見てはいけないもの
「うわっ……ギリギリ」
取引先からオフィスの自席に戻ると、机に置いてある時計は12時50分を指していた。
今日は金曜日。
柏原に異動の話をする日だ。と言っても、打ち合わせは午前中に終わったので、今はもう告げた後になる。
本来であれば俺も大路と姫島の上司として、また新しい上司としてその打ち合わせに同席する予定だった。だが、急遽取引先に向かう必要ができてしまい、欠席することになった。
その代わりにと午後イチで柏原との面談を設定したのはいいのだが、取引先での商談が予想以上に長引き、急いで帰社したもののギリギリの時間になってしまった。
柏原に対する今回の異動に関する説明は部長に頼んでおいた。彼女が異動をどう思うか少し気がかりだったが、部長からのメールによると快く了承してくれたらしい。
大路には今回の異動の件で柏原に迷惑をかけるのだから、その旨の挨拶を忘れないようにと指示しておいた。抜かりなく順調に事は進んでいると思うが、今回の異動を企てた者として早急に柏原と顔合わせをする必要がある。来月からの異動が上手く行くように、コミュニケーションを取っておきたい。
「……にしても、腹減った」
と呟いたところで、まともな昼食を食う時間など残されていないのはわかっている。
非常食でしのぐしかないと引き出しを開けたが、常備してあるはずのゼリー飲料の姿は見当たらなかった。連日の残業で全て消費してしまっていたらしい。
こんな時に限って……心の中で舌打ちをする。こんなことなら電車を待っている間にミネラルウォーターの他に何かつまめる物でも購入しておくべきだった。
残っていたミネラルウォーターを一気に呷るが、腹は膨らまない。仕方ない……休憩室の自販機のおしるこドリンクで我慢するか。あれでも何も食わないよりかはマシだ。一応、豆だから腹も膨れるだろう。
普段は昼飯を外で済ませる事が多く、この時間帯に休憩室に来る事は無い。
午後の始業時間が迫ってきているので、誰もいないだろうと思っていたら、長椅子に一人の女が寝転がっているのが見えた。
この時間にいい度胸だなとそっと長椅子を覗き込んだ。
「……」
見覚えのあるその顔に、ため息がこぼれる。
午後イチで俺と面談予定の人間が何でこんな所で熟睡しているのか……。
そう、こいつが来月から俺の課に来る予定の柏原だ。こっちは急いで帰社し、昼飯をおしるこドリンクで済まそうとしているのに。それにしても……。
「色気の無い寝顔」
オフィスで女性が眠っている──男性側からすると結構そそられるシーンだと思うが、この女からは全くそれを感じない。
──お前は何と戦っているんだ? と尋ねたくなるほど、眉間に皺を寄せて眠っている。
色白で綺麗な肌なのに跡が残るぞ? と伸ばしてやりたい衝動に駆られるが、そんな真似はできない。
「……ん」
なす術もなく柏原を観察していたら、柏原の口元が動いた。それと同時に眉間の皺も緩んだ。
よかった──と、ほっとしたのもつかの間、今度は閉じられている瞼から涙が流れた。そして……小さく唇が動いた。
「……大路さん」
か細い声だったが、その声の主が告げた名前を俺の耳はしっかりと捉えた。
……どうやら俺は、見てはいけないものを見てしまったらしい。
涙を流して大路の名を呼ぶ。
それが何を意味するか……色恋に疎い俺でもわかる。
──大路が好き。
「そうだよな……」
惚れている男ができ婚するって聞かされただけでもダメージくらったのに、その結婚のせいでその男の部署に異動を命じられ……毎日顔を合わせる羽目になったのだから。
「そりゃ……泣きたくもなるよな」
快く了承という部長の言葉を額面通りに受け取ってはいたが……本心では断りたかったに違いない。だけど、派遣社員の立場では無理だ。
俺と部長も今回の異動の件で、柏原に断られることは想定していなかった。
柏原が断るということは、彼女の契約終了を意味する。
姫島の技術営業支援課へ異動は決定事項だ。
姫島が異動すると、あの課は人員超過になる。柏原が異動を受け入れなかった場合、必然的に派遣社員の柏原を切ることになる。彼女はそれをわかっていたのだろう。すぐに別の派遣先が見つかるならともかく、リーマンショックの影響が色濃く残っている今では状況が悪すぎる。
柏原の胸中を想像すると辛いものがある。
だが、ここは会社だ。
会社は仕事をする場所であって、恋愛をする場所ではない。故に部下の恋愛事情に配慮する必要など俺には全くない。
たとえ俺が柏原の気持ちを知っていたとしても、俺は今回の異動を決行した。それは、市場開発課がこれから数字を伸ばして、会社の利益に貢献するのに必要だと判断したからだ。
と言うものの、やはり妙な罪悪感を感じてしまう。
あの二人の結婚は俺のせいではないが、柏原の異動には俺の意向が絡んでいる。そう考えると……いたたまれなくなってきた。
