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プロローグ

 朝7時。

 ベッドの周りに置いてある目覚し時計やケータイのアラーム音がけたたましく鳴り響き、俺を眠りの世界から引きずり出そうとする。

 朝を苦手としている俺は、いつもギリギリまで眠りの世界に居続けようと抵抗し、瞼を開くまでに時間がかかる。

 だが、今日はいつもより素直に覚醒した。

 それは隣に眠る大切な存在のため──というはずだった。


「……あれ? どこ行った?」


 二人で眠っていたはずのベッドには、俺一人しかいない。

 他の部屋にでも行ったのだろうか?

 重い頭を抱えながらも、寝室を出て彼女の姿を探す。

 けれど、シャワーの音もしなければ、台所から旨そうな匂いもしてこない。もっとも、台所で料理をしている姿なんてはなから期待していないが……。


「あれは夢だったのか」


 ぼんやりとしながら考えたが、鍵がかかっていない玄関のドアに、きちんと並べていたはずの靴達が乱れていたのを目にして、現実だったのだと思い直した。

 夢じゃなかったことにほっとすると同時に、俺が目を覚ます前に彼女がここを去ったことを思うと言いようのない虚しさが襲ってきた。

 

「……シャワーでも浴びるか」


 月曜の朝から感傷に浸れるほど、俺は若くも無いし暇でも無い。軽く自分の額を叩き、着替えを取りに寝室へ戻った。


「……って、おい」


 寝室に戻るなり、ベッド周りに残された彼女の痕跡が目に入った。想定外なものに思わず大きなため息が零れる。

 こんなものを忘れて行ってしまうほど、急いでここから逃げ出したのか?

 そう考えると軽く落ち込んでしまう。それにしても……。


「一体、これをどうしろと?」


 彼女が眠っていた場所を見つめ、一人虚しく呟いた。


 鬱々とした気持ちのまま、いつも通りの時間に出勤すると、オフィスにはまだが人気なくひっそりとしていた。

 市場開発課のエリアの電気をつけ、自席に向かった。

 課を預かる人間として、可能な限り早く出社するように心がけている──と言うと、立派なことをしているように聞こえるが、単に会社までの所要時間が30分という場所に住んでいるからやれてるだけの話だ。


「今日は二日酔いの奴が多そうだな」


 誰もいないオフィスで独りごちる。

 昨日は自分の直属の部下の結婚式と披露宴だった。

 去年2月のできちゃった婚から1年2ヶ月後の式は、新郎新婦と二人の間に誕生した娘を祝福する温かい空気に満ち溢れていて、とてもいいものだった。

 俺が率いる市場開発課からは、出張中の南を除いた課のメンバー全員が出席した。俺は自制していた方だが、若い連中は見境なく酒を飲んでいた気がする。それで業務に支障をきたすような指導はしていないが、少し心配ではある。

 それにしても……。

 彼女はどうするつもりなのだろうか。

 あれから自宅に帰ったのか?

 彼女の自宅から会社までは1時間はかかるはずだ。普通に考えたら、就業時間の9時に間に合わない可能性が高い。

 真面目な彼女のことだから、これで会社を休んだりはしないと思うが……遅刻しても構わないから出社してもらいたい。

 今後のこととか、話したいことが色々ある。だが、まずはあれを彼女に返さないと落ち着かない。

 デスクの下に置いてある自分の鞄を見やり、ため息がこぼれる。

 まったく……シンデレラにでもなったつもりか?

 だとしても、あんなものを残してくれるなと言いたい。


「……仕事するか」


 鞄を眺めていても仕方がないので、ノートPCを開いて、頭を仕事モードに切り替えた。



「おはようございます」

「おはよう」


 8時45分──始業時間の15分前。

 意外なことに彼女いつも通りの時間に出社してきた。

 俺を前に動揺した素振りを見せるかと思いきや、いつもと同じ表情で同じ声のトーンでの挨拶ときた。

 ……何だ? この色々と腑に落ちない感じは。

 出社してきた時刻から逆算して考えると、自宅には戻っていないようだ。だとしたら、服装とかはどうしたのだろう。

 書類をチェックするふりをしながら、こっそり彼女を観察してみる。

 ……なるほどな。

 それなりに上手く誤魔化してある。

 披露宴での彼女は黒のワンピースというシンプルな装いだったが、髪を綺麗に上の方で纏めて、いつもよりも派手めのメイクを施し、キラキラしているネックレスやイヤリングを合わせて華やかに見せていた。それだけではなく、ヒールの高い靴に大胆な柄の入ったストッキングを合わせていて……それが彼女の足の綺麗さを際立たせ、多くの野郎どもの視線を集めていたから、こっちは気が気じゃなかった。当の本人は、そんなことに露ほども気づいていないだろうが。

