逆効果だ。近いうちに大路や南を通して状況を探ってみよう。
そんな俺の思いを知らずに佐々木課長は次から次へとどうでもいい話をしてくる。俺には佐々木課長の無駄話に付き合う趣味はない。コーヒーを買いたいので失礼しますと会話を打ち切り、休憩室へ向かった。
休憩室に入るなり、耳障りな女達の声が聴こえてきた。
技術営業支援課の女性社員3人組だ。テーブルの上には下のコーヒショップのカップが乗っている。何を話しているかなど気に留める気もないが……飲み物の減り具合を見ると、相当な時間をここで過ごしているのだとわかる。
不快を通り越して笑えるくらいのサボり度合いだ。
こうしてサボった分で残業か……本当にたちが悪い。
俺が上司ならこいつらの残業申請は却下するが、それをやる気があると判断して承認する課長がいるんだから……自分の会社ながら本当に愚かな会社だと思う。
市場開発課に戻り自分の席につく。ノートPCをセットしつつ、周囲を見渡す。
大路と南、そして柏原がいる。
客先帰りの大路の報告を聞きつつ、柏原の様子を窺う。その目はPCの画面だけを見つめ、手を休めることなくキーボードを叩いている。
相変わらず2時間の壁を守っているが、最近は少し余裕がなくなってきたように見える。もっとも、仕事の難易度も分量も増やしているから当然なのだが。
柏原は俺の作戦に気づきつつあるようだが、今のところは素直に従ってくれている。もっと扱いにくいタイプかと思っていたが、仕事に関してはその心配は杞憂だった。
柏原は意外と単純で負けず嫌いだ。
これはちょっと厳しいかなと思う指示でも「無理ならいいけど」と一言添えればやってのけてしまう。
かと言って、何でも引き受けることもしない。試しに明らかな無茶振りをしてみたら、理路整然と理由を述べた上で断ってきた。
しかも、柏原は「できません」で終らせるのではなく、「ここまでならできますが、どういたしましょうか」と伺いを立ててきたので恐れ入る。
こいつの仕事ぶりは元々の素質もあるだろうが、前の会社で彼女を育てた上司の影響も大きいと思っている。その上司に部下の教育方法や育て方をじっくり尋ねてみたいものだ。……ついでにこの部下が心を許してくれる方法も。
それでも、柏原が来てくれて本当によかった。
心からそう思っている。
さてと……俺もやるとするか。部下より仕事をしないわけにはいかない。
さっき購入した缶コーヒーを喉に流し込み、仕事モードに頭を切り替えかけた時、息を切らした佐々木課長が視界に飛び込んできた。
「谷崎君! 助けてくれ」