おしるこドリンクも買わずに、俺はそそくさと休憩室を後にした。
13時になったので、予約していた会議室に向かった。
あの状態を見てしまった以上、柏原が遅刻してきても大目に見ようと思っていたが、意外な事に柏原は席に着いていて、俺を見るなりすっと立ち上がった。
「柏原と申します。来月からよろしくお願い致します」
さっきとは違いしっかりと話すその声は、ちょっと硬めな感じがするが、まっすぐ届いてくる聞いていて気持ちの良い声だ。
「谷崎です。こちらこそよろしく。取り敢えず座ろうか」
挨拶も程々に、席に座り柏原と向き合う。
「……っ!」
柏原の顔を見た瞬間、思わず吹き出してしまった。
……顔に長椅子の跡がついている。それはもう、見事なくらいに……。
休憩室で見かけた時には気づかなかったのに……よりによって今、気づいてしまうとは。笑ってはいけないとわかっているが、さっきのシリアスな雰囲気との落差がツボに入ってしまい、肩を震わせてしまう。
柏原はそんな俺を思い切り怪訝な顔で見ている。
「あの……何か?」
「ごめん……顔に見事な跡が付いてて」
デリカシーがない。
我ながらそう思うが、上手い言い方が思いつかなかったので正直に告げた。寝言で大路の名前を呼んで涙してた姿を俺に見られてたなんて、知りたくもないだろうし。
「……」
柏原は顔を真っ赤にして黙り込んだ。
恥ずかしさ3割、俺への怒り7割って感じか?
しまった……これから一緒に働く部下を怒らせてどうする。柏原は今後の市場開発課にとって必要な人材だ。
「すみません。見苦しいものをお見せしてしまって。少しだけ時間を頂けますか?」
「え?」
「下のコンビニでマスク買って来ますからっ!」
俺の了承を得ることなく、柏原は会議室を出て行った。数分後、マスクで顔をガードした柏原が戻って来た。跡は見えなくなったが、表情を探れなくなってしまった。
「今回は突然の事で申し訳ない」
課の責任者として詫びる。
「いえ」
愛想の欠片もない機械的な返事が返ってきた。その態度に引っかかりはしたが、さっきの失態を考えると何も言えない。気を取り直して面談を続ける。
「部長からは柏原さんが了承してくれたと聞いているけど、どんな風に説明を受けている?」
「……基本的には技術営業支援課の仕事と変わらないと……業務は多少増えるけど、谷崎課長にフォロー頂けるので心配はないと伺いました」
「うちの課に異動するにあたって、不安とかはある?」
「はい、私は派遣社員なので……社員の方がされているお仕事ができるかどうか……不安に思っております。ですが、先ほど南さんに姫島さんは主に庶務をされていると教えて頂きました。それでしたら、派遣社員の私でも何とか対応できるかと考えております」
謙った物言いに丁寧な口調。
しかし、その声はどこか機械的で、言葉の裏からは「余計なことは一切押し付けるな」という強い意志を感じる。
……気に食わない。
可愛げがないにも程がある。これから一緒に仕事をしていく相手に対しての態度とは思えない。いつもだったらスルーできるのだが、今は空腹なこともあって、柏原の言動に苛ついてしまう。だが、それを表に出したら負けだとわかっているので、平然としたふりと続ける。
それにしても……南の奴め。余計なことを喋りやがって。
だが、ここで下手に柏原を刺激して辞められても困る。せっかく立てた計画が無駄になるし、新しい派遣社員を雇うにしても、選考する手間と時間が惜しい。それに……まだ確信は持てないが、柏原は仕事ができる部類の人間のような気がする。自慢ではないが、俺のこの手のカンはよく当たる。
「確かにね。ただ……うちは技術営業支援課みたいに甘くないから、そこだけは覚悟しておいて」
「は?」
「あの部署と同じ感覚で仕事をされると困るってこと。あと、社会人1年目の姫島さんと、派遣社員とは言えこの会社に2年いる柏原さんの仕事が同レベルなわけないよな? しかも、柏原さんは他の会社でも社会人してたわけでしょ? 言わなくてもそんなことぐらいわかっていると思うけど……」
言いたい事は色々あったが、やんわりと釘を刺す程度に留めておいた。
マスク越しでは表情をよく探れないが、俺の言葉にむくれているのはわかる。元の丸い顔が更に丸くなっている気がする。白くてまんまるな顔をして……大福だな──って、腹の減りすぎだ。そろそろ切り上げて何か食おう。
こうして険悪な雰囲気を残したまま、柏原との面談が終わった。
お互いの印象は最悪だったが、過ぎてしまったことを悔やんでも仕方ない。徐々に悪化するよりマシだということにしておこう。仕事に対してのプライドは高そうなので、仕事を通して関係を改善することもできるかもしれない。
それよりも今はメシだ。腹に何かを入れないと本当にヤバイ。
そうだな……下のコンビニでおにぎりと大福でも買うとするか。