 対する今の彼女はというと、昨日の黒いワンピースの上に水色のカーディガンを羽織っている。

 ヒールの高い靴はそのままだが、合わせているのは黒色のストッキングのようだ。アクセサリーは外してあり、メイクもいつもの彼女と同じナチュラルなものになっている。複雑そうだった髪型もシンプルに後ろで一つに纏めてある。

 ……よくやったな。

 普段通りっぽいぞ。

 ぱっと見、男の部屋から朝帰りしてきた女には見えないぞ。

 よかったな。

 そういうのに鋭い南が出張中で。

 ──と心の中で彼女に毒づいた。

 

 彼女は俺が観察しているのに気づかず、いつも通りにPCを立ち上げ、淡々と仕事をこなしてやがる。

 ムカつく。

 こっちは朝から気を揉んでいるというのに。

 慣れているのか? 

 だから俺の前でも平然としていられるのか?

 ……って違うか。こいつがそんな女だったら、惚れたりなんかしない。

 じゃあ何だ?

 忘れているのか?

 それとも精一杯忘れているふりをしているだけか?

 ……どっちもあり得る。

 仕事は完璧にこなすくせに会社に携帯を忘れて帰ったり、何も無いところで転びそうになったり……妙なところで抜けている。

 それが俺が惚れている「柏原つぐみ」という女の特性だ。


 34年も生きていればそれなりの恋愛経験がある。その中には結婚してもいいと思える相手もいた。

 けれど……。


「私のことそんなに好きじゃないでしょ?」

「彼の方があなたよりも私のことを愛してくれるから……」


 ──的な理由で消滅した。

 自分なりに相手と誠実につき合っているつもりだった。だが、俺は交際相手に対してドライ過ぎたらしい。

 言われてみれば、相手と一緒にいて心地良いとは思ったが、激しい感情は抱かなかった。どこか冷静に恋愛をしていた。現に相手から別れを告げられても、自分の心は平静だった。

 俺は恋愛にうつつを抜かす人間ではないのだ、と前の彼女との別れで漸く悟った。

 俺の兄や弟は早々と結婚し子供も作っている。

 実家における俺の立場が微妙なことは言うまでもない。課長に昇進したと告げた時に、母からあらゆる結婚相談所の資料が送られてきた時には、苦笑するしかなかった。

 お見合い結婚も考えなくはなかった。

 仕事や年収といった条件は悪くないはずだから、きっと相手が見つかると周囲には言われる。

 だけど、運良く出会えたとしても、相手のことを情熱的に想える気は到底しなかった。そんな俺の女性に対するテンションの低さを考えると、結婚してから、「私のこと好きじゃない~」とか「彼の方が私のこと~」と言われる面倒な予感がして、気が進まなかった。

 それよりも仕事に集中したかった。

 昇進は嬉しかったが、最年少課長という肩書にかなり煩わされたのも事実だ。

 さすがに最年少課長様は……と何かにつけて言いやがる課長以下のオヤジどもに、最年少課長という響きに勝手なイメージを抱き、勝手にガッカリしやがる女性社員ども。

 耳を塞いでも聴こえてくる周囲の雑音は、立場や環境の変化に必死で適応しようとしていた俺を余計に疲弊させた。

 そんな鬱陶しい雑音から解放された時、しばらくの間は仕事のことだけを考えてやると俺は強く思った。そうやって仕事にのめり込んでいくうちに、恋愛や結婚のことはどうでもいいと思うようになっていった。家族も俺の様子を見て「こいつは仕事バカの残念な草食系男だから結婚は無理だ」と諦め、望み通りの仕事に集中する日々を送っていた。

 そんな自他共に認める仕事バカな俺が一人の女性に興味を持ち、上司の権限を使って強引に夕飯に誘ったり、彼女が気に入りそうな店を密かにリサーチしたり、彼女に近づこうとする男を阻止したり……。挙句の果てに酔っぱらっていた彼女の挑発に乗り、見境なく抱くとは……俺は恋愛にドライで仕事バカの残念な草食系男のはずだったのに。

 この歳になって本気の恋をこじらせるなんて、夢にも思っていなかった。

 この厄介な恋の始まりは、一体どこからだったのだろう?